でかいキリスト

サウダージと地球の裏側

 今年*1はボサノバ誕生六十周年である。一九五八年、ブラジルのギタリスト兼ボーカリストであるジョアン・ジルベルトによるアルバム『シェガ・ジ・サウダージ』の発売が、ボサノバが初めて世に出た契機だと言われている。今でこそボサノバというと、ジャズスタンダードの中の一ジャンルになり、古い音楽というイメージがあるだろう。しかし、ボサノバというスタイルがブラジルで生まれた当時は、かなり革新的なサウンドとして受け入れられていた。
 というのも「ボサ・ノヴァ」という言葉自体、「bossa(傾向)」「nova(新しい)」という単語を掛け合わせたものである。ボサノバ以前のブラジル音楽というのは、伝統的なサンバやショーロなどの大衆音楽であった。それが、リオの白人や学生の音楽家達の様々な試みによって都会的で洗練されたサウンドに変化していった。これがボサノバの始まりである。つまり「ボサ・ノヴァ」は、以前の伝統的なサンバの土臭さを、都会的で爽やかに変えた若者の「新しい感覚」なのである。

 先に述べたとおり、ボサノバの誕生といわれるジョアン・ジルベルトのアルバムには「ボサノバ第一号」と呼ばれる有名な曲が収録されている。アルバムと同タイトルの《シェガ・ジ・サウダージ》という曲だ。

 この曲は《イパネマの娘》や《コルコバード》など、現在でも広く愛されている数々のボサノバのスタンダードナンバーを作曲したアントニオ・カルロス・ジョビンによる例外なき名曲である。ボーカル入りのテイクが多く、現在でも多くのジャズミュージシャンが好んで演奏する一曲だ。かくいう私も《シェガ・ジ・サウダージ》はジャズの中でも最も好きな曲の一つであり、ライブの編成ごとに様々なアレンジで何度も歌っている。

 《シェガ・ジ・サウダージ》のタイトルは、一般的な訳だと「chega(十分な)」「saudade(郷愁)」で「思い出なんてもう沢山だ」という意味になる。歌詞の前半部を抜粋すると

Vai minha tristeza e diz à ela
Que sem ela não pode ser 
Diz-lhe numa prece que ela regresse 
Porque eu não posso mais sofrer 
Chega de saudade, a realidade é que sem ela 
Não há paz, não há beleza, é só tristeza
E a melancolia que não sai de mim, não sai de mim, não sai

私の悲しみよ 
彼女に言ってくれないか
君なしでは駄目なんだと
そして伝えてくれないか 
お願いだから戻って来てくれと
でないと私はもう生きていけない
サウダージはもう沢山 
彼女なしのこの世界に
平和などありえない 美もありえない
そしてあるのは
決して抜け出すことのできない
悲しみと憂鬱だけ

 前半部はマイナー調に乗せて、愛する人がここに居ないことへの悲しみを歌っている。後半部はメジャー調になり、前半と打って変わって「彼女がいたらどんなに世界が素晴らしいだろう」と明るい歌詞になっている。
 英詞もある。題名は《ノー・モア・ブルース》、chegaの部分を「no more(もう十分)」と訳した点が秀逸である。ちなみに邦題は「想いあふれて」 こちらはchegaがやや直訳的ではあるが、歌詞の内容的にも適切で美しい題名だと言える。

 ここで「saudade」という言葉に注目する。ポルトガル語で、ブラジルでの発音は「サウダージ」(ちなみにポルトガルでは「サウダーデ」)。 日本ではポルノグラフィティの楽曲で耳馴染みがあるだろう。この言葉はよくブラジル音楽の歌詞に登場する。意味は少し複雑で、他言語では一言で訳し難い。先ほど私も「一般的な訳で」と断って訳したが、日本語ではしばしば「郷愁」「哀愁」などと訳されることが多い。
 しかしこの言葉はポルトガル語特有の言葉で、さらに言うとブラジルのサウダージはポルトガル語のそれよりもっと独特なニュアンスを帯びているようだ。「過ぎ去った昔の思い出や風景を懐かしがる」「離れ離れになった家族や恋人を思い慕う」時に現れる感情を示す表現であり、「今ここにないものに対する憧れ」と言えそうだ。様々なことに対して使える言葉で、とにかく切なさで胸がきゅーんとする時の気持ちを「サウダージ」と表す。

 日本人にも古来から「もののあはれ」という日本語特有の観念がある。何か美しいものや心打たれるものを見たとき、「もののあはれ」が現れる。物事の情景と心情がマッチしてそこには特有の「美」が生まれるのである。昔の日本人は、自らの心に内在する「もののあはれ」をいかに和歌に宿らせるかという工夫を凝らしてきた。というよりそれこそが表現することの意味であった。

 「サウダージ」は「もののあはれ」と似ている気がする。「もののあはれ」はここにあるものに対して現れた情感にも使うという点では異なるが、個々人の心の中で育まれ、人々にとって特別なニュアンスを持った表現の原点となる感情である。だからこそ多くの作詞家が歌詞に「サウダージ」を入れこみ、作曲家は音楽に「サウダージ」を込める。そして、私達聴き手はそれらの作品から「サウダージ」を受け取って愛するのである。

 ブラジル音楽の歌詞には複雑で情感深いものが多い。映画『黒いオルフェ』挿入歌である《ア・フェリシダージ》は、「A felicidade do pobre parece a grande ilusao do carnaval(貧しきものの幸せはカーニバルの幻影のよう)」という一節がある。その中には人の幸せのはかなさ、日本で言うところの無常観がうかがえる。「ないものに対する憧れ」や「束の間の幸福」という感覚がブラジル人の精神の奥深くに根付いている。それは日本人が持っている無常の感覚と少し似ているのかもしれない。私はボサノバを歌う時、遠い地球の裏側に親近感を覚えるのである。

(野村美空)

*1 [編集部注] 掲載当時 (2018年)

本稿は、"I Could Write A Book" vol.1 (2018年秋頒布)に掲載されたものです。

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