「違う」から愛し合える〜私の差別体験より
▼民族差別しました
私、差別していました。
普段、差別の問題については、意識しようとしているつもりでしたけれども、今回は改めて自分の中にある無意識の差別に気付かされました。気付かずにいたよりは気付かされたほうが良かったので、結果的には感謝すべきことなんですけれど、今まで全く気付かなかったことに、ちょっと自分でもショックでした。
具体的には何があったかというと、この8月の半ばに、語学研修の生徒さんたちの付き添いでカナダに訪れていたのは、皆さまにもご報告していたのですけれども、その間に、生徒さんたちがお世話になっているホームステイのご家庭のひとつに訪問する機会がありました。
それで、まあもともとあまり英語力もないのですけれども、そのご家庭の方は、カナダ・ネイティブではなくて、移民の方だったんですね。
それで、それまで自分が耳にしてきた英語の発音とはかなり違っていて、特に聞き取りにくかったわけです。そのため、自分のリスニングの力では、いつもにも増して何を言っているのがわからなかった。
それについて、別の場所で「あれでは生徒も大変だね。なまりがひどくて聞き取れないね」と言っていたんですね。
実は、あちらに滞在中、バンクーバー在住の教え子と連絡を取っていて、その話をしたんですね。すると、その人が言うには、「それ、こっちだと人種差別にかなり近い発言なんですよね」。
▼自分の中の白人中心主義
なるほど、カナダというのは、幅広く移民を受け入れてきた国で、町中でも住宅地でも、本当にいろんな民族の人がいます。カナダというと、もともとはアングロ・サクソン系の人が多かったのかもしれませんが、今はインド系、中国系、コリアン系の人たちが大勢を占めていて、いわゆる白人と呼ばれてきた人のほうが3割程度、アジア系に比べると少数派なんですね。
ちなみに、今回訪問したご家庭は、ある中東に近い、西アジアの方からやって来られていた移民の方でした。
そうなると、英語の発音ひとつとっても、いろんなスタイルがあるわけです。「これが標準的な発音だ」と言ってしまうと、一体誰の発音でそんなこと言ってるんだということになります。「あれはなまりがあるね」と言うことは、基準になっているマジョリティの民族があって、他の民族は劣っているということになります。
その教え子さんによれば、「聞き取りにくいのは聞き取る側がそのアクセントに慣れていないからで、聞き取る側の責任なので、その場合は、コミュニケーションに時間がかかるという表現をしないといけない」とのことなんですね。
考えてみれば、研修に来ている私たちも、日本風の発音をしているのに、それを受け入れられている。ということは、発音で差別されていないわけです。だからこそ、堂々と「ジャングリッシュ」(つまりジャパニーズ・イングリッシュ)と言ってもいいような発音をすればいいということなんですね。
私は、自分の発音をその社会に許容してもらいながら、自分自身は、ある種の発音を「標準」と思いこんでいたわけです。一体誰の発音を、無意識の内に基準にしていたのでしょうか。それは、たぶんアングロ・サクソン風の(それも上流階級の)、日本の英語教育でよく使われているアクセントでしょうね。
ということは、アングロ・サクソン中心主義(つまりは北アメリカ大陸での侵略者に当たる人たち中心主義)が、無意識のうちに身についていて、他の民族を「あれは標準的ではない人たちだ」と見下すような姿勢に与していることになるわけです。
▼自分の中のコリアン差別
これは、翻って日本社会のことに当てはめてみれば、たとえば、日本語の発音が下手だといって差別された民族がありますよね。
日本で、コリアンの人たちが日本語の発音のしかたで、自分がコリアンであることが日本人にわかり、そのために差別的な扱いを受けたり、暴力を振るわれたり、殺されたり……。
101年前のちょうど今日、9月1日に起こった関東大震災のときには、在日コリアンが暴動を起こしているというデマが流れて、コリアンに対する日本人による虐殺が起こりました。その時、朝鮮人を割り出す方法が、「15円50銭」と言わせるというやり方だったそうです。日本語の発音によって、在日コリアンを割り出す。そして相手が朝鮮人だとわかったら、殺すということがありました。
そうやって発音の違いで命を奪うということが日本で起こっていた。その差別とつながることを、自分がやってしまったと。そのことに気付いた瞬間、私は息を呑みました。「ああ、俺は差別者だったんだ!」と思いました。
けれども、今回、「気付かせてもらえてよかった」とも思いました。気付かなければ、そのままですから。
そして、これから自分がどういう生き方をしてゆくのか、よく考えないといけないと思いました。
そもそも、外国人に「日本語おじょうずですね」と声を掛ける事自体が、「マイクロアグレッション」だと言われます。「マイクロアグレッション」というのは、直訳すると「微細な攻撃」。「自分では攻撃になっていることが全然気付かない細かい攻撃」。意訳すると「無意識の差別」「自覚なき差別」と言います。
いろんな本当の意味で「多様化」というものが成立している社会では、そういうことは問題になりません。だから、これはいかにも、自分が圧倒的多数の日本人であることにあぐらをかいて、少数者のことを忘れている証拠なのだと思われました。
人生はこういう気付き、気付かされの連続です。こういう経験をして自分を見直してゆくしかないのでしょうね。
▼聖書の中の「人種主義」
さて、今日の聖書の箇所は、いわゆる「人種差別」の正当化のために長らく使われてきた記事です。
ノアというのは、大洪水を生き残った家族のリーダーとしての家父長ですけれども、このノアの息子たちの名前としてセム・ハム・ヤフェトが紹介されています。そして、ハムが末っ子だと説明されていますね。このハムが、ぶどう酒を飲んで酔っ払ってテントのなかで素っ裸で寝ていたノアの、その裸を見てしまうんですね。
当時の家父長というのは、家族、部族のなかで絶対的な権威を持っていましたから、その家父長の恥になるようなことは絶対に許されないわけです。でもハムは、その家父長の恥ずかしい姿を見てしまった。
他のセムとヤフェトは、親父の裸を見ないように、後ずさりしながら、着物をかけました。だから父親の裸を直接見てないですね。それで、ハムだけがあかんことをしたということになるのですけれども、それでノアはハムの息子のカナンを呪うんですね。「カナンはセムの奴隷になれ」と。自分が酔っ払って裸で寝てたんがあかんのやろ、と思いますけれども、そういうことをする。
長男のセムというのは、セム語族といって、イスラエルを含む人たちですね。これに対してハムの息子のカナンというのは、イスラエルから見れば、パレスティナ地方の先住民です。ですから、この物語自体、イスラエル中心主義の立場で、「あいつら先住民は俺たちの奴隷になるべきだ」というプロパガンダなわけです。
そして、ずっと後の時代になって、これを更に自分たちに都合の良いように解釈したのが、奴隷貿易でアフリカの人たちを強制的にヨーロッパやアメリカに連れてきた人たちですね。
自分たちの黒人差別を正当化するために、白人はセム、黄色人種はヤフェトで、セムの天幕の下で住まわせてやる。まぁここにも黄色人より白人のほうが優越しているという見下しもあります。そしてハムおよびカナンは黒人の先祖であるとしたんですね。神が彼らを奴隷にするために作ったのだと。そういうことをある種のキリスト教徒は大真面目に論じていたんですね。
▼同じことと違うこと
最近の世界では、「人種」という概念そのものがありえないという流れになっているようですね。「人種」というのは本来無いんだと。
ホモ・サピエンスの遺伝子というのは、ほとんど人によっては変わらず、私たちが人種の違いと思ってきたものは、実はグラデーションのようにそれぞれ微妙に違っています。実際、肌の色なんて、見たらはっきりと黒人、白人、黄色人と別れているんじゃなくて、メラニンの薄いアフリカ系の人もいれば、濃い色の肌のアジア人もいるし、黄色人でも色白の人もいれば、色黒の人もいますよね。
ぼくの学校の同僚にも、夏はずっと屋外で部活の指導をしていて、黒人と言われている人たちより真っ黒の人いますよ。そういう人たちは「俺らは光合成で生きてるんや」と冗談言ってます。
それに、しかも近年特に、異民族間の結婚も増えてきて、ミックスルーツの人も増えていている中で、人間が特定の人種に分類できるという考え自体が今やナンセンスなんですね。
ですから、英語でいう「レイシズム」という言葉を、かつては「人種差別」と訳していましたが、これだとまるで「人種」というものがあるという前提で言っているようなので、これはやめようと。「人種」という本来は無いものを、いかにもあるかのように思い込んで主張しているという意味で、「レイシズム」を「人種主義」と訳すことを提唱している人たちもいます。
私たちは、ホモ・サピエンスとしては、大して違いはない。生物種としては大して違いません。
では、違うのは何か。それは文化ではないかと思います。その文化の中に、食生活や服装、生活習慣、そして言語、さらにそれらの根底にある宗教観、宗教心など。それらを共有して、共同体を作って一緒に生きているのは、「民族」と呼んでいいのではないかと思います。
この「民族」についても、ホモ・サピエンスとして同じ人間同士が形作っているそれぞれの共同体に根ざすものですから、どっちが優れているとか、利害関係が対立するからといって、相手を自分より劣ったもののように揶揄したり、誹謗中傷するのは間違っています。
▼「違う」ことに立つ愛
先にお話しした経験から、私は「コミュニケーション」というものの、考え方の違いについて考えざるを得ませんでした。
コミュニケーションというのは、お互いに「同じ」であることを確認するためにあるのでしょうか。
全ての民族を見て言っているわけではありませんが、現代の日本人はそういう傾向が強いように感じます。お互いが同じ日本人であり、同じような文化を持つ人たちが、同じものの考え方の傾向を持つ人どうしで、「自分たちは一致している」という気分を共有するためにコミュニケーションを取っている。それが一概に悪いというわけではないけれども、日本人ってそういう傾向があるのかなぁと感じています。
それに対して私がカナダで感じたのは、お互いが「違う」ということが前提で、その違いをいかに調整しながら、お互いの言っていることを理解し、共通理解を見つけてゆくのか。そのためにコミュニケーションをしているという感覚でした。
「同じ」ことをベースにする愛というのは、「同じ」になれない者、「違う」人を除外して成立するという点で、問題あるいは限界があるのではないでしょうか。そして、これが「愛ゆえに対立する」「愛ゆえに戦う」ということにつながっているのではないか。
多くの戦争が自国民や自民族に対する愛が根底にあることを考えると、「我々は同じだ。我々はひとつだ」という思いを土台においた愛は、危険なものをはらんでいると言えるのではないでしょうか。
そうではなく、私たちは「違う」ということを前提にし、「違う」者どうしがいかに共存してゆくかということをベースにした愛を育んでゆくべきなのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
「違う」ことを前提として、互いのその「違い」を尊重する気持ちを育んでゆくのが、本当に価値ある愛、価値あるコミュニケーションではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
▼そして私たち自身でも
最後に、先程から私は「日本人は……」というお話をしていましたが、本当は「なに人」であるかにかかわらず、個々人は実はみんな「違う」のではないかということを、当たり前のことかもしれませんが、日本人は再認識した方がよいのではないかなと思っています。
どんなにお互いが似ている、同じであることを確認し、異質なものを除外することで仲間意識を高めようと思っても、実はそんな集団の同調性に順応、適応することに必死で、「同調圧力」に合わせることに疲れ切ってしまっている人が多いのではないか。
「同じ」であることを確認し合う集団の中で、「同じ」になりきれない自分を抑え込んで、仲の良いふりをしようとしている。やがて、そのことに疲れ切ってしまって、ついていけなくなる。それが学校や会社などで心の病が広がる原因にひとつになっているのではないかと推測したりしてしまいます。
そんなのだったら、いっそのこと、「人間とはお互いに違っていてあたりまえであり、人に合わせる必要など全くないのだ」という理解を広めていったほうがいいのではないかと思います。その方がきっと楽に生きることができるようになるでしょう。
そして、お互いに「違う」ことを尊重しつつ、生きるために懸命に相手の言うことに耳を傾け、わかり合うまでコミュニケーションを取り合う。その方が、対等で平和を作り出す技量や作法を養うことにもなるのではないかと思ったんですが、そんなお話を聞いて、皆さんはどんな風にお感じになるでしょうか?
今日は、聖書の説き明かしというよりは、もっぱら私の個人的な体験とそこから引き出された考えについてのお話になってしまいましたが、ご容赦いただければと思います。
お祈りいたしましょう。
▼祈り
全ての人間を造り、育み、ひとりひとりに愛の種を蒔いてくださった神さま。
私たちに今日のこの1日も目覚めることを許してくださり、生きるチャンスを与えてくださったことを、心から感謝いたします。
また、この主日に、敬愛する方々と共に礼拝を捧げることが許されている恵みを感謝いたします。
しかし、神さま、ともすれば私たち人間は、狭い自分たちの国籍や民族、文化の中に閉じこもり、自国民や自民族こそが他のそれよりも優れたものとして、自分たち以外の者を見下し、時にはそれを聖書や信仰を使って正当化することがあります。
神さま、そのような私たちの弱さや罪を赦してください。そして、私たちが自分の周りに張り巡らせた隔てのフェンスを超えて、互いに違う者を尊重し合い、共に生き、ひいては世界を平和なものにしてゆくために、謙遜な心と勇気を与えてくださいように、お願いいたします。
そして、私たちが、自分で気付かないうちに誰かを傷つけ、貶めているとしたら、そのことに気付かせてください。私たちは悔い改めます。
この祈りを、平和の君、イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。
アーメン。
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