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ジャズスポットヤマトヤ

 九月に入ったというのに、外は太陽がギラギラと照りつけて暑い。午後二時、乾ききった洗濯物を取り込もうとベランダに出ると、くっきりとした夏っぽい雲が浮かんでいて、日の傾き具合だけが季節の進んでいることを感じさせる。クーラーを効かせた下宿の部屋で、何をするでもなく怠惰な土曜日を過ごしていた私は、朝から「そろそろ原稿を書かないと……」と頭の中だけで繰り返していた。

 重い腰を上げ、向かったのは近所の老舗ジャズ喫茶、ジャズスポットヤマトヤ。

 見慣れた東山丸太町の交差点の南東の角から東に進み、青地に白文字でヤマトヤと書いてある看板が見えたら曲がる……ということは覚えていたのに、「この辺りは武道具店が多いな」なんてことを考えながらふらふらと歩いていたら、通り過ぎてしまった。街路樹で看板が見えにくくなっていたことも原因の一つかもしれない。
 慌てて引き返して細い路地へ曲がると、車や観光客の行き交うにぎやかな丸太町通りから一転し、静かで落ち着いた住宅街に入った。その住宅街に、ひっそりとヤマトヤはある。まず目に入ったのは、店の前に置いてあった、モノトーンのピアノの上に人が折り重なったような少し変わったデザインの看板。気になって近くに寄り、じっくりと見ていると、不意に後ろから三十代半ばくらいの男の人が来て私を追い抜かし、ドアを開けて店に入っていった。その一瞬、突然サックスの突き抜けるような音が店内から路地へ溢れ出てきて、ドアが閉まると同時に再び静かになった。
 急な出来事に少しの間呆然とした後、一人でジャズ喫茶に入るのは初めてだったこともあり、ドキドキしながらドアを開けると、全体を見回す余裕もなく入り口から一番近いカウンター席に座った。薄暗い店内の重厚な雰囲気に、緊張の解けないまま、カウンターの中のマスターにホットコーヒーを頼むと、酸味と苦味の二種類から選ぶよう言われ、苦味の方を選んだ。

 始めは、緊張していたのと、人目を気にして、店内を見渡すことができなかったため、目の前の年季の入った電動コーヒーミルを見つめていた。そのうち、マスターが、なにかの動物の顔のような独特な形をした壺の中からコーヒー豆を取り出し、そのミルで挽き始めた。そのまま見つめ続けるのも気まずいため、カウンターの中の壁に備え付けられたガラスの棚に私は目を向けた。下の段にはいろいろな模様のコーヒーカップが並んでいる一方で、上の段にはワイングラスやロックグラスなどが綺麗に並べられ、バーとしての営業もしていることが分かる。
 程なくしてマスターが出してくれたコーヒーは、苦味がありつつもまろやかで、おいしいコーヒーを頂いているなという感じ(私はコーヒーにあまり詳しくないので、この程度のことしか言えない)だった。カウンターの真っ赤なテーブルに、白地に薄い黄緑色の花柄のコーヒーカップがよく映えていた。

 コーヒーを飲み、ようやく緊張の解け始めた私は、店の奥のお手洗いに行くついでに店内を少し歩き回ってみた。店内は広すぎず狭すぎず、丁度良い広さで、細い線で描かれた草花の模様の壁紙や、レトロ風な濃い茶色の椅子やテーブルなどは、店全体の雰囲気を重厚感がありつつもほっとするようなものにしていた。客は、私の直前に店に入った男性がカウンターに、三人連れの女性グループがテーブル席にいるだけだった。女性グループは、時々笑い声をあげながら何かについて話し合っている。カウンター席の後ろの壁際には、大きなスピーカーが二つ、茶色のピアノを挟んで置いてあり、チャーリー・パーカーの≪Now’s the Time≫のレコードが流れている。店の奥には、壁全体を覆う棚にびっしりとレコードが詰まっており、そのあまりの多さに圧倒された。一体どのくらいの年月をかけて集めたのだろう。レコードの一枚一枚が、ヤマトヤのジャズ喫茶として積み重ねてきた歴史を形作っているような感じを受けた。

 むやみに干渉してこない落ち着いた雰囲気に、すっかり居心地の良い気分になった私は席に戻って少しぼんやりした後、残ったコーヒーを飲み干し、名残惜しく思いつつ店を後にした。

(水野ひなの)

ジャズスポットヤマトヤ公式ホームページ

《Now's the Time》Charlie Parker


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