見出し画像

【日曜:雑多な話③】私と”世界”の話~「広島」と「ある事件」

こんにちは、アスカです。
日中の日差しが強いですね。しかしまだ何とかしのげる。

さて本日は、先週の予告通り「広島」と「ある事件」について書きます。

<広島市育ち>

奇しくも本日、広島G7サミットが閉幕しました。
GWに帰省した時点で、県外から応援に来ている警察のパトカーを数多く目撃しました。学校が休みになったりで、地元は大変そうです。
ひとまず無事全日程が終了したことに安心していますし、
この会合が単なる政治パフォーマンスの場にならず、世界情勢にとって良いものとなるよう祈ります。

それにしても、山口県岩国市の米軍基地と、広島県呉市の自衛隊駐屯地に東西から挟まれた形の広島市。
平和都市と言いつつ、実は”すぐに対応できる”都市なんだなといまさら感じました。

私はそんな広島市育ちです。
小学校から高校までを過ごしただけなので、正直「出身」と言っていいのか迷います(笑)もう県外で過ごしている時間の方が長くなってしまいましたし。

ただ、いわゆる「多感な時期」を過ごした場所、という意味なら、
「出身」と呼べるのは広島なのだろうかと思います。

広島市と言えば、世界的にはおそらく京都の次に有名な日本の都市。
その理由は、「人類史上初めて原子爆弾が投下された街だから」に尽きます。

広島市で育つ子供は節目節目で平和記念資料館を訪れますし、学校によっては8月6日が登校日だったり、逆に公的機関はその日休館することもあります。

高校の頃の教師が、「広島を出たら、(県外の人は)原爆のことなんて全然知らんけぇの」とよく言っていました。
果たしてその通りだったわけですが、福島原発の事故の辺りで特にそれを強く感じたなあ。
あの年だけ、平和記念式典(原爆が投下された日の慰霊式典)がやたら取り上げられたもの。あの年だけ。

それはさておき、広島で育ったことは私の人生に大きな影響を与えています。正直、ふるさとと思う土地ではないのだけれど、人生で一番大きな場所はと訊かれたら広島と答える。
広島で育ったことで、書くようになったのかもしれないとすら思う。

私の創作活動も、きっと一つの疑問から始まったのです。
「なぜ戦争は起こるのだろうか」。

<戦争から「世界」を考える癖>

広島市では、徹底して「平和教育」が行われます。(「洗脳」めいたところはありますが。)
小学校の頃の教室には昨今話題の「はだしのゲン」があったし、
夏休みに配られる宿題用冊子に収録されている物語は核兵器関連のお話だったし(他県でもそうですか?)、
同じく小学生の頃には(これは担任の趣味ですが)、核実験を行った国に抗議のはがきを書いたりもした。
(余談ですが、この時担任に「(はがきは)せめてインパクトだけでも強くしないと。どうせちょっと見られて捨てられる」と言われたことは重要な教育だったなと振り返って思います)

中学高校は、実際に原爆でたくさんの生徒が犠牲になった学校だったため、力を入れた平和学習を行っていた。修学旅行先には当然のように長崎と沖縄が含まれました。

核兵器は恐ろしい、それを使わせる戦争は恐ろしい、だから二度と起こしてはならない。
長崎が最後の被爆地にならなければならない。

それは特に広島や長崎でなくとも、世界の常識なのだろうと思っています。
正論であり理想です。

しかしその裏で、世界では戦争が起きていた。
日本は直接的に巻き込まれなくとも、けして世界は平和とは言えない。

なぜ、戦争が起こるのだろう。
戦争とは、どのようにして起こるのだろう。
世界をそのように動かすのは一体何なのだろう。

その疑問は、究極的には「人の行動」「行動の動機」への興味に向かいます。

戦争も、結局は人間が起こすもの、人の心が起こすものだと思った。
自分を含め、すべての人が当事者たり得る。
最終的に自分の命に関わってくるから当然の話のはずなのに、
土壇場になるまでそれに気づかないことが多いように思う。

なぜ、気づいた時にはもう遅いのだろう。
何がどうなって、人は破滅に向かうのだろうか。

そんなことを考えてしまうせいで、私はハッピーなお話が書けないのだと思います。

世界を、あまりに戦争と結びつけて考えすぎている。
その自覚があります。

<とある事件>

広島に育てば、戦争は身近なものです。
「戦争は一度始まれば終わらない」と肌で知る環境がある。

ただ、自分はいたって平穏とした暮らしをしていて、
戦争について学ぶのは「歴史を学ぶこと」であり、
他の科目の勉強と変わらない次元に置かれたままになっていてもおかしくなかった。

そんな時、私は新聞の一面で「ラビン首相暗殺」というニュースを目にするのです。

イツハク=ラビン(Yitzhak Rabin)1922.3.1~1995.11.4.
イスラエルの軍人、政治家。
93年9月、PLOの Y.アラファト議長との交換書簡により PLOとイスラエルの相互承認を実現、パレスチナ暫定自治協定調印に導いた。
94年中東和平での歴史的和解への道を開いたとして、ペレス、アラファトとともにノーベル平和賞を受賞。
95年 11月、テルアビブで開かれた中東和平の平和集会会場で、和平路線に反対する極右ユダヤ人青年の凶弾に倒れる。

 出典:コトバンク ブリタニカ国際百科事典 「ラビン」項

平和を目指して働いた指導者が、その働きのために同朋に暗殺されるというやりきれない事件。
これにより、アメリカの仲介によって進むに見えた中東和平は頓挫します。

イツハク・ラビン元首相が暗殺されてから今年で25年になります。 “平和のリーダー” として知られたラビン元首相は、パレスチナ自治政府との和平協定である「オスロ合意」に調印、ヨルダンとの間に平和条約を結び、1994年にはノーベル平和賞を受賞しました。 毎年命日が近づくと、イスラエル各地で大小さまざまな規模の追悼集会が開かれます。 これからも記憶の中で永遠に生き続けるでしょう。

Posted by イスラエル大使館 / Israel in Japan on Thursday, October 29, 2020

和平協定調印に際するラビン元首相の、
Enough of blood and tears. Enough.(あまりにも多くの血と涙が流された、もう十分だ…というニュアンスでしょうか)」という言葉は、胸に迫るものがありますね。

事件当時は子供でしたので、ラビン首相が誰なのか、どこの人なのか、一切知りませんでした。
顔も名前も、その記事に大きく載っていた写真で初めて知ったくらいです。
しかし、日本に住んでいて「暗殺」という言葉を聞く機会は、それこそ歴史の授業以外にありません。
だから、言葉にできない静かな衝撃を受けた。
だから、大人になったいまも鮮明に記憶されている。

この事件は、私にリアルな「世界」の存在を認識させたできごとだったのです。

先週書いた、赤福から想像した、どこかファンシーで甘く夢のある世界とは異なる、肌にしみこむような現実的な恐ろしさを孕んだ、「歴史の教科書の続き」の世界

それから私にとって、戦争は世界と切り離せない概念になりました。
戦争のない国に暮らしていたけど、常に戦争のことを考えていた気がする。
戦争に至る人間や世界の仕組みについて考えていた気がする。
さらに数年後、911テロによって私の人生は決定的に変わりました。

私がこうしてnoteに毎日長文投下するほどに書くことに慣れているのは、
創作が習慣になったのは、
考えるのが習慣になったのは、
書くことで伝える・主張するようになったのは、
原点に「戦争」と、「広島」がある。

美しく楽しいばかりが世界ではなく、
しかし、恐ろしくみにくいばかりが世界でもない。
人間一人ごときににすべて把握しきれるほど、世界は単純なものではない。

だから、どちらかにだけ飲み込まれないよう注意を払いながら、
私は今日も「世界」と「人間」について考え、何かを書いています。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

2023年5月21日
広島G7サミット閉幕の日に

アスカ

#asuka_22
#毎週日曜は雑多に語る

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?