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【小説】『100万倍伝えられる猫』第7話

■なぜ人は読んだ本の内容を忘れてしまうのか

「AIDAの話のとき、お前DのDesireが言えなかっただろ」
「そうですね」
「ありゃ、なんでだ?」
 なんで?
「いや、そう言われても……。英語が苦手だから、ですかね?」
「本質的には違う。英語が母国語の外国人だって、忘れたりするからな。お前の場合、『欲しがらせる』って日本語の意味がわかってたからまだいいけど、仮にAIDPAでDだけじゃなくPの英語や意味がわかんなかったら、まずいだろ。でも人は簡単に忘れる」
「すぐ忘れちゃいますね」
「忘れちまったら、せっかくの法則も理論もクソの役にも立たねえ。こんなことになる原因は、そもそもローマ字が表音文字だからだ」
「表音文字って、音だけの文字ってことですよね」
「そうだ。DやPそれ自体に意味がない。だからAIDAとかAIDPAって言われても、思い出すトリガーがねえから思い出せない」
「それは、そうかもです」
「おれの『ダブトラ』だって、頭文字がみんなPってだけで、表音文字には違いねえ。でも思い出すヒントがある」
「たしかに。AIDPAだと、Iを憶えていたからって、Dが思い出せるわけじゃないですけど、『ダブル・トライアングル』の場合、進んでいく順番がわかっていれば、次はこうだって思い出しやすいですね」
 ダブトラがこく、と首肯する。
「それはな、『図』があるからだ。というか、それこそが『図』の力だな」
「図、ですか」
「お前さ、最近マーケティングとかライティングの本読んでるみてえだけど、なにをどんだけ憶えてる?」
「なにを、と言われると……いろんな小ネタみたいなのはいっぱいあったんですけど、具体的に使えそうだなと思ったのは、AIDAとかくらいですかね」
「そこの本棚にあるプログラミングだとか、株だとか、英語の勉強法の本だとかには、なにが書いてあったんだ? そんでお前が実践できてることってなんだ?」
 思わず腕を組んで首をかしげる。
「内容は、薄っすら憶えてなくはないんですけど……。なにが書いてあったとか、なにを実践してるかって言われると、すぱっと言えないというか」
「じゃあさ、」
 気にすんな、と言わんばかりに尻尾をゆらゆら振って、ダブトラが話題を変える。
「小学校んときに習った、距離と時間と速さの求め方って、まだわかるか?」
「ああ懐かしい。ありましたね。『き・は・じ』って円のやつですよね。憶えてます憶えてます。求めたいものを手で隠してっていう」
「おー、よく憶えてんな」
「何十年振りに思い出したかわからないですけど。うちの小学校じゃ『木の下のはげじじい』って習いました」
「それが『図』の力なんだよ。『きはじ』の図が完璧だとは言わねえし、図を丸暗記することの問題点もたしかにある。でも、あの図があるだけで、どんな奴でも時速の問題が抜群に解けるようになるし、こうして大人になったって忘れねえ。つまり、ほんとの意味で『使える道具』として完成してるってこった」
 言われてみれば、なるほど。
「一方でどうだ。いろんな本読んで勉強しても、三日と経たないうちに記憶はぼろぼろ抜け落ちていくし、『きはじ』みてえに問題を解決するための便利な道具として活用できてねえ。なぜか? 図がねえからだよ。──おれだってそうだ」
 めずらしくダブトラが過去の自分の話をする。
「おれだって数百冊どころか、数千冊は本を読んできた。高っけえセミナーとか勉強会とかにも出たよ。でもこれが、大して憶えてねえんだなあ。意味がなかったとは思わねえが、なんっつーか、歩留まりが悪いのがずっと不満でな。原因を突き詰めていくと、結局は『図』の問題だってわかった。ずばり、いい『図』は記憶に残るし、道具としてきちんと使える。『図』がねえもんは、たいがい忘れちまうし、道具にまではなかなかならん。それからは、ビジネス書の見え方がずいぶん変わったよ」
「どう、変わったんですか──?」
「おれの勝手な解釈だが、世の中のビジネス書って呼ばれるもんの、九五パーセントは正直な話『焼き直し』と『ティップス集』だ。どれも見た目は画期的だったり、オリジナリティに溢れてそうだが、実際には既存の本の内容に、ちょっとアレンジが加わってるだけに過ぎねえ。究極的にオリジナルな内容を書こうとすると、自分の人生に紐付けるしかねえが、それにしたって人間みんな似たような道歩んでんだって言えなくもない。よっぽど独創的でパイオニアでない限りな」
「『焼き直し』というのは、わかる気がします。ビジネス書って、一つベストセラーが出たら、次々に似たような本が出てきますもんね。『ティップス集』というのは?」
「Tipsってのは、ちょっとした小技やコツのことだが、どんな領域であれ、そういったもんが羅列されてる本のことだ。お前が最近読んだ本のなかにもなかったか? こうすればいいぞってマーケティングの小技みたいなのが、たんまり書いてるやつとか」
「ありましたありました。一応、カテゴリーで章分けはされてましたけど、ひたすら小ネタ的なものが書いてあって、正直ほとんど憶えてないです。困ったときに、辞書的に使えればいいかなと」
「まあな。といっても、おれも批判的に言ってるわけじゃねえんだ。『焼き直し』的な本のなかにも、画期的なアイデアが加わってるものもあるし、ばらばらだった内容をまとめて、再現性のあるレシピにうまくまとめてる本もある。表現が違うだけだが、それでずいぶん読みやすかったりわかりやすいってんなら、それも価値っちゃ価値だ。作者の経験や最新のエビデンスに基づいた見事な『ティップス集』もある。だから、悪いって言ってるわけじゃねえ。ただ、おれの感覚的にはビジネス書の大半以上が、そういった本で占められてるって話で」
 僕はとてもダブトラほど本を読んできてはいないけれど、なんとなく言わんとしていることはわかった。だからなおさら、気になるのは残り。わずか数パーセントの本がどういうものか。
「じゃあ、残りの五パーセントは?」
「四パーセントが『不完全新説』で、最後の一パーセントが『完全新説』だ。新説ってのは、文字どおり『新しい説を唱えてる』ってことだな」
「新説……なるほど、時代を象徴するような本ってありますもんね。それこそ、新しい時代の名前になるような。でも、不完全と完全は、なにが違うんですか?」
「全世界でベストセラーになるような本のことだけじゃねえんだ、新説っつっても。明確に『焼き直し』とどう違うんだって言われたら微妙なところはあるんだが、オリジナルな概念で、かつ体系化されてたら一応は新説って呼んでいいのかもしんねえ。で、不完全と完全の差だが、これが何度も言ってるように『図』だ」
「あ、ここで『図』なんですね」
「そう。さっきの『きはじ』の円の話に戻るが、あれがもし『距離を知りたいときは、速さに時間を掛ければいい。速さを知りたいときは距離を時間で割ればよくて……』ってな具合に、文字だけで説明されてたら……どうだ?」
「きっと憶えられないですね。『なんだっけな?』って迷う気がします」
 ダブトラが頷く。
「画期的なこと言ってても、最終的に一つの簡単な『図』に昇華されてねえと、結局は『道具』としておれたちの人生や生活になかなか革命をもたらしてくれねえ──。と、まあうだうだ言ってっけど、あくまでも実用系のビジネス書での話だし、話半分に聞いててくれりゃあいいよ」
 ダブトラの話に納得する部分は多かったけれど、僕は目で了承した。
「だから『ダブル・トライアングル』は図になってるんですね。僕は直接レクチャーしてもらったってのもありますけど、あの図は、一生忘れない自信があります」
 にゃはは、とダブトラが久々に笑った。
「そりゃ良かったよ。じゃあ最後に追加でアドバイスだ」
「お願いします」
「これからいろんな本読んで、こりゃいいこと書いてんなって思ったら、その本の内容を自分なりに図解してみるといい。下手くそでもいいから、絵にするなり、構造化してみるんだ。最初はうまくいかねえだろうけど、慣れてくりゃ図解の癖がつく。もしうまく図解できねえなら、それはお前がいまいち理解できてねえって証拠だ。理解は図解、これを憶えておくといい」
「図にする、ですね。やってみます」
「それと、これまでなんだかんだお前に教えたが、大部分は忘れるだろう」
「うっ……」
「それでいいんだよ。こまいテクニックだのなんだのは、必要なときに都度々々調べるなり見返するなりして、徐々に記憶に定着させていけばいい。軸となる『ダブトラ』さえ忘れなけりゃな」
「はい」
「そんでもし、もっとマーケティングだのコピーライティングだのに興味が出てきて、本を読んだり勉強する気になったら、『ダブトラ』の図に書き足していくイメージでやるといい。補足したり充実させたりするつもりでな。『ダブトラ』はあくまでもガイドラインだ。時代や状況に合わせて、お前がカスタマイズしていけば、きっともっといいものになる」
「わかりました。ありがとうございます」
 ふんっ、と鼻を鳴らして丸くなったかと思うと、すぐにダブトラは寝息を立てはじめた。今日のダブトラはやけに饒舌だった。これも『極にゃ〜る』の力だろうか。サクラにはあらためてお礼を言わなければいけない。
 手帳を閉じ、サクラのことを考えながら、僕も横になった。週明けにはテスト直しの結果が出る。どうか実を結んでほしい。なにより、サクラの喜ぶ顔が見たかった。祈るような気持ちで、僕は目を閉じた。

■つづき


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