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【金曜:本の話⑩】感想~切りとれ、あの祈る手を(3)

こんにちは、アスカです。

ジブリの新作が今日公開と聞きました。
前後して金ローで放映されるのがナウシカともののけ姫なので、
そういう路線のやつなのか…いまの自分に観られるかな(メンタルの基礎体力が低い)と思っています。

子どもの頃に好きだったジブリ作品はその路線だったんですが、
いまは観るのに気合が要りますね…。

さて金曜日、本の話。
いつまでも終わらない感想です。

今回は内容説明が多めかなと思います。
私が衝撃を受けたこの内容を知ってほしいって思うので。

前回はこちら↓


<ルターに関する記憶>

マルティン=ルターといえば、キリスト教史においてあまりにも有名な人物である。

16世紀のドイツに生まれ、贖宥状(免罪符)に象徴される、腐敗の極みにあった当時の教会秩序に対して「九十五箇条の提題」を提示。
キリスト教にプロテスタントと呼ばれる派閥ができる元となった、世に言う「宗教改革」の中心人物。

このルター、私のキリスト教知識においてかなり古いところにいる。

キリスト教を理念に据える学校に通った関係で、
私は世界史の授業で習うよりも早く、ルターの名を知った。
学校がプロテスタント系だったためだろう、
(カリキュラムに当然のようにあった)聖書の授業の初回で出てきた名前だったと思っている。

当時は教師(牧師)の世代もあり、「マルチン=ルター」と表記された。
その牧師がなかなか特徴的な字を書く人間だったので、
ルターの名は、そのフォルムとともに私の記憶に刻まれている。

しかし、実は私は彼のことを字面でしか知らなかったのだと、
本著を読んで感じることになった。

同時に、教科書や授業で見聞きして「知っている」ことなど、
実際にはただ陳列棚を眺めた程度の理解度にしかならないのだと思い知らされたのである。

”第二夜 ルター、文学者ゆえに革命家”では、
筆者はこの「宗教改革」を「革命」として語る。

<革命の本体とは文学である>

この章で、本書のテーマである「革命の本体とは文学である」という話に入ってくる。

革命は文学からしか起こらないし、文学を失った瞬間革命は死にます。

(P80、L7)

一見すると、革命には英雄的・道義的な理念が必要で、
そういった理念のない革命には魂がない、と言っているようだが、
そういうことではない。

筆者は(ほかの学者も支持することとして)、
世界史上で起こった「革命」を以下のように抽出する。

1.中世解釈者革命(教皇革命/叙任権闘争とその後の150年間の動き)
2.大革命(ルターの「宗教改革」)
3.イギリス革命(名誉革命)
4.フランス革命
5.アメリカ革命(アメリカ独立戦争)
6.ロシア革命

このうち4のフランス革命辺りから流血の度合いが深刻になっていき、
現在は、革命と言えば「暴力と流血によって社会を変革することである」という認識ができあがっていると言っていい。

「革命」を標榜することは過激派(ラディカル)のニュアンスを含み、
”暴力革命ではないと革命でないと思っている。暴力こそがラディカルであると思っている(P51、L13~14)”節が、標榜する当人たちにだけでなく、社会全体にある。
かく言う私もそうだった。

だが、特に1と2について、
「文学」から起こった真の意味での「革命」である、というのが筆者の主張である。

ルターが「聖書を読んだ」ために、
「世界(当時は”教会”が世界だった)の秩序はまったく聖書に則っていない」と気づいてしまったことが発端となり、世界が作り直された。

すなわち革命とは、元来、文学(テクスト)が先行するものなのだ、と。

<ルターの「大革命」>

日本では「宗教改革」と呼び慣らされているこの一件は、
ドイツ語でも英語でもReformation(大改革)と呼ばれているものの、
筆者は上記の「中世期解釈者”革命”」(のちの章で取り上げる)から、このルター由来のReformationを「大革命」と呼んでいる。

元々農民の子であったルターが、聖書博士となり、隅々まで聖書を読んだ結果、
当時の教会・聖職者の行い、そもそも教会によって作られた社会秩序についての根拠が、なんら聖書の記述に求められないことを発見してしまった。

「根拠のない秩序」の象徴的なものとして語られるのが、「贖宥状(免罪符)」だろう。
対価を支払い贖宥状を購入すれば、犯した罪が許される、というものだ。
(「この壺を買いなさい」に似た響きを感じてしまうのは私だけだろうか。)

この贖宥状に代表される教会秩序の腐敗に対し、ルターは1517年に有名な「九十五箇条の提題」を提示、結果として”異端”と判断されるに至る。
しかし、彼の「聖書に明示されている内容になら従う」という徹底したスタンスがドイツ中に行き渡り、大きな「革命」の流れを作っていくのである。

この7年後の1524年、ドイツ農民戦争が起こる。
農民が、教会に対してやはり「恣意的な(正当な根拠のない)支配を改めよ」という文書要求を行ったところ受け入れられなかったため、武力反乱に至ったものである。
(なおルター自身は武力を用いた抗議に反対の立場であり、彼の「裏切り」のせいで農民側は「敗北」、農民戦争は「失敗」であったとされる)

なぜ、農民にこのような動きが生まれたか。

ルターは(当時識字率5%だった)ドイツ語で聖書を書き、本を出版した。
印刷技術のおかげで、それが売れに売れた。
読めない人は、読める人から聞くことでその内容を知ることができ、
「社会が合理的根拠(当時の発想で言えば「聖書に準拠した」もの)によって形成されていない」、
つまり「自分たちは不当に搾取されている」ことに気づいてしまった。
読んでしまったから、気づいてしまったのである。

筆者はこの一連の流れをして、
「革命の本体は文学である」と主張する。
文学=テクストから革命は始まり、暴力はその派生物である、と。

ここで、先に引用した一文を再度見ると、印象が変わるのではないだろうか。

「革命は文学からしか起こらないし、文学を失った瞬間革命は死にます。」

革命に道義的理念がなければならないのではなく、
テキストに準拠した要求が走り出した結果社会を変えるのが革命であり、
暴力はその変革までの流れの中に含まれる一事件に過ぎない。

文学がなければ革命は生まれない。
ゆえに、文学が衰退し失われれば、暴力をも内包する革命も失われる。

けして、文学の中から都合よく抜き出されたような、甘美な理念を掲げて行われる盲目的な暴力行為を革命と呼ぶのではないということだ。
これについては、本書の後の章でも語られる。

以下、感想その4に続く。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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2023年7月14日
#asuka_76
#毎週金曜は本の話

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