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『そして、バトンは渡された』愛に愛され生きていく vol.483

愛というのはそう簡単に感じられるものではないでしょう。

いや、あるとは分かりつつもそれを認識することに対して羞恥心を持ってしまいます。

この本では、そんなあると認めるのも恥ずかしい愛が次々と忽然に姿を現します。

しかも、そんな愛は私たちにひけらかしに来るのではなく、お裾分けをしていってくれるのです。

本を通して愛を伝える、愛を与える。

これも一つ文学にしかできない素晴らしい方法なのだと、感銘を受けました。そんな『そして、バトンは渡された』について書評します。

ちょっとの欲と、でも大切に

この本の中での”バトン”は、主人公である優子ちゃんです。

親が3回も変わり、自分の住む環境は7回も変わります。

この本を読めば大体この感想に辿り着くことと思いますが、それでも優子ちゃんは一身に親の愛を受け、大切に大切に育ってきているのです。

血の繋がりのない親からも愛を受けてです。

一般的に、しかも教員をしていればそんなことは考えられれません。

家庭環境が変わるというのは子どもにとっても大きな大きなストレスを生み出します。

どうしても子の身を案じてしまいます。

それでも、この本から受け取れるのはとてつもなく大きな愛。

そんじょそこらの、恋愛小説なんかを凌駕するほどの大きな愛です。

「子どもをバトンに例えるなんて。」とひどい感情を抱かされるかもしれません。

しかし、このバトンは親のちょっとの欲(絶対にこの子を幸せにしたいという欲)と、その子の成長を願う気持ちでつながっていくのです。

困った。全然不幸ではないのだ。

そんな言葉でこの話は始まります。

そう、困っていないのです。

これも、数ある書評の中では必ず触れられている大切な言葉。

しかし、私は困ってはいないものの、優子ちゃんは目には見えない、周りからは確認できないような傷?ストレス?を感じているように思いました。

そりゃ、親が幾度と変われば誰だって感じるだろうと思うかもしれません。

しかし、この本の中の優子ちゃんは本当に困ったようには見えず、のびのびと生きてきているのです。

しかし、そんな優子ちゃんでも弱音でしょうか、心境でしょうか、それが見える心理描写がありました。

家族になったとはいえお互いになんとなく気を使っている。

私には決める権利はなく、与えられた環境を呑むしかない。

10年近くも父親や母親を思い続けている。

そんなことを思っている場面があったのです。

私はここに心を抉られました。

子どもも子どもなりに考え、そして若干の諦めを抱いている。

しかし、そんな傷も深い愛によってすぐに痛みのないようにと支えられていく。

「困った。全然不幸ではないのだ。」

確かにそうでしょう。

しかし、不幸ではないにしても彼女は何度も傷つき、その度にそれを忘れられるくらいの愛を受けているのです。

それをひしひしと感じるからこそ、わたしたちはこの本に深い温かい愛を感じるのでしょう。

明日は二つに

作中で最も好きな言葉です。

今までは一つだった明日が、2つになる。

自分の明日と誰かの明日。

だから、その分人生も彩り豊かに、そして幸せになる。

これほどまでに誰かと一緒にいる時間を幸せだと表現できる言葉はあるのでしょうか。

この言葉を聞いて私も誰かの明日を考えずにはいられませんでした。

その2本道は必ずしも併走しているわけではない。

でも、時には交わり、時には離れ、時には一本道になりと続いていくのでしょう。

この本を誰かへ紹介するとするのであれば、ただ一言。

「たくさんの愛をお裾分けしてもらえます。」

と、紹介することでしょう。

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