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天国にいるお父ちゃん

2022年11月27日(日)枚方くずは教会 アドヴェント第1主日礼拝 宣教
マタイによる福音書6章9−13節(新約聖書・新共同訳 p.9、聖書協会共同訳p.9)
有料記事設定となっておりますが、無料で最後までお読みいただけます。有志の方のご献金をいただければ、大変ありがたく存じます。
最後に動画へのリンクもあります。「読むより聴くほうがいい」という方は、そちらもどうぞ。

▼マタイによる福音書6章9〜13節

 だから、こう祈りなさい。
 「天におられるわたしたちの父よ。
  御名が崇められますように。
  御国が来ますように。
  御心が行われますように、
    天におけるように地の上にも。
  わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
  わたしたちの負い目を赦してください、
    わたしたちも自分に負い目のある人を
    赦しましたように。
  わたしたちを誘惑に遭わせず、
    悪い者から救ってください。」

▼アドヴェントがやってきた

 みなさんおはようございます。本当に早いもので、もうクリスマスの足音が少しずつ聞こえてくるような季節がやってまいりました。
 まだ11月なので、だいぶ先のことかなと思っておりましたけれども、今日はアドヴェントの第1主日礼拝なんですね。今日から4週間後にクリスマスがやってきます。ウキウキするような気分でもありますが、クリスマスの中には「クルシミマス」と言う人もいます。
 舞台裏のようなお話ですが、クリスマスにクリスマスのお話をするだけではなくて、アドヴェントからクリスマスに向けて、ずっとイエスさまのお誕生にまつわる宣教を、4つか5つ用意していかないといけないんですね。そしてクリスマスも、礼拝だけでなく、さまざまな祝会のためのお話も用意する必要があります。ですから、まさに牧師にとっては「クルシミマス」と言いたくなるような季節ではあります。まあこれはイースターの前のレントもそうですね、はい。
 ところで、クリスマスが近づいてくると、私もお祈りするときに、祈りの中に「あなたの御子イエス・キリストがお生まれになられる時を、心を込めてお祝いできますように」という言葉を何度となく入れるようになります。「あなたの御子イエス・キリストのお誕生」という言葉が、自分の気持ちの中に慣用句のようにしみ込んでいて、それが出てくるんですね。
 この場合の「あなたの御子イエス」と言っているときの「あなた」とは誰か。それはもちろん「神」、「神さま」なわんですけれども、みなさんはこの神さまを「父なる神よ」という風に呼びかけますか? あるいは「天のお父様」とか? 
 それとも「父なる」とは呼びかけず、特に父でも母でもなく、例えば「造り主なる神さま」とか「恵みに満ちた私たちの神さま」と呼びかけますでしょうか?
 そして、この「父なる神」という呼び方、神さまが父であるという考え方についていけないという人がいることはご存知でしょうか。そんな話を聞いたことのある人もいらっしゃるかもしれません。

▼主の祈り

 今日お読みした聖書の箇所は、私たちのお祈りのモデルの1つとしてイエス様が示された「主の祈り」というものです。
 この「主の祈り」というのは、一応どこの教会でも共通で祈れるように、統一の翻訳が讃美歌に載っていたりします。
 おそらく今でも多くの教会で唱えられているバージョンは、「天にまします我らの父よ」から始まるもので、これは「1880年訳」と呼ばれているものです。以前の『讃美歌』では、564番にその言葉が載っています。
 いま使われている『讃美歌21』にも、148ページ、「93−3」に主の祈りが3種類掲載されています。Aが「1880年訳」、Bが「日本キリスト教協議会統一訳」、Cが「教会音楽祭委員会訳」。この「教会音楽祭委員会」というのは、超教派的/エキュメニカルな音楽祭が1968年以来行われてきていて、その委員会が訳した「主の祈り」です。
 けれども、この「主の祈り」は、各教会によって独自の翻訳がなされることもよくあり、こちら枚方くずは教会でも独自の訳を唱えていますよね? 私が普段奉仕している徳島北教会でも、前の牧師が訳した、独自の訳を使っています。
 ポピュラーな「主の祈り」は「天にまします我らの父よ」から始まりますよね。徳島北教会の「主の祈り」でも「天にいます我らの父よ」から始まります。神様は「父」であるという考えは、「主の祈り」に関する限り、大抵変わらないわけですね。

▼神は男か

 ところが、果たして神さまは男なのか?
 特に、ユダヤ教、キリスト教の中で、男性中心主義、父権主義的な体質があると指摘されることがあります。
 男の方が大きな顔をしている。大抵の教会では教会員には女性の方が多いのにもかかわらず、役員会などで大きな顔をしているのは大抵男だし、重要な意志決定をするのも大抵男。
 牧師も男が多いし、本を書いている神学者などもお爺さんばかりだし、日本基督教団の教区総会、教団総会などを見れば、女性の数は本当に少ない。重要なポストに立って、偉そうに物事を決めているのは、ほとんど男です。
 まあ一般社会でも日本ではそういう体質は色濃く残っていますけれども、教会では一般社会以上に旧態依然ですね。
 かくいう私自身も男性なので、あまり偉そうなことは言えないんですけれども、キリスト教会というのは、まだまだ男性優位、男性中心的で、個別の教会においては例外はあるかもしれませんが、全体的に見て多くの教会が非常にバランスを欠いた状態だなと思います。
 そして、そのような女性と男性の無意識の力関係に、「神さまは男である」という信仰も、少なからず影響を与えているのではないかと指摘されることがあります。
 旧約聖書の時代から、神は男であるという捉え方が主流でした。聖書の中では、神は「王」であり、「主人」であり、「夫」として描かれる記事がほとんどを占めています。そのことが、クリスチャンの男性優位主義に悪影響を与えているのではないかと問題提起がされているわけです。

▼神を「父」とは呼ばない

 私自身も、「あなたが自分が男であることの特権に気づかなさすぎる」と指摘されたことがあります。『男はつらいよ』という映画がありますが、「女はもっとつらいんだ」というわけですね。
 私がある聖書研究のサークルで、「男社会は競争意識が強くて、お互いにマウントを取りたがってしまう面があるので、とっても疲れる。その点、女性とは競争する必要がないので、対等に話すことができる。だから僕は女性の友人と話す方が好きです」と言ったときに、ある女性から即座に「それはあなたが男性だから、相手の女性が気を遣っているだけだからではないですか」と、ピシャッと指摘されたことがありました。
 それで「ああそうなのか、自分が居心地がいいと思っているのは、自分が優位な立場にいるということに気づかずにいるからなのか」と初めて意識するになったことがあります。
 そういった経験を積み重ねてゆく中で、「自分が男性であること自体の差別性」を気付かされるようになってから、私は次第に祈りの中で神さまに呼びかける時に、次第に「天の父なる神さま」という言葉を使わなくなっていきました。
 ですから、「主の祈り」をみんなで唱える場面で異を唱えたりすることまではしませんけれども、自分が祈る時には、あえて「父」とは呼ばず、「愛する天の神さま」あるいはシンプルに「神さま」とだけ呼びかけるという形に変えてゆくようになりました。

▼イエスは「父」と呼んでいる

 けれども問題は、いくらそうは言っても、当のイエスさまご自身は神さまのことを「父」と呼んでいるということが残ります。
 私が普段奉仕している徳島北教会でも、「神さまのことを『父』と呼ぶことについて、どう思いますか?」と、今話したような背景事情も含めて問いかけたことはありましたけれど、あっさりと「でも、イエスさまが『父』と呼んでいたからなあ」と軽く流されました。
 そうなんですよね。イエスさまが神さまのことを「お父さん」と呼んでいたことは間違いない。だから私たちも神のことを「父」と呼ぶ。それは確かにその通りです。
 そこで私もいろいろ想像してみました。
 イエスさまは、ご自身を取り巻くフォロワーたちに、「私の母、兄妹とは誰か。それは神の御心を行う人だ」と言ったというエピソードがあります(マルコ3.31-35)。ということは「ここに私の父がいる」とは言っていません。肉親として父親の話はイエスさまは一切しません。
 また、別の場面では、「私のために家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者は、今この世で迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け……」という言葉もイエスさまは残しています(マルコ10.29-30)。ということは、財産や家族を捨てた者のところに、終わりの日にはそれら全ては戻ってくるけれども、「父」だけが戻ってこないわけです。つまり、地上の人間にはもう「父」は要らないんだと。父権主義的なこの世の父はもう要らない。私たちの父は天のお父さんだけで十分なんだと。
 そういうことになると、少し想像を逞しくすると、ひょっとしたら人間としてのイエスさまは幼い頃、肉親としての父親から酷い虐待を受けて、自分の本当の父親は神さまだけなんだという信仰に導かれたのかもしれない……。
 もちろん、それはあくまで想像に過ぎません。想像に過ぎませんが、1人の人間として生きたイエスの生身の心では何が起こっていたのかに興味が惹かれます。
 実は、それまでのユダヤ人の歴史、旧約聖書の中で、神を「王」とか「主」とか「夫」というふうに、男性として呼びかけることはありましたけれども、「お父さん」と呼びかけた人はいませんでした。イエスさまが初めてです。それで他のユダヤ人指導者たち(祭司や律法学者たち)は、「何という冒涜だ。自分を神の子であるように自称するとは!」と怒りを燃やしたわけですけれどもね。
 神を男であるように表現したところは、現代のフェミニズム的な視点から見れば、古代に生きていたイエスさまはちょっと物足りないところがあったかもしれません。しかし、当時の世の中の基準から見れば、相当踏み込んだ、相当に革命的な神さまの捉え方であったことは間違い無い。そこは評価しなければならないところだと思うんですね。

▼アッバ

 ここでイエスさまが神さまに呼びかけた時、どんな言葉で呼びかけたかを確かめておきたいと思います。
 イエスさまは普段はアラム語というヘブライ語と非常に似た言葉を使っていました。ユダヤ人の標準語であるヘブライ語の方言のようなものだと言う人もいます。
 イエスさまが神さまのことを呼ぶ時は、アラム語で「アッバ」です。これは聖書の中では、イエスさまが逮捕される直前にゲツセマネの園で神に助けを乞う祈りを捧げる時に「アッバ、父よ」と呼びかける場面で出てきます(マルコ14.36)。
 これ、実は「アッバ」という言葉を書いているのはマルコによる福音書だけです。このゲツセマネの祈りの場面はマルコにもマタイにもルカにも書かれているんですけれども、最初に書かれたマルコには「アッバ」の言葉が入っているのに、後からこれを書き写したマタイとルカは、この「アッバ」という言葉を削除しているんですね。
 ということは、これも推測ですが、後から書かれた福音書は、あまりにイエスさまが神さまに馴れ馴れしく呼びかけている様子を薄めるために、「アッバ」を削除したのかなと考えたりもできます。
 「父よ」というのはギリシア語では「パテール」という言葉になります。このパテールでは「父上」「お父様」から「パパ」まで全部「パテール」です。
 けれども「アッバ」というのは幼児語です。「パパ」と一緒です。「んーば!」という、赤ん坊が最初に口から出た声が、そのままお父ちゃんを呼ぶ言葉になったんでしょうね。
 ちなみにお母ちゃんのことは「インマ」という言葉です。これもやっぱり「んーま!」という赤ん坊の時の言葉から出てきているんでしょうね。
 だから、イエスは神さまのことを「パパ!」とか「お父ちゃん!」と呼んだわけです。そして、これがあまりに神の権威を貶めるということで、周りの人を驚かせ、怒らせたわけです。
 イエスさまが神をイメージする時、それは、権威主義的で父権的、暴力的、上から妻や子どもたちを押さえつける父上さまではなく、優しく抱きしめて可愛がってくれるような、愛情に満ちた神さまです。

▼天国にいるお父ちゃん

 さて、私たちはどうでしょうか。
 昔、自分が自分の親のことを「ママ」とか「パパ」とか呼んでいたのが恥ずかしく、「やっぱり高校生くらいになったら、『お母さん』『お父さん』と呼ばなくちゃな」と、勇気を出して「お母さん」と呼ぶようにして、「何それ」と笑われたことを思い出します。まあそれも今50代後半になっても安定せずに、「おかん」とか「おとん」と言ったりします。ただ、さすがに「パパ」は無いですね。ところがイエスさまは神に「パパ」と呼んでしまったわけです。
 私たちはお祈りの時にどうするでしょうか。
 「天のお父ちゃん」と呼ぶのも照れくさい。やっぱりせいぜい「天のお父さん」というくらいの感じでしょうか。
 このあとお祈りしますけれども、やっぱり「天のパパ」、「天のおとーちゃん」と呼ぶにはちょっと抵抗がある。そういうお祈りをする牧師もいるんですけれども、私はちょっとそこまではまだ到達していません。「天のお父さん」と呼びかける程度になりそうです。
 お祈りいたしましょう。

▼祈り

 愛する天のお父さん。
 今日、こうしてあなたの敬愛する枚方くずは教会の皆さんとともに、アドヴェントの最初の聖日の礼拝を捧げることができます恵みを心から感謝いたします。
 これから私たちは、クリスマスの季節に近づいてゆきますが、 今年のクリスマスも、あなたご自身がイエス・キリストを通して、私たちのもとに来てくださったことを、喜び合う、心温まるものとなりますように。
 あなたの御子イエス・キリストが、あなたのことを「アッバ(パパ)」と呼んだように、私たちもあなたのことをいよいよ身近に感じたいと思います。 どうか私たちのそばにいて下さい。
 イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。 


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