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雪国の事を想う4・・ふるさとへの追憶

ふるさと懐かしむ
 もう春だよ、雪国の事などはもう追憶の外に置いたら・・・とつぶやきながらも、もう一寸、言っておきたいな~と繰り言する自分
 疎開して、ある吹雪の日であった。仮住まいの建屋が粗末だったのだろう。窓枠の接合部分が悪く1~2mm程度の隙間から、風の強い吹雪の夜はその隙間から上布団に一直線にまるで雪の薄幕のようなものができて粉雪が舞い込んで、目覚めると、布団に一直線に雪の帯がはりつくのである。そんな夜は自分の布団のおなかの上辺りに猫が丸くなって寝ているのだ。
東京で3月10日の大空襲を受けたのちに急遽、疎開した先が雪の山形であり母の故郷であったからである。静寂で平和な母の故郷であった。母が小学校の時の担任教師が、自分が新入学したとき(昭和22年4月)には、当校の校長先生になっていた。
 その校長は良く我が家を訪問してくれたのだ。それは父が画家だったからだということと母が教え子のひとりだったからだろう・・話が合ったのだと思う。母には気安くKちゃんと呼んでいた。それはあるいみ深い絆を子供ながらに感じていた。雪のある冬の日に校長自ら、酒を抱えてきて父と談笑し、かつ酒を酌み交わしていた。疎開組であり貧乏絵描きの父であったが、母の故郷でもあり、新しい絆が生まれはじまっていたようである。
 それと、不思議に思ったは小生自身は疎開組の扱いを受けなかった。友人が出来て奔放に遊べたのである・・・母の故郷だったからであろうと思う
 ある時、隣接する大屋敷に住む老人が塀の外で植え込みを剪定しながら、小学生の小生に声をかけてきたので近づき、語り掛け「君は何処から来たの、両親は誰?」「母は何処の人」と言われたのでK、・・・エ門と言ったらまだ3年生の小生に微笑みながら「K、・・エ門を再興しなくちゃね、頑張って」と、言ったのだ。その時言われたことが理解できなかったが、小生を励ましてくれたことがよく分かって・・・うれしくなったことを思い出す。以後、その大屋敷に住む、おばあさんが(奥さん)自家製の季節の野菜や果物をよく塀越に持参して声をかけくれたのだ、ほとんど着の身着のままで来るほど食に乏しい時代だけに今でも感謝の念は変わらない。疎開した小生はその住まいに中学生まで過ごし、1956年3月の雪解けが始まった故郷を離れ上京したのである。
 母の旧家は江戸時代、庄屋をやっていたらしい。明治の勅撰村長をしていた家だった(疎開した時に本家の親族は離村していた)ということであった。そのような家が里には14家ほどあったようで、新年になると必ず14家が寄り合って新年の祝賀会をしていたようで母の兄が遠方に勤務していて出席できないので父が代行で出席、大いに酒を飲んでいたのだろうご機嫌で帰宅していた。
 その里は江戸幕府の直轄地だった。伊達藩が参勤交代時に必ず通過する宿場町でもあったという。江戸時代末期、と明治時代にその宿場町が数百メートルにわたり全焼したらしい。
また、江戸時代であるが里が幕府直轄地(天領)から上杉藩への管轄替えに反対し代表者が幕府へ直訴、結果、管轄替えは取り消されたが、代表者は、 Iの坂というところで、磔になったという。その杉の焼けた大木が昭和年代末まで、故郷へ帰ると子供たちを清流(最上川の最上支流の一つ)に足入し、川添に連れ登って、サンショウウオなどを捕りながら、その伝説ともなっている杉の大木を見せ、手を合わせて帰宅したものだ・・・この追憶も懐かしい・・。

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