240411 上野ぶらぶら、からの万博パネルディスカッション
仕事から解放されたので、朝からぶらつくことにした。
まず何をしようかと考えていたら、ボルシチが食べたいのに気がついた。Google Mapでロシア料理店を探したところ、それとは別に気になるタイ料理屋を見つけたので行ってみることにした。食べ物に関するこういう発作的なアクション、私あるある。
その店は御徒町駅近くにあった。入ってみるとタイ語が飛び交う店内。平日昼間の開店直後だったこともあり客は私1人だったが、メニューの豊富さと綺麗な店内に早くも心が躍った。
そして着丼。トムヤムヌードルのランチセットを頼んだのだが、小さいガパオライスと生春巻もついてかなりのボリューム。大戸屋に来たつもりが大盛軒に来ていたような嬉しいサプライズ。前夜の暴飲で荒んだ胃をトムヤムヌードルのスープが癒してくれた。
注文から会計まで、新人らしき若い店員さんに店主と思しき女性が丁寧にタイ語で指導しているのが印象的だった。レシートの出し方やお釣りの渡し方を教わっていたので、おそらくこの日が初日だったのだろう。遅くなって申し訳ありませんね、と流暢な日本語でお詫びされたが、なんだかほっこりしたので逆に良いものを見せてもらった気になった。
タイ料理ではち切れそうなお腹を抱えながら上野公園に移動。
数年前までは花見の名所として名高く、この時期はブルーシートと酔客で埋め尽くされていた上野公園も今はその面影はない。通路は進行方向によって区切られ、宴会をしないようにとの注意書きが貼られている。なんとも味気ない。
その一方でメイン通路ではないところでは細々と宴会は開かれており、花見客用と思われる巨大なゴミ箱もいくつか設置してあった。とはいえ往年のようなどんちゃん騒ぎではなく、少人数で静かに楽しむといった趣き。時代の移ろいを感じる。
公園を通り過ぎてまず東京芸大の美術館に向かった。国立博物館から芸大に至る道は木陰になっているのだが、その木陰の中に多くの人影が見えた。何かイベントをやっているのかな?と思って近づいて見てみたら、炊き出しの列だった。
現在ではほぼ見られないが、以前の上野公園にはかつての宮下公園と同じくホームレスの方々が居住されていたと聞く。おそらく炊き出しに並んでいた方々も公園近辺で暮らしているのだろう。公園から追い出され、どのような暮らしをしているのか考えずにはいられなかった。
炊き出しの列から離れたところで、すでに弁当をゲットしたと思われる人々が思い思いに弁当をかき込んでいた。そこはベンチが数個あるような本当に何の変哲もない木陰。ベンチに座れず立ったまま食べている人も多くいる。そしてそれを横目で見て眉を顰めながら通過するカップルに、中年女性の集団。見るだけで何もしない自分。悲しくなってしまった。
本来ならば駅前の広場や公園内の開けた場所でやっても良いものだと思うが、なぜ木陰でやるんだろう、とも思った。それが、炊き出しに並ぶ人が他の人たちから見られたくないだろうから、といった配慮からくる理由であればよいが、前述のような場所を使おうとしたところ許可が降りなかった、などというネガティブな理由であるかもしれない。そしてそもそもこう考えている私は何もしていない。ぐるぐると考えながらも炊き出しの列が進んでいくのを少しの間見て立ち去った。
木陰ゾーンを通り抜けると東京藝大。平日の昼間だからか、学生よりも妙齢マダムたちが多い。卒業生の作品を展示販売しているスペースもあり、藝大という学術機関の特殊性を感じさせた。
大吉原展をやっている藝大の博物館は結構な賑わい。高齢夫婦や高齢マダムたちの割合がかなり高かった。初めて来た博物館だったが、音声ガイドも貸し出しており力の入れようがわかった。
展示自体は吉原をテーマとした絵画や、吉原によく通っていた文化人たちにまつわる作品などを展示するというもの。吉原での遊女の仕事そのものはどういうものだったのか、現代的価値観と当時の価値観それぞれにおいてどのような位置付けなのかなどといったことをより深く知りたくなったが、それがこの展示会の狙いのひとつなのだろう。後日、私は現在の吉原を訪れることになった。
見終わった後、まだ時間があり余っていたので国立西洋美術館へ。初の現代アート展という「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」を見に行った。
記者発表会での抗議パフォーマンスが話題となり開催前からTwitterで賛否が分かれていたが、私自身は展示そのものを見ないと判断できないと考えていたので非常にフラットな気持ちで会場に向かっていた。
会場に入ろうとしたところで大学生らしき男女二人組とすれ違う。若い男性が「こういう自問自答みたいなタイトルって結論から逃げているようにしか感じられないんだよな」と話していた。まあそうも考えられるかもしれないが、結論は来場者それぞれに考えてほしいのではとも思った。こういう些細なことを覚えているのが私の悪い癖だ。
展示自体は現代アートと所蔵作品(欧米の近代アート)を対比させるような仕組みになっており、とても興味深かった。中でも小田原のどかさんと弓指寛治さんの作品は印象に残った。
小田原さんの作品は政治的な転向、政治的背景から破壊されるアートなどをテーマにしていて、アートだけでなく世の中に普遍的に存在する価値が誰によって定義づけられているのかを考えながら生きなければならないと改めて思わされた。
弓指さんの作品は、長期間に及ぶ山谷周辺でのフィールドワークに裏打ちされており重厚で説得力があった。おそらくここの展示コーナーに最も長く滞在したと思う。街中でホームレスの方に遭遇した際、つい私は「あ、ホームレスの人だ」と認識して、かわいそうだとかどこ住んでるんだろうとか、紋切り型のつまらない感想や想像を抱いてしまう。その固定観念を超えて、ホームレス、貧困高齢者という括りの中にいる人たち一人ひとりの暮らしやこれまでの人生を表現している作品だった。
美術館のある上野公園には、昔ホームレスの方たちが暮らすテントが並んでいたという話を聞いたことがある。私が物心ついた頃にはそのような光景はもうなかった。昔は町のところどころにブルーシートで作られたテントや、道端で休んでいる人の姿があったが、今や街中ではほとんど見ることがなくなったように感じる。見えているのに私が自分の意識から排除してしまっているのか?それとも、行政や地域から排除されてしまっているのだろうか?私が考えすぎなだけでそのような人たちのための施設ができ、路上より良い環境で暮らせているのか?明確な答えはわからないが、これまで私がそういう視点で街を見ていなかったことに気が付かされた。
展示を見終わった後は、上野公園を軽くブラついてから帰宅。シラスの山本理顕×藤本壮介回を見る。
元々大阪・関西万博の動向は気になっていたのだが、直近で「建築ジャーナル」3月号での山本さんの連載記事をめぐり2人の間で論争が起きたことでさらに目が離せなくなったイベント。ほかの回にはない緊張感ともに始まり、藤本さんのプレゼンを受けて議論が進んでいく。意見の食い違う場面では山本さんが声を荒げることもあり、第1部は張り詰めた空気のまま終わったが、さらに議論が展開した第2部以降では徐々に空気が弛緩。最終的に山本さんが藤本さんに激励するような形でイベントは終わった。
このイベントは対話・議論の意義がとても良くわかる素晴らしい内容だった。最初は表面的な意見の違いから強硬的な姿勢を取っていた登壇者が、モデレーターによる丁寧な意見の確認、すり合わせを経て、実は両者ともに同じ方向を向いていたことを認識する。問題や課題は残るものの、互いに、そして観客にビジョンを共有してイベントは終わった。
登壇者、モデレーター、そして観客の全員がイベントを作り上げていた。本当にこの回をリアルタイムで見れてよかったと心から思った。動画というメディアで視聴したものの、一冊の本を読んだような感覚。YouTube動画やTVのような「結論ファースト」で編集されたメディアでは決してできないような、試行錯誤しながらの議論、粘り強い対話、議論のゴールをポピュリズム的に設定せず冷静に本質を検討し続ける姿勢がすさまじかった。
ということで、気がついたら下書き放置して一ヶ月経過。この一ヶ月色々と面白いことがあったのでやる気のある時に書いてくよ。
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