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決める、けど決め過ぎない



前にnoteを書いてからもう10日以上も経ってしまったみたいだ。2022年も残り5日となった。

2023年がすぐそこに来ている・・・。考えただけで恐ろしいですけれど、私は帰省したいなあ、とは思いつつ早速来年へ向けて計画を立てているところである。


みなさんは毎年、来年の計画はどうやって立てているだろうか?
「そんなもん立てんくても、うまくやっていくわい!」という方もきっとおられるだろう。

生き方は人それぞれ。もちろん、そういう人生も素敵だと思っている。


ただ、私の場合は成り行きに任せてしまうと大損・大事故・大散財!みたいなことになってしまうので、なるたけ計画は立てるようにしている。

これまでのエッセイにも度々書いているが、私は特性上、熱中している間は時間も忘れて没頭する反面、面倒臭い時はとことんやらずにギリギリまで過ごしてしまうくせがある。

限りある時間を無駄にしないためにも、自分の暮らしを研究した上でどんな生活が合っているかを試行錯誤した結果、「バランスが大事」ということが判明した。


私は普段の保育園での仕事にプラスして小説や詩を書いたり、ストレッチや筋トレ、ダンスをする時間、ピアノを弾いたり歌を練習する時間、絵を描く時間といった、表現に関わる時間を1日の中に設けている。

友達にそれを話すと「生活の中でそれらをぶち込む時間がどこにあるんだ」と言われるのだが、案外無理やり詰め込まなくても生活に馴染んでいる。

と言うのも、具体的に決めすぎていないからこうして気楽に生活できているのだと思う。


話は少し変わるのだが、小学校や中学校の時は何があろうと親に言われてなんとか学校に行っていた。皆勤賞を取るくらい。片道2時間かかるほどの場所まで無遅刻無欠席で毎日通っていた。でもそんな六年間の中にはいじめを受けたり蔑まれて、心に傷を負いながら生きていた時間もあった。

何のために学校に行っているんだろう。当時の私はただ親や周りを悲しませないようにいじめの事実も隠していたし、通い続けはしたけれど体は正直だった。

目にはチックという無意識で細かく瞬きする症状が出たり、苦手な友達と過ごす時間や授業の前には熱が出たりお腹を下したり。

思い返せば皆勤賞なんて何がもらえるわけでもないのに、何をそこまでこだわっていたんだろうと思う。

中学3年生の頃、溜まりに溜まったものが爆発してこれまで起こったことを親や先生に全て打ち明けた事があって。

それ以降、親は私の意向を汲んでくれ、遅刻をしても不満を言わないようになった。その頃から私は、嫌なことは我慢をせずに自分の意思をしっかり人に伝えられるようになっていった気がする。


大学生になり一人暮らしをし始めてからも何度か、自分の日課を作ろうと計画を練ったことがあるけれど、その時はとことんうまくいかなかった。
十日続いても一日できない日があった瞬間に次の日から破綻してしまうから。そこからはどうしようが立て直しなど効かなくて。

結局、私は具体的に決めた持続というものがそもそも苦手だったのだとそれなりの年齢になってから気がついた。

でも将来へのビジョンはあるし、好きなことは見つかっているからこれは毎日こなしたいという事はある。

じゃあどうしたらいいんだろうと思い巡らせた結果、

決めすぎない

という今のライフスタイルが出来た。


ピアノを弾く前は手がほぐれている方がいいから、その前にストレッチはしておこう。何もしていないのに絵を描くといいアイデアが出ないから音楽を聴いて想像を膨らませてからにしよう。文章を書くには集中力がいるけど気が散っているから踊りでまず高めよう・・・。

これまでの経験で自分のコンディションを整えるやり方は覚えたので、1日の中でその時間をどこに入れるか。それはその日の自分の気分で決めるのだ。

この時間にこれをしようと決めても、表現に関してはその時間にアイデアが出なければいつまで経っても出ない。一番冴えている時にその作業ができるというのが一番理想的。

そんな生き方ができるようになったので、自分自身、今年はとてもいい状態で1日を生きることができていた。もちろん今だって自分に負けてしまう日ももちろんあるけれど。
でもそれも含めてどんどん生活の質を高めていくのが、今の楽しみでもある。

自分が心地よく楽しく過ごすためには、どれくらいの加減で計画するのがいいんだろう。

それを一つ俯瞰して考えてみるだけで、来年の過ごし方もまた一つ変わっていくのかもしれません。

読んでくださりありがとうございます。 少しでも心にゆとりが生まれていたのなら嬉しいです。 より一層表現や創作に励んでいけたらと思っております。