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最後に残っている謎は「わたしはいる」

心の病気を患い、躁と鬱に苦しみ、薬を服用して感情の嵐に翻弄され、やがて薬に慣れて精神状態が次第に安定してゆく……といった経験をした者としては、自分がこれまで自分だと思っていたものは何だったのかと思わずにはおれない。

躁も鬱も、脳内物質と電気信号の不調によるもので、自分の意志でコントロールできるものではない。しかし、明らかに苦しんでいるのは自分の精神なのだ。

また的確な薬が処方されて苦痛が減るというのも、これまた全く自分の意志とは関係ない。純粋に脳における化学的な作用が自分の精神に影響を与えているのである。

精神とは何だろうか? 自分とは何だろうか? 病気の経験から言えば、私は私の精神状態を作ってはいない。ただ脳神経の化学的な作用という乗り物に乗せられて、連れて行かれるだけ。ただその乗り物の動きを感じているだけの存在と言っても、あながち外れてはいないように感じる。

何も考えないでいようと思っても、脳は勝手に次から次へと色々なことを考える。怒りや悲しみといった感情がとめどなく溢れて自分の意志ではどうにも止められなかったりする。そして、自分で命じたわけでもないのに、薬の作用でそのような感情さえ安定してしまう。いったい私の自由意志などどこにあるのだろうか?

「決定論的であろうが、ランダムであろうが、人間に自由意志など無い。自由意志だと思っているものさえ、脳のアルゴリズムの結果に過ぎない」いう、ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』の論考は、私には受け入れ難いものではない。人間は脳が勝手に反応していることを行っていることを、「これは自由意志だ」と思っているだけだ。

ただ、私が私だと思っているものがほとんど脳のアルゴリズムの結果に過ぎないとしても、「わたしがここにいる」という感覚がなぜあるのかは解明されていない。アルゴリズムという列車は無人ではなく、「わたし」という乗客がいる。

出エジプト記に神が「わたしはある(わたしはいる)」という者だと名乗る場面がある。非常に示唆に富むと思う。

一神教が偶像礼拝を徹底的に拒否するとき、限りなく無神論に近づく。金属や木などで作った像はもちろん神ではない。森羅万象に霊が宿るという観念も人間の想像に過ぎない。人間もしょせん人間に過ぎない。神を探し求めて、神ではないものを削ぎ落としていけば、限りなく無神論に肉薄する。

「一切の神秘的なものはない」「どんな生命も結局はアルゴリズムに過ぎない」という結論に到達して終わる寸前で、結局私は「わたしはある」というこの感覚、この意識、この存在はどうにも説明がつかないということに行き当たる。

出エジプト記の著者は「アルゴリズム」などという言葉は知らなかっただろうが、神秘的と人間が崇めるものを一切削ぎ落としていった結果、最終的に残るものは、宿る肉体もない純粋な「わたし」という謎の存在。神とは、純粋な「わたし」という意識だという結論を持っていたのではないだろうか。

そこで私はユヴァル・ノア・ハラリから一旦離れて、「自由な意識はある!」とハラリを名指しで批判する、マルクス・ガブリエルの世界に入っていこうとしている。


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