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ただ季節が過ぎただけだった。

秋の始まりの雨が降る日に昼寝をすると、いつもの全く眠れない夜と違ってやけに気持ち良く眠れる。
そして君の夢を見る。
季節の変わり目は決まりきったように雨が降るのね、と君が言っていたことを思い出す。
君が僕に眠り方を教えてくれたのかもしれない。
夢から醒めると、まだ点けている空調の音だけが部屋に篭っていて、そういえば、独りだったなと思う。
誰かにふと電話したくなるけど、それはそういう相手のいない人が思うことだ。
君はふと寂しくなるような瞬間が今でもあるのだろうか。そういう時誰に電話したくなるのだろう。
確かなことはそれは僕ではないということだ。
僕には君がいて、君には僕がいない。
それに少し安心するよ。その方がきっといい。
僕は誰も必要としないような生き方に少し慣れ過ぎているのかもしれない。
だから今日も一人で簡単な料理をして簡単な食事をした。悪くない味だったけど大抵の料理は僕には味が濃すぎる。

夏の終わりはいつからだろう。
まだ暑いな、とは思うけど夏は確かに終わってしまったように思う。
九月になったから?
いや、夏が確かに終わったと僕が思ったからだ。そういう人には夏はもう側にいてくれない。
深夜に目を醒ますと明るくなるまで随分時間が必要になったんだなと気付く。
自動販売機にはまだ温かい飲み物がないから、コンビニエンスまで少し歩いて缶コーヒーを買う。
公園のベンチに座って飲みながら煙草を吸う。
知ってるかい?
涼しくなって、そして寒くなると煙草はやけに美味しくなるんだよ。
真っ白な君に黄ばんでしまった僕のことはわからないだろうけれど。
このベンチで夜明けを待つようになって何年経っただろう?
色んなことを考えたような気がする。自分の生死、過ぎ去ってしまった時間や人々、そしてこれから先の何か。
君は驚くかもしれないけれど、今では偶に昼間にもここに来るんだ。友達と一緒にこのベンチに座って馬鹿話をする時があるんだ。
家族連れがいて子供が遊んでいても目を伏せずにいられるようになったんだ。早く帰ってくれないと煙草が吸えないな、なんて思いながら。昼間の公園なんて一番泣きたくなるのに決まっているのにね。
僕はあれから随分遠い所に来てしまったんだと思う。それに対してはどうとも思わない。僕はいつもそう思っているから。 
この前病院に行った時、これから時間をかけて薬を減らそうかなんて話が出た。向精神薬を飲んで、睡眠薬を飲んで、そうやって長いこと暮らしてきた。それでしか生きられないと思っていた。
悲しみにすら出口があるのは、それ自体が悲しいことだ。

随分遠い所に来てしまった。

秋晴れの新宿御苑で寝転んで空が見たい。
芝生の草がパーカーに沢山付くだろうけど、そのままにして夕方の閉園までぼうっとしたい。
そしたらさ、未だに慣れない種類のお酒も美味しく感じるだろうから、飲みにでも行こうかな。
静かで良い店も何個か知ったんだ。

ショウウィンドウが煌めく季節になったら、あの光り輝く表参道の通りで君とすれ違うかもしれない。歩道橋の上でマフラーに顔を埋める君。
冬になったら冬の君をまた思い出す。
もうそれは君ですらなくなってしまっている。

20歳の夏は一通り済ませた。特に何もなかった。19歳の夏に考えていたことを今でも考えていた。

ただ夏が終わった。

良い雰囲気の喫茶店、というものは街にはいくらでもあるらしい。そういう店は洗練されている、あるいは洗練された店を装っている。そしていくつかの店は煙草が吸えて、いくつかの店は煙草が吸えない。
煙草が吸える店の内装は決まって一緒だ。薄暗く色のついた照明、黒い木目の床、それに合う色のテーブルとソファ。本やレコード、観葉植物などの内装。僕は煙草が吸えるから毎回この店に来るけれど、この店のやり方は好みじゃない。それは素敵なものではなく、素敵なものの周縁に過ぎないからだ。素敵なものを知っていて、素敵であるための何かを知っているかもしれない、そしてそれを実践しているのかもしれない、ただ、それは素敵じゃない。それを僕は思う。
東京はそういったもので溢れている。素敵なものの周りにいる素敵でないもの。それを人々はやけにありがたがっていて、そういう店は流行する。
僕は基本的に何かに執着することがないから、好きな店などというものは作らないけれど、まぁ素敵であろうとすらしない店よりはマシなのかもしれない、と思う。
そして例えば僕は街中華や地域に愛される喫茶店、カレー屋なんかが好きだけどそれもくだらない雑誌やそれに準じた人々に食い尽くされてしまう。素敵なものには、やはり素敵であろうとするものが模倣するように、素敵でない人々が素敵であろうと訪れる。好きだったバンドがシーンに登場してそしてメインカルチャーに登場し、音楽に救われたって周りに言いふらしている奴らに食いつくされていくのに似ている。素敵なものが素敵であり続けることも簡単じゃない。次々と訪れる素敵でない人々に囲まれていると自然と素敵じゃなくなっていくからだ。
僕はその度に僕が僕の思う素敵な僕であり続けるために、インディペンデントであり続けたいと思う。そして僕は僕が素敵だったものの周縁にいるよりかは、たとえそれが今まで好きだったものと違うものを纏っていたとしても、地に足のついた僕の思う何かに縋り続けていきたい。
エモい、なんて安っぽい俗でくだらない言葉があるけれど、それの対象となっているものは大抵誰でも理解できるような浅はかな情緒でしかない。
君がそれをエモいと思ったのは、その対象が君が理解のできるレベルまで落とし込んでくれたからに過ぎないんだぜ。

ゴダールが死んだ夜、僕はレオス・カラックスの「ポンヌフの恋人」を観た。僕はゴダールを全然知らないけど、ゴダールの作品は確かに僕に何かを与えてくれた。彼のやり方は素晴らしかった。
近頃はアンナ・カリーナが死んで、ジャン・ポール・ベルモンドが死んで、ゴダールが死んだ。
好きな小説家も好きなバンドマンも好きになった頃には全員死んでたけど、それでも何か堪えるものがある。彼等が語った何かは、そんなことではなくならないのだけど。

涼しい。夏休みが終わる。風が吹く。
何もしなかった。何も考えなかった。
何も考えないでいられる夏なんて久しぶりだった。

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夏の思い出

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