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色づかい、そしてフォーカスの多様

世界に愛されている人だなとつよく思うことがある。いや、みな愛されているなかで、とくに感謝されている、と言った方がいい。

ひとつが、言葉によって、嘘のない世界を魅せることのできる人だ。言葉が精巧で美しく、ユーモアのある人。ときにはむつかしく、ときには繊細に、ときにはおどけて、自在にころころと表情を変える人。差し出す先のそれぞれの人の、心のもっとも奥に届くように、柔らかな芯を持つとりどりの画材を選ぶことのできる人。

こういう人は世界からおおいに愛されている。なぜなら、あらゆる世界をなおざりにすることなく、しかも zoom in も zoom out もしっかりと往き来する方法で、すべての側面を愛しているから。
または、something great のような存在(それが神なのか八百万なのか自然なのか等にかかわらず)から、おおいに愛されている。なぜなら、something great が愛している世界や人々を愛し、しかもそれらを記述することよって人々にはっきりと伝えているから。いかにして浴びて、いかにして抱きしめればよいのかを。

ほとんどの場合は「百聞より一見」だけれど、はっとするような言葉をうけたとき「一見を凌ぐ一聞」が稀に起こる。そういう立ち会いの瞬間には、人間として生まれてきてよかったと思える。

どうして一見を凌ぐことができるのか。それは「私の言語」と「あなたの言語」との自在な組み合わせによって「一聞」を描いているからだ。100対0にも、10対90にもできる。映像と感動を「私の言語」としてできるだけ零れ落ちないように起こし、「あなたの言語」で言い換える。その間を自在に往き来する。映像を拾い上げながら感動を乗せる。俯瞰しながら一点を凝視する。何が普遍の事実で何が私の固有なのかを、こっそりとしのばせて、はっきりと明かす。何が前提で何が新規なのか、決して鎧を着せたような話筋にはせず、しかしきちんと文脈に綴じている。そういう繊細なことを無意識のうちにやれるようになると、「私」にとって嘘がなく、「あなた」にとって心地よい輪郭をもった鮮明が描ける。「あなた」の心のもっとも奥に届く。最奥を突かれたとき、人はエクスタシーを登頂する。

現代セカイでは、不協和音が多い。抱きしめるはずのものを削いでしまった単色の言葉が、飛び交って不協和音をなしてしまっている。そんな中で、心地よい音楽が流れる場所に身を置くことは、思っていたよりずっと大切なことだった。そんな当たり前のことが迫真として身に沁みたのは最近のことだ。どこかで、犠牲にしても致し方ないと思っていた。しかしちがう。自分が流す音楽は、周りの音色によって研ぎ澄まされもし鈍くもなる。なんといってもどんな音楽の中に自分の弦を張るかで、呼吸の深さがまるで変わる。口にする食材を選ぶのと同じくらいに、なおざりにしてはいけないことだった。身体のよろこぶ声のする場所を、決して塞いでしまってはいけない。

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