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【小説】『売却少女』第1話

■あらすじ

ある日、蓬生文春(よもぎ・ふみはる)は放課後の教室で、学校の二大ヒロインの一人、四ツ葉ゆめが窓から飛び降りようとしている瞬間に遭遇する。慌てて蓬生が声をかけると、驚いた四ツ葉は足を滑らせて背中から床に転倒した。なんとか抱きとめようと駆け寄るも、四ツ葉は派手に頭を打ち、呼びかけても返事をしない。恐る恐る心臓に耳をあてると、なんと脈が止まっていた。「死んだ!?」蓬生がそう思ったのも束の間、四ツ葉は起き上がり、今日のことは誰にも言うなと念をおす。それから二人の奇妙な関係が始まるが、やがて蓬生は四ツ葉がかつて一度死んだ身であること、そしてやがて「売却」される運命にあることを知る。

第1話

 宇宙人が教室の窓枠に立っていた。
 その宇宙人は同級生の女の子で
 反射的に助けるつもりが
 死なせてしまった。

       *

 五限目終了のチャイムが鳴るとほぼ同時に、蓬生文春(よもぎふみはる)の背中を指でこつきながら誰かが言った。
「なあヨモ、四ツ葉(よつば)の話、聞いたか?」
 蓬生は現文の教科書を仕舞う手を止めて振り返る。誰かの正体はもちろん後ろの席の菊池(きくち)で、どうやら昼休みに新しいネタを仕入れたらしい。
「四ツ葉って、一組の?」
「また告られたって。今度は三年から。サッカー部の部長」
 菊池の口からこの手の話を聞くのはもう何度目かわからない。蓬生は特に興味はなかったが合いの手を入れる。
「それで?」
「もちろんノー」
「今回はなんて?」
 たしか前回は『いや』で前々回は『かかわらないでください』、その前は無視だったはずだと蓬生は思い出していた。
 菊池は少し溜めてから顎を引き、上目遣いでぼそっと
「『メーワクなので』」
 四ツ葉の真似らしい。
「……あー」
 くくっ、と菊池はいたずらっぽく笑う。
「サッカー部の部長って、あのパーマかけててイケてる雰囲気出してる人じゃん。廊下で告ったらしいんだけど、たまたま居合わせたサッカー部の田村とか、むちゃくちゃ気まずかったって。気の毒だけど周りもくすくす笑っちゃってバツ悪そうに早足で退散したって噂」
 状況を想像しただけで、蓬生はゴーヤを食べた子供のような顔になった。
「でもなんでまた廊下で?」
「そりゃ呼び出しても来ねえからだろ。知らねえの? けっこう有名な話だぜ。うちの二大ヒロイン、四ツ葉ゆめと氏間花帆(うじまかほ)は告白場所に現れないって。その上、どういうわけか授業中以外は教室にもあんまりいないらしいから、移動してるときをつかまえるしかねえんだとか」
「……なにその倒したらいっぱい経験値もらえるモンスターみたいな」
 菊池はふんっと鼻から息を吐く。
「まだ攻略した奴いねえけどな。うちってそんなにでかい校舎じゃねえのに、実際あんま見かけねえんだよ、あの二人。そういや、誰だったか上手い二つ名つけてたぜ。『鉄の処女(アイアン・メイデン)』だっけな」
 それは中世ヨーロッパの拷問器具では。
 菊池はクイズの正解がわかったかのように、ぽんっ、と机を叩く。
「思い出した。『鉄の麻薬(アイアン・ヘロイン)』だ」
「『女主人公(ヒロイン)』じゃなくて?」
「そう、『麻薬(ヘロイン)』。どっちも鉄仮面みたいに表情一つ変えないくせに中毒性があって、足を踏み入れたが最後、人生が狂わされるってさ」
 たしかに上手い表現ではあるが、麻薬扱いはややひどい気もする。とはいえ四ツ葉ゆめと氏間花帆に葬られた数多の男どもの屍の山を想像すると、そうした過激な二つ名は思春期の蛮行をいくらか抑制する作用があるのかもしれない、と蓬生は思った。自分には関係がないことだけど、とも。
「他にも、あの二人は人類を滅ぼしにきた宇宙人じゃないか説もあるぜ」
「なにそれ?」
「地球の男どもを魅了して、自分は誰とも付き合わないくせに他の女では物足りなくさせるっていう。まじな話、あの二人のせいでうちのカップル率ってかなり低いらしいんだよ」
 それがどうして急に宇宙人の責任になるのか、そもそも宇宙人なわけがないだろう、あるいは自分たちも見方によってはみんな宇宙人ではないのか、とツッコミどころ満載な話だったが、そういえば、と蓬生は以前菊池が言っていた四ツ葉と氏間の共通点を思い出した。
 この高校に一人として、小中学生時代の二人を知る人間はいないのだとか。四ツ葉は蓬生と同じ一年で氏間は三年だが、どちらも途中入学の転入生。引っ越してきたはずだけれど、家に行った者は誰もおらず、所在さえわからないらしい。それから体はあまり強くないようで、体育は全て欠席。残念ながら二人の短パン姿も水着姿も拝む機会はないとかなんとか。
 ぶつんっ、とスピーカーのスイッチが入るノイズ音がして、六限目開始のチャイムが鳴った。
「とにかく、あの二人の可愛さはギャラクシー級ってことだな」
 菊池は満足気にそう締めくくった。蓬生は体を正面に戻し、焦点の合わない目で窓の外を眺める。『鉄の麻薬(アイアン・ヘロイン)』と名付けられた二人の女の子の顔を思い浮かべようとする、が、上手くいかない。四ツ葉ゆめは同じ学年だがクラスが違うのでほとんど顔を合わせた記憶がなかった。噂話を聞く頻度の方が何倍も多い。氏間花帆は三年だが、生徒会長のため何度か全校集会のときに講堂で目にした。とはいえ壇上までは距離があるため、顔が小さくてロングの黒髪がきれいだった程度の印象しか残っていない。
 先生が教室に入ってきて、級長の桶良(おけら)ちふゆが舌っ足らずな声で号令をかける。
「きりーっつ!」
 全員の椅子を引く音が鳴り止んだあと、「わっ」と一拍遅れで蓬生は立ち上がった。

       *

「異常なし、っと」
 窓から差す西日を手でさえぎりながら、誰もいない一年二組の教室を見回して蓬生は独り言ちた。黒板の上の丸時計は六限目が終わって二時間が経過しようとしていることを伝える。
 隣の一年一組で今日の放課後パトロールも終了だ。
 六クラスある一年は、一組から四組までが西校舎の四階、五組と六組は同じ校舎の三階にある。試行錯誤の結果、一年一組の教室を最終チェックポイントとして、その後階段を下りて自クラスの六組に戻るのが最も効率的なルートだと結論づけた。ルートが決定したのはよかったが、残念ながら肝心の「困っている人」にはなかなか遭遇できない。どうやら今日も「親切」はできそうになかった。
 蓬生は一年二組の扉を静かに閉めると、肩を落として誰もいない廊下を進む。これは巡回ルートより先に決めたことだが、教室は教壇近くの前扉ではなく、ロッカーがある後ろ扉から開ける。その方が教室全体を見渡しやすく、もし中に人がいた場合にも、前扉から入るより警戒されづらいことがわかった。
 十数歩で最終チェックポイント、一年一組の後ろ扉に到着する。うつむいたまま蓬生はドアに手をかけ、ひと思いに右に引いた。
 飛び出した風が蓬生の前髪をかき上げる。
 どうせ誰もいないだろう──という予想も後方へと吹き飛ばされて、顔を上げる、

 腰の高さにある大きな窓の窓枠に、女の子が立ってた。

 逆光で黒いシルエットになっている。風が女の子の髪とスカートを揺らし、カーテンも不規則に踊っている。
 息を呑み、吐くときには無意識に声が出て駆け出していた。
「わっ、ちょっ、危ない──!!」
 目を細めながら咄嗟に走る。
 女の子は驚いたように振り返り、急な動作に体勢を崩した。
「あ」
 女の子が小さな声を発して窓枠から落下する。
「うわっ!」
 蓬生は前のめりだった姿勢に急ブレーキをかける。女の子は蓬生に覆いかぶさるように倒れてきた。
 突然の緊急事態に蓬生の世界の時間が歪む。スローになって、コマ送りのように女の子がゆっくりと降ってくる。
 顔がぶつかりそうだった。握りこぶし二つ分の距離。そこでようやく蓬生は女の子の顔を直視する。
 猫のような目、小さな鼻、「あ」のかたちにわずかに開いた薄い唇と口。
 目と目が合う。
 倒れてくる女の子の方が近づいてきているはずなのに、自分が吸い込まれていっているような錯覚をおこす。
 ──四ツ葉ゆめ。
 握りこぶし一つ分。
 目を閉じて蓬生はなんとか顔をそむけ衝突を避けようとする。身体はのしかかってくる重さに耐えられず後方に大きく傾く。
 だんっ、と背中から床に倒れると同時に、ごんっ、という鈍い音が響いた。
 時間の流れがもとに戻る。
「痛っつ……」
 背中から肩にかけて感じる鈍い痛みに顔をしかませながら、蓬生は目を開ける。
「わっ!」
 添い寝しているように、鼻先同士がつく距離に四ツ葉の顔があった。
 慌てて頭を後ろに引いて肘で起き上がる。
 西日に照らせれて、四ツ葉の長い睫毛の先が輝いていた。くせっ毛の髪は記憶のなかの姿よりずっと明るい栗色に見える。
 あらためて、倒れているのは、この高校の二大ヒロインのひとり、一年一組の四ツ葉ゆめに違いなかった。
 でもなぜ、あんなことをしていたのだろうか。
 四ツ葉が立っていた全開の窓を見遣る。すぐ手前には学校指定のスリッパが脱ぎ捨てられている。色は蓬生と同じ学年カラーの青。鞄は近くの机に無造作に置かれていた。
 ほんとうに、なにをしてたのだろう。
「あの、だ、大丈夫?」
 なかなか起き上がってこない四ツ葉に向き直り、声をかける。そういえば、倒れたとき、ごんっ、と頭をぶつけたような大きな音がしたことを蓬生は思い出す。
 四ツ葉から返事はない。
 急に血の気が引き、四ツ葉に駆け寄って屈みそっと肩を揺する。
「ねえ、大丈夫?」
 四ツ葉は目を閉じたまま、そして小さく口を「あ」と開けたまま、微動だにしない。
 ふと蓬生はだらりと床に垂れた四ツ葉の右手の手首をそっととり、親指の腹で脈をとる。
 ……。
 脈がない。
「そ、そんなわけ……」
 こころの声を漏らしながら、親指の位置を微調整するも、見つけられない。
 四ツ葉の手をおろし、蓬生は自分で自分の脈をとる。左手首をつかんだ右手の親指には、たしかに定期的な脈動が感じられた。
 再度四ツ葉の全身を凝視する。黒いタイツを履いた足先から頭に向かって、ゆっくりと視線をすべらせていく。外傷はない、ように、見える。
「……四ツ葉?」
 無反応。
 四ツ葉のすぐ隣に膝をつく。手をついて、頭を下げる。首筋や背中に感じる日差しが暑い。カッターシャツのなかで汗が走る。
 蓬生はゆっくりと、ゆっくりと、四ツ葉の左胸に右耳を押し当てる。
 不可抗力で頬がやわらかいふくらみを感じる。
 蓬生の心臓が早鐘を打つ。心臓が意志を持って外に出たがっているかのように、強く内側から蓬生の胸を叩く。
 震えながら、それでも精一杯の深呼吸をして、耳を澄ます。

 脈が、ない。

 聞こえるべき、とくっ、とくっ、という命の信号が、やはり聞こえない。どれだけねばっても、さらに深く耳を押し付けても、その事実は動かない。
 死ん、だ……え、いや、え、ほんとに、うそ、死んじゃ──
「どいて」
「うわっ!」
 蓬生は飛び退いて尻もちをつく。
 昼寝でもしてたかのように、むくっと四ツ葉が上半身を起こした。眠そうに見えるのは、西日が眩しいせいだろう。
「なにしてたの?」
 怒っているでも、怯えているでもなく、無機質に四ツ葉が言った。
「えと、その、死んじゃったんじゃないかと思って」
 蓬生の答えを聞いて、四ツ葉は自分の胸を見下ろす。
「……」
 なにも言わず、四ツ葉は蓬生の目を見つめ直す。無言の圧力にいたたまれない蓬生は、
「倒れたとき、すごい音がしたから、ごんって、だからその、もしかしたら打ちどころが悪かったんじゃないかって……呼んでも、返事がなかったし。それで脈をとっても、なにも聞こえなくて、死んじゃったのかなって」
 四ツ葉は目をそらすことなく、じっと蓬生を見つめつづけている。
「あの、その、死んでるわけ、ないよね。僕の勘違いっていうか、下手だったみたいっていうか」
 なおも四ツ葉は口を開かない。風が小さく四ツ葉の髪を揺らす。
「四ツ葉は、」
 蓬生は尻もちをついた状態から、上体を起こして胡座をかいた。
「なに、してたの?」
 蓬生の質問にようやく四ツ葉は視線をそらしてうつむくと、さっきまで自分が立っていた全開の窓を見遣り、
「どぎまぎさせてやろうとおもって」
 真似して蓬生も顔を向ける。蓬生の角度からは、夕方の空と雲が見えるだけだった。
 四ツ葉は窓外を眺めながら言った。
「どうせなら、あっちがわにたおれればよかったのに」
 冗談には聞こえなかった。
 返事に困っていると、四ツ葉は顔を戻して、
「だれ?」
 蓬生は駆け出した反動で脱げたスリッパを指差し、
「僕も一年で、六組の蓬生。蓬生文春」
「……ヨモギ」
 両足で明日の天気を占ったあとのような青いスリッパを見つめながら、四ツ葉はぼそっと口にした。
「へんななまえ」
 四ツ葉から発せられることばはどれも──自分の名前さえも──異国の言語のように耳慣れない感じがする。
「ヨモギは、なにしてたの?」
 蓬生は立ち上がると、すたすたとスリッパを履きに行き、そのまま開けっ放しになっている扉まで進む。
「閉めていい?」
 四ツ葉は、こくっ、と首を縦に振った。
 別に他の誰かに話を聞かれたくなかったわけではないが、なんとなくこの状況を見られるのは、四ツ葉にとって好ましくないような気がした。扉を閉めると蓬生は元の座り位置に戻ってまた腰を下ろした。
「パトロールしてたんだ。その、師匠からのお題が今回は『親切をしろ』で。それで学校中を見て回ってて、困ってる人がいないかなって」
 言いながら、蓬生は顔が赤くなりそうだった。いざ言葉にすると明らかに変なやつであり、怪しさ満点である。けれど蓬生の目を見つめたままの四ツ葉はそれには触れず、
「きょうのこと、だれにもいわない?」
「い、言わないよ!」
 蓬生は大げさに首肯する。
 四ツ葉はぼうっと虚空を見つめる。そして二、三度髪を横に揺らし、
「しんじられない」
「あの、じゃあ、どうすれば──?」
 またも焦点が定まらない上目遣いで、四ツ葉は人差し指を下唇にそっと押し当てる。その姿で仮に「すき」と言われようものなら、陥落しない男子などこの学校に、否、この地球上に果たして存在するのだろうか。もしかしたら間違っていたのは自分で、正しいのは菊池なのかもしれない。四ツ葉ゆめは、ほんとうに地球──の主に高校生男子──を征服しにきた、宇宙人ではないか。蓬生はようやく一年から三年まで、学校中の男どもが四ツ葉に熱を上げている理由を理解した。
 こくん、とうなずいて、四ツ葉はなんらかの結論を出したようだった。
 両手をついて、はいはい歩きでするすると近づいてくる。
 まだ近づいてくる。
 蓬生は後ろ手をついて頭部を引くも、四ツ葉は生まれた間隙を埋めるためになおも四つん這いですり寄ってくる。
「えと、ちょっ──」
 のぞき込むように顔を近づけ、鼻先同士がつくまでに、小指の爪一枚ほどの距離。
「うそつくと、ドーコーがひらくから」
 あの、興奮しても、交感神経が刺激されて、瞳孔は開くんですけど、その場合はどうすれば──。
 四ツ葉が蓬生の瞳を凝視する。
「きょうのこと、だれにもいわない?」
「い、言わない、です」
 意図せず敬語になる。
 近い。
 ふと自分の口臭は大丈夫だろうかと思い、口を閉じてできるだけ鼻から吸うばかりにする。
 四ツ葉は、甘い匂いがした。
 熟れた桃のような、淡い暖色の花のような、つまり多分それが女の子の匂いで、なんというか、ずっと嗅いでいたい、いい匂いだった。この体勢があと数分つづいたら理性が駄目になりそうな気がしてくる。
 前のめりになっていた四ツ葉が姿勢を正す。
 鼓動が早くなっているのが自分でわかる。
 ふんす、と四ツ葉が鼻から息を吐く。蓬生は謎の覚悟を決める。
「わかんなかった」
「……え?」
「ヨモギのめ、くろくてよくわかんなかった」
 どた、と蓬生は背中から床に倒れた。そして、くすっ、と蓬生は吹き出して笑う。無愛想で、ミステリアスで、宇宙人だった四ツ葉ゆめのイメージが溶けていく。無愛想で、ミステリアス──宇宙人かどうかはわからないけど──であるには違いなかったが、抜けたところもある、もしかしたらどこにでもいる、ふつうの高校一年の女の子なのかもしれないと思った。肩の力が抜ける。
 でも、
 ふつうの高校一年の女の子は、放課後に一人、誰もいない四階の教室の窓枠に、なんの支えもなしに立っていたりしない。
 どうせなら、あっちがわに倒れればよかったのに──なんて言わない。
 蓬生は肘をついて体を起こし、また胡座をかいた。
「どうしたら、僕が誰にも言わないって、四ツ葉に信じてもらえる?」
 ぶぶっ、ぶぶっ、ぶぶっ、ぶぶっ。
 小さなモーターの駆動音。四ツ葉はスカートのポケットから振動するスマホを取り出して一秒弱、光る画面を見つめ、そして電話に出た。
「よつば」
 はじめにぼそっとそう発した後は、電話相手の言葉にしばらく無言で耳を傾けているだけだった。その間、四ツ葉は微動だにしない。
 誰からなのだろう。
 家族や友達、ではない気がする。
 蓬生の思考に反応したかのように四ツ葉が顔を向けた。「わからなかった」と評した蓬生の目を四ツ葉は見つめる。そして、
「だいじょうぶ。ちょっとたかいところからおちただけ」
 それだけ告げると、スマホを耳から離し四ツ葉は通話を切った。電話がかかってきたときと同じように、暗くなった画面をじっと眺め、スマホをスカートのポケットに戻す。
「なんだっけ」
 四ツ葉の質問にスリープモードになっていた頭を再起動させる。なんだっただろうか。えーと、ああ、そうだ、
「どうしたら、僕が誰にも言わないって、四ツ葉に信じてもらえるかって」
 四ツ葉は再び人差し指を下唇に押し当てるとしばらく視線を上に遣る。そして、うんっ、と頷き、
「コードーでしめして」
「行動って、どうやって……?」
 立ち上がった四ツ葉はまずスリッパに、次に鞄へと向かい、中からルーズリーフとペンケースを取り出した。どさっと鞄を床におろし、席につくと迷いなく幾つもの線を引いていく。蓬生も立ち上がり四ツ葉に近づく。横から紙をのぞき込む。
 図形かと思ったが、目印が加えられていくことでそれが地図だとわかり、さらに線が追加されるなかで、どうやらこの学校の校舎を立体的に描いているのだと合点がいった。フリーハンドで引いた線は多少ぐにゃぐにゃしていたが、できあがってみると見事なできだった。
「ここが、ここで、ヨモギはここ」
 完成した校舎の二箇所にマルを付けながら四ツ葉は言う。説明がわかりにくいが、翻訳すると「この場所が今いる一年一組で、お前のクラスの六組はこっち」という意味のようだ。位置関係も合っている。
 黒いインクのペンを置き、四ツ葉はペンケースから新たに色の違う六本のペンを取り出した。
 まず赤いペンを手にし、一年六組の教室に基点を置く。すらすらと迷いなく一筆書きでペンを走らせる。くねくねと蛇行し、最後にまたスタート地点に戻ってきて、到着した先端にヒゲをつけて矢印にした。そして今描いた線の途中一箇所に星印をつける。
「いちげんがおわったらこのルート。だいたいここですれちがうはず」
 それだけ言うと、右下の空いたスペースに赤で“1”と書いた。ペンをオレンジに持ち替える。
「え、いや、ちょっと待って!」
 一時停止ボタンを押したように四ツ葉はストップし、首を傾げた。
「ルートってなに? 一限が終わったらって、僕はなにするの?」
 四ツ葉はオレンジのペンを置き、人差し指を一年六組の場所に乗せる。
「いちげんがおわって、やすみじかんになったら、ヨモギはきょうしつをでてこのルートですすむ。はしらなくていい。はやあるきくらい」
 そう言って四ツ葉は今しがた引いた赤い線をなぞるように人差し指を紙の上に走らせていく。
 なめらかに動いていた指が止まる。
「ここらへんでわたしとすれちがったらクリア。わたしはべつのルート」
 四ツ葉の指は赤い星印の上にあった。そしてまた人差し指は動き出し、最終的にスタート地点だった一年六組の教室がある場所に戻ってきた。
 解説は終わり、四ツ葉は再度オレンジのペンを手にする。そして同様に、一年六組から開始して、ぐにゃぐにゃと進んでは曲がり、進んでは曲がりを繰り返して、先ほどの赤色とはまるで異なるルートで帰還した。オレンジ色の星印は二階の美術室の前に付けられた。紙の右下にはオレンジで“2”と書かれる。
 わけがわからなかった。
 わけがわからなかったが、わからないなりに推察するに、どうやら自分は授業が終わり休み時間になるたび、四ツ葉が指定したルートに沿って校内を早歩きで移動しなければならないらしい。その際、星印が付けられた場所付近で無事に四ツ葉とすれ違うことができれば「クリア」、つまり合格なのだろう。ということは必然的に、四ツ葉も休み時間になったら校内を別のルートで規則的に散策していることになる。そういえば菊池が「実際あんま見かけねえんだよ」とこぼしていたのを蓬生は思い出した。
 蓬生があれこれ考えているうちに、オレンジの次の黄色も終わり、四ツ葉は緑色のペンを走らせている。よくもまあそんなにすらすらと迷いなくルートを決められるものだと感心する。デタラメ……なのかどうかは蓬生には判断できない。
 言いたいことは山ほどあったし、訊きたいことはさらにその倍はあったが、とりあえず蓬生は四ツ葉の作業が終わるのを側で静観した。結局、赤、オレンジ、黄色、緑に青と紫が加わって、全部で六色、六つのルートが描き上がった。一年六組付近は色が渋滞してぐちゃぐちゃになっているが、それでも一応は読み取れる。そういえば、
「ねえ、どうして緑と紫は星印じゃなくて四角なの?」
「しかくは、すごすところ」
 緑は四限のあとだから昼休み、紫は六限のあとで放課後になる。
「おひると、ほうかごは、ここでいっしょにいる」
 ……。
 蓬生のなかで、プライベートの時間が瓦解していく音がする。
「行動で示してっていうのはつまり……?」
「ヨモギがほかのひとといないのが、いちばんあんぜんだから」
「あの、もしできなかったら……?」
 四ツ葉は下唇に人差し指を軽く押し当て、
 視線を上に向け、
 かあ、かあ、と外からカラスの鳴き声が聞こえ、
 四ツ葉の視線が動いて蓬生の瞳にセットさせる。シンキングタイムが終わったらしい。
「ヨモギにおっぱいさわられたって、いいふらす」
 死刑宣告だった。
「むりやり」
「で、でもさわってないし!」
「かおはおしあててた」
 ぐうの音も出ない。
「みんな信じないよ、そんな嘘。だって、嘘なんだから」
 そうだ。嘘は嘘とわかるものなのだ。表情、声、仕草、その他さまざまな信号(シグナル)や機微を僕ら人間はどんな精巧なセンサーより見抜く。敵味方を問わず情報の真偽が生死に関わる時代を人類は長く過ごしてきたがゆえに、発せられた言葉の内容を鵜呑みにはしない、はず。とりわけそこに違和感が存在すれば。そして嘘は──本人がそれを嘘だと知っている限りにおいて──絶対にコンマいくらかであったとしても、違和感を孕む。
 だからバレない嘘をつこうとするなら、嘘に事実を織り交ぜる必要がある。そして含まれる事実に確信を持って話すのが、バレない嘘をつく秘訣だ──と、あるとき師匠は言っていた。だから、四ツ葉のそんな嘘は、通用しないに決まっている、と蓬生は自分を勇気づける。
「じゃあ、」
 四ツ葉は椅子から立ち上がりながら蓬生の手首をとる。そして、
「わっ、ちょっと──!?」
 蓬生の手のひらを自分の胸に押し当てた。
 シャツの上からでもわかる下着の感触と、その奥の、ふにっとした弾力。
 慌てて蓬生が手を引っ込める。
 反射的に四ツ葉の顔を見た蓬生を、四ツ葉もまた見つめていた。
「うそじゃなくなった」
 猫のような目。小さな鼻。肌理細かやかな頬。熟れた桃のような甘い匂い。四ツ葉ゆめは表情一つ変えずに告げた。
 風が入ってきて、カーテンと四ツ葉のやわらかそうなくせっ毛を揺らす。車のエンジン音が微かに聞こえた。
「もういかなくちゃ。じゃあ、これ」
 四ツ葉は六色のルートが描かれた紙を蓬生に手渡す。ペンケースを鞄にしまい、開け放たれたままの窓には一瞥もくれず、後方扉に向かって歩を進める。鞄に付けられた小さな犬のぬいぐるみがぶらぶら揺れて主人の代わりに蓬生に手を振る。
 言いたいことは山ほどあるし、訊きたいことは倍はあったが、蓬生は咄嗟に四ツ葉の背中に声をかけた。
「ねえ、これって、いつまでやるの?」
 開けた扉の前で四ツ葉が振り向く。
「わたしがヨモギをシンヨーするまで」
「それまで、これを毎日……?」
 四ツ葉が首を横に振る。
「それはカヨービの。ほかのヨービのはまたあしたわたすから。それから、あさはぎりぎりにきて」
 扉が閉まる。
 かあ、かあ、かあ。
 カラスが帰れと鳴いている。
 ひとり教室に取り残された蓬生は、夕暮れ時の風を体に受けながら、なにを考えるでもなく四ツ葉が出て行った扉を眺めていた。手のひらが味わった感触と四ツ葉の顔は、できるだけ思い出さないようにして。
 四ツ葉の左胸に触れた右手は、やはり本来あるべき鼓動を感じなかったが、その異変も蓬生は一緒に封印してしまった。

#創作大賞2024 #漫画原作部門

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