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「歴史や数学なんて不要ではない」という話

「歴史や数学なんて不要ではない」という話

「歴史なんて覚える必要はない」とか「数学なんて不要だ」とよく聞きますけれど、本当にそうでしょうか。

少し考えてみましょう。

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ようこそ。門松一里です。静かに書いています。

いつもは、
「あまり一生懸命になるな」という話
https://note.com/ichirikadomatsu/n/n081dd28c9a6c
とか、
「沈黙」という話/「東アジアの思想」という話
https://note.com/ichirikadomatsu/n/n416e39d84b94
を書いていますが、本当はノワール作家です。

という話(ik)を連載しています。

こちらは調査資料(エビデンス)を使った「思考の遊び」――エンタテインメント(娯楽)作品です。※虚構も少なからず入っています。

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巨人の肩の上から謙虚に事象を観察しているのであれば、学問の一つを否定することはしないものです。

この場合の巨人とは、先人の知識の集積の象徴をさします。他の人よりは、少しだけ遠くが見える訳です。

古文や漢文の素養がないと、かなり思想に偏りがあると考えられます。知らないと考えることに時間がかかりますから。知っていることを答えることが賢さではありませんが、ある程度までは知っておいたほうが楽です。数学の公式を一から考えるより知っておいたほうが楽なのと同じです。

高等教育の第一が一般教養であることもまた事実です。特定の学問の否定は学びを拒否していますから恐ろしい思考です。歪な思考はインフェリオリティー・コンプレックス(劣等感)によるズレである可能性があります。巨人の肩から飛び降りてしまうと、小人は踏み潰されます。#blackjoke

たとえば、古文や漢文を学ぶなら歴史も学ぶことになります。賢人は歴史に学ぶので、先人の轍を踏むようなことをしなくてもすみます。また、数学を学ばないならスマートフォンに使われている技術を知らない表面的な思考になりがちです。実際には、否定している人もその思考や技術を使っているものです。

古文や漢文を学ぶことで、人の愚かさは変わらないものだと痛感することでしょう。情念に共感するかもしれません。少なくとも人の有様(ありよう)を知ることができます。それらの否定は、気をつけないと他者の否定につながってしまいます。

数学は生活の基礎にあります。数学が使われていない技術などありません。ありとあらゆる文化の本質です。ふだん数学を使っていないのであれば、使わなくていいように使われているということです。気をつけてみると、どこにでもあります。探してみましょう。

古文や漢文は「なぜ」という疑問の模範回答が書かれています。数学は「調べる」という技術の基礎です。これらによってヒトという生物は文化的に生活しています。学びというものについて安易に否定せず、疑問をもち調べてみてはいかがでしょうか。

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一方で、学問ではなくなったものがあります。

たとえば、占術です。星を知るのに占星術を学ぶ人はいません。天文学に変わりました。明日の天気を調べるのに易を立てたりしません。気象学があります。これらは学問から単なる娯楽の術(すべ)になりました。

神話もそうですね。

「古代のギリシア・ローマの宗教は、今日ではもう消滅してしまいました。オリュムポスの神々と呼ばれていた例の神さまたちは、もはや現代人の中に一人の信者さえももってはいません」
トマス・ブルフィンチ(大久保博訳)『完訳 ギリシア・ローマ神話』(角川書店、1970年)P17

神話の時代から伝説の時代になっても同様です。

アーサー王は伝説です。少女ではなく男性で、王妃のグィネヴィアは円卓の騎士ランスロットと不倫して王国は崩壊します。

王妃と騎士の不倫で国が滅ぶというのは理解しがたいですが、まあ物語ですからね。

ロマンはありますが、信じている人は少ないです。

けれど、アーサー王伝説にはもう一つエピソードがあります。

聖杯伝説です。聖杯(ホーリー・グレイル)を求めて旅をする話です。

こちらも伝説なのですが、けっこうな人が信じています。

イエス・キリストが最後の晩餐に使ったからです。あるいは磔になったときに血を受けとめたとされています。

まったくの伝説なのに、宗教がからむと盲信してしまう人がいてびっくりしますが、そもそも宗教はそうした一面があります。

宗教は難しい問題ですね。

アブラハムの宗教であるユダヤ教、キリスト教、ユダヤ教は兄弟喧嘩で何人も人を殺めています。

キリスト教について言えば、少なくとも教育と福祉だけは成果があったのは事実です。宗教の力で、私の友人はダートマス大学を卒業しています。

「宗教で有益なのは教育と福祉だ」と言うと、友人のトーマス・ペンフィールドは苦笑しながら同意していた。「皮肉屋の君らしい」という彼こそ、カトリックに育てられ、学んだのだから。
https://twitter.com/ichirikadomatsu/status/836907461764210688

現代でもキリスト教は信仰されていますが、どうでしょうか。

「神を信じていますか?」

と聞かれれば、

「信じています」

と信仰を告白するでしょうけれど、どれだけの人が本気で信じているか疑問です。

別に信仰を疑っている訳ではなく、単純に「もはや宗教自体に意味がなくなってきている」というだけのことです。

宗教家にとっては苦難の時代です。

「信じている」といっても多様性がありますから。

学びという点では、聖痕(スティグマータ)の変化があります。

イエス・キリストが磔になったときのように、手足に傷があらわれる現象です。ロンギヌスの槍で刺された脇腹も。

手のひらに釘を打っても、磔にできないので手首にしたのではという説がでてきたので、最近はあらわれる聖痕も手のひらから手首に変わったそうです。

どうしてかというと、手のひらに釘を打っても、体重を支えきれず手のひらを裂いてしまうからです。

手首ですと、尺骨(小指側)と橈骨(親指側)のあいだに打てます。足首も同様に脛骨(内側)腓骨(外側)の間です。

情報によって信仰の証拠が変わるのは興味深いです。

日本も同様で、科学と宗教は相性がよくないです。

たとえば、福澤諭吉は古典より実学を進めましたが、その宗教観は「此岸的無常感」だったそうです。彼岸的無常感である浄土の思想より、現実的であったと考えられます。
cf.
小泉仰「福沢諭吉と宗教」
1993年9月29日
国際基督教大学図書館における講演(第18回図書館公開講演)
https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3492060_po_8-1.pdf?contentNo=1&alternativeNo=

福澤が古典のとりわけ儒教を憎んだのは、階級社会の肯定だったからです。

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学問の否定の原因としては、読書量が足りない=考えていない可能性があります。

読書は作家からの一方的な言葉の羅列の閲覧ではなく、その思想との対話が主になります。ですから、その意思が自己満足のものであるなら、読む必要がありません。

ビジネス本は、目次と巻末の参考文献だけ読めばいいです。最前線で使われている技法なら人に教える訳がありませんから。使い古されて確立したからこそ書籍になっています。

多くの人は実際には考えていません。選択しているだけです。ある学問を否定するということは、その選択肢をわざわざ減らすようなことです。

確率的に無謀なことをしていても正しいと考えるのは、思考が歪んだまま正しく考えているからです。

学んでいないことを責められないために、歪んだ思考を否定されたくないために、攻撃している可能性があります。#blackjoke

もし、身近で「歴史なんて覚える必要はない」とか「数学なんて不要だ」という人がいたなら、距離をおいてよく観察してください。

必ず、歴史的な考え方をしていますし、数学を使って生活をしています。

そうした矛盾に気づけない人は、「なぜ」という最初の疑問をもっていない小人なのです。#blackjoke

小人はいずれ孤立します。

学ぶとき、深く考えるときは必ず一人です。

学びとは、そうした孤独を知ることです。

孤独を知ることで、人は豊かになります。

愛してくれる人が一人も現れなくても、貴方が愛せる人は何処でも、何時でも必ず現れる。すぐ傍に居るはずだ。
――Mr. Thomas Penfield


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