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人生草露の如し 辛艱何ぞ虞るるに足らん

今日も数ある投稿から私の投稿をご覧いただきましてありがとうございます。(今朝の投稿は 2,850文字程度と長文になってしまいました)

10月も半ばですね。私は来月に自分にとってはかなり重要な資格試験の受験勉強が大詰めとなり、仕事やライフワークのマルシェも少しずつですが再開していてバタバタしています。でもいろいろ用事が舞い込み忙しくなるのはありがたいことです。

言い訳がましいですが、そんなこともあり皆様のnoteがじっくり読めなかったり、コメント返しがスローダウンしてしまっています。申し訳ありません。

そんな状況で月に何回か神社にお参りに行くのが好きで早朝等に行くのですが、最近行けなくなりつつあります。
そんな中、先週時間を見つけて近くの神社に行ったらば、10月の言葉として
タイトルの言葉が置いてありました。

タイトルの意味

このタイトルの意味は以下の通りだそうです。

人生は草に着いた露のようにあっという間に終わってしまう
辛いことや困難なことを恐れている時間などどうしてあるだろうか
出典:『五十七短古』

こちらの言葉も東京都神社庁の以下のホームぺージからご覧になれます。

誰の言葉か

この言葉は吉田松陰の言葉です。歴史の教科書等で、幕末の思想家、教育者として紹介されています。Wikipediaより抜粋して長いですが吉田松陰の生い立ちは以下の通りです。

吉田松陰の生い立ち

長いですが太字を読んでいただければエッセンスは分かると思います

文政13年(1830年)8月4日(西曆9月20日)長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる

天保5年(1834年)4歳、山鹿流兵学師範である叔父の養子となり、兵学を修める。

天保6年(1835年)5歳叔父が死亡したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。
また山田亦介より長沼流兵学の講義を受け、山鹿流、長沼流の兵学の双璧を収める。松陰は子ども時代、父や兄の梅太郎とともに畑仕事に出かけ、草取りや耕作をしながら四書五経の素読。夜も仕事をしながら兄弟に書を授け本を読ませた。

11歳のとき、藩主・毛利慶親への御前講義が見事で才能が認められた。
13歳のときに長州軍を率い西洋艦隊撃滅演習を実施

嘉永3年(1850年)15歳に山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感し西洋兵学を学ぶために九州に遊学

嘉永5年(1852年)17歳、宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩
江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。

嘉永6年(1853年)18歳、ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を遠望観察し、 !

嘉永7年(1854年)19歳、ペリーが日米和親条約締結のために再航した際には、金子重之輔と2人で、海岸につないであった漁民の小舟を盗んで下田港内の小島から旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船した
しかし、渡航は拒否されて小船も流されたため、下田奉行所に自首し、伝馬町牢屋敷に投獄された。長州へ檻送されたあとに幽囚された。

安政2年(1855年)20歳に出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分となる。

21歳の時に禁固中の杉家において「武教全書」の講義を開始し、翌年に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぐ。

この松下村塾において久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育する。

この時代には大変珍しい松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行うという「生きた学問」だったそうです。

安政5年(1858年)23歳、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒します。老中が孝明天皇への弁明のために上洛する際に約破棄と攘夷の実行を迫り、受け入れられなければ討ち取る策でしたが、弟子や友人の多くが反対もしくは自重を唱え未遂となります。

松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕を計画しますが危険視され、再度、幽囚されます。

安政6年(1859年)24歳、梅田雲浜が幕府に捕縛されると、雲浜が萩に滞在した際に面会し、雲浜の門下生の大高又次郎と平島武次郎が松陰門下生と交流があった理由で、江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄されます。その際、松陰は老中暗殺計画を自ら進んで告白してしまいこの結果、松陰に死罪が宣告され、享年30(満29歳没)に亡くなります。

30歳の若さで亡くなったのです!

なんと密度の濃い人生を送ったのでしょうか!


国を憂い愛し教育者として、寸暇を惜しまず太く短く生きた人生は高く評価されていると思います。ただ、現代に吉田松陰が同じような活動をしていたら、また違った評価を受けていたかもしれません。

松陰神社

吉田松陰を祀る松陰神社は山口県萩市と東京都世田谷区にあります。
山口県萩市に神社があるのは、叔父が主宰していた松下村塾が山口県になるので、特に疑問はないと思います。
しかし、東京都世田谷区には何故あるのでしょうか?

理由は吉田松陰は江戸(東京)の伝馬町牢屋敷で死罪が執行されましたが、その4年後の文久3年、吉田松陰の門下生であった高杉晋作、伊藤博文等によって世田谷区若林の地に改葬されたため、世田谷区にも松陰神社があります。世田谷区の松陰神社は三軒茶屋と下高井戸間を走る路面電車である世田谷線の松陰神社前で下車して徒歩5分です。世田谷の松陰神社の詳細はこちらです。

幸運にも私は両方の松陰神社に行ったことがあります。数年前に山口に旅行で行ったことがあり、その時に山口県は行きました。。サムネイルの写真はその時に撮影したものです。他にもこのような景色です。

吉田松陰神社2


吉田松陰神社3

山口県萩市の松陰神社の詳細はこちらをご覧ください。

このような幼少からの天才で行動力もあった吉田松陰だからこそ

「人生草露の如し 辛艱何ぞ虞るるに足らん」(人生は草に着いた露のようにあっという間に終わってしまう辛いことや困難なことを恐れている時間などどうしてあるだろうか

という言葉も納得します。この時代ならではだと思いますが、命がけで生きている様子を如実に表した一句だと思いました。

「あると思うな親と金、無いと思うな運と災難」と申します。
いつ災難がくるかは誰も分かりません。

一日一日を大切に使いきれていない私としては、いつ災難が来ても「後悔なく良い人生を生き切った」と宣言できるように「日々もっと大切に生きなければ!」と反省するのでした。

ちなみに前月9月の言葉に関する記事はこちらで投稿致しました。

今日はここまでにしたいと思います。本日も最後までお付き合いいただきありがとうございました。

また次回の記事で会いましょう!
皆様、良い週末をお過ごしください。

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