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中山みき研究ノート3-17 転輪王講社

明治10年代の出来事については、『稿本教祖伝』では、第7章「ふしから芽が出る」 に書かれています。その冒頭に、

教祖は、80の坂を越えてから、警察署や監獄署へ度々御苦労下された。しかも、罪科あっての事ではない。

と、前後十数回にわたる教祖の御苦労を捉えていますが、このことについて、今一度考えてみましょう。

「教祖に罪科あっての事ではない」とありますが、道義上の罪科は、たすけ一条を通る教祖にはもちろんないのですが、法律上はどうだったのでしょう。

当時、日本の社会は完全な君主制であったので、民が君主に仕えて忠義を尽くしたりお上に捧げることは善であり、逆に民のためになるようなことは罪であるという原則があり、この原則を承けて君主が法律を作っていました。

政府は、明治9年に、「個人の邸宅内の神仏に衆庶を参拝させてはならない」という府県令を出し、講に事寄せ、信仰に事寄せて、人々が集まるささやかな楽しみさえも禁止したのです。

これは、人が寄って話をすれば必ず政府の悪口になるから、人を集めてはいけないということで、 自らの政策が悪政である事を承知している政府が、人民の自由な語り合いを止めるために作った法律であったのです。

13年には、集会条例が出されましたが、それは、許可を受けずに三人以上の人間が寄って話し合ってはいけない、という厳しい法律でした。

許可を受けて国の方針を教えるならばいざ知らず、民の為に人を寄せてはならない、という意味を持った法律なのですが、この法律を教祖は破っておられるのです。つまり法律違反という罪科があっ て捕えられたのです。

当時、民が幸せになるような憲法をつくれという自由民権運動が盛んになると、政府はその鉾先をかわすために、十年の間に憲法を作ることを約束します。しかし、そのかわり民権運動を止めろと迫り、その政治活動を厳しく弾圧するという政策を採ったのです。

その中にあって教祖の教えは、人間の平等観についても自由民権運動よりはるかに徹底したものでした。差別の中で最も激しく最も根源的な男女差別を、元初まりの話によって正し、人をたすける心が真の誠という心を定めた人達が互いにたすけ合う世界を、かんだいづとめ、、、、、、、、として示されたのです。

人間を差別の鎖に縛りつけ、思うように働かせて、それを取り上げるような制度を守ろうとする人達がこの教理を喜ぶはずがありません。 民が喜ぶことをすれば、お上はそれを弾圧するのみです。

教祖はそれを承知で教えておられました。お上が自らの勝手な理屈を法律という手段で押しつけてきても、常に難渋の人達が生き生きと勇み、陽気づくめの世が出来るようにという思いで、話され行動されたのです。

一方、中山家の主として中山家の利益を最優先させていた秀司は、国の方針に逆らうようなそら恐ろしい教祖の教えを何とか遠ざけたいと思う半面、お参りに来る大勢の人を相手に金儲けをしようと考えて来ました。元治から慶応にかけて、お札やお守りを売ることから始まった秀司の営業活動は、 慶応3年の天輪王明神で一気にお屋敷の主導権を手にしたかに思われたのですが、明治7年の大和神社での問答に続く一連の出来事で、全てが水泡に帰してしまったのです。それ以後は、官憲の顔色をうかがうように、寄り来る人々に「信仰は小始末にしてくれ」と言い続けていたものと思われます。

ところが、宿屋、風呂屋の許可を得た途端に、今度は「大勢やって来てくれ」ということになりま した。秀司にしてみれば、何とかして教祖の所に来る人達から収入を得ようということです。 しかし、おてふり、、、、の練習や教理の学習などはしてもらいたくはなかったのです。

大和神社の事件以来、 秀司や山中忠七達が信仰者を利用しているのだと気付いた高弟達は、秀司の運営に参加しませんでした。その代表が伊蔵です。 天輪王明神にも、宿屋や蒸風呂の運営にも協力しないで、お屋敷にも来ません。 櫟本で弟子を抱えて大工の仕事をして、そこで得た収入をもって教祖に、真実の教えを広めて下さい。 と尽くしていたのです。

秀司の動きには参加しないという人達がいる一方で、教祖の所に毎夜通って話を聴きに来ながらも、頼まれれば秀司の手伝いもする、という人もいました。 また、教祖に逆らっても、拝み祈祷や風呂屋で収入を得ようという人と、いろいろな人達がお屋敷の中にはいたのです。

明治13年、教祖は83歳になられ、秀司も60歳になり焦りを感じました。 その当時、61歳になれば「本卦還り」といって、自分の生涯は終わったとして、子供に座を譲るのが常識であったので、皆の信頼を得ている教祖に代わって秀司がその信頼を得ることは難しくなります。そこで秀司はいろいろと手だてを講じました。

明治時代の83歳はいつ死んでも不思議ではない歳です。教祖亡き後、自分が頂点に立つ教会を組織し、人々をその傘下に結集させ、中山家の安泰を計るにはどうしても高弟達の協力が必要でした。

そこで秀司は、教祖が最初から使っている仏教系の転輪王という神名を使おうと考えました。当時、人足社に数えられていた三人(飯田岩治郎、上田ナライト、山本吉五郎)のうち、お屋敷の南にある乙木村の山本吉五郎の伝手で、同村で法起菩薩を信仰し、乙木の行者さんと言われていた人を頼んで、金剛山地福寺に願い出ることになりました。そこには、排仏毀釈で勢力が衰えた寺を再建しようとしている優れた坊さんがいるということでした。

金剛山地福寺は、祈祷を主にした修験寺であり、住職であった日暮宥貞は、真言宗豊山派総本山長谷寺で学んだ学僧と言われています。その配下になったならば、仏教の教会としてやっていけるのではないかと思ったのです。

明治政府は、日本で宗教を広めるには、神道か仏教かキリスト教に属さなければ許可しないという宗教統制を敷いていました。それらも、記紀神話を正しいと言わなければ布教させないという限界を設けてあったのです。

地福寺は、堺真言教会と名乗っていて、お屋敷はその部下の説教所として三島村教会出張所となったのです。

信徒にしてみれば、天輪王明神では教祖にさんざん逆らって神道系の神を祀り、自分も神職の格好をしていた秀司が、いよいよ仏教系の転輪王の教えに戻って来てくれたという期待があったものと思われます。高弟達の中にも腰を持ち上げた人が多かったようです。

伊蔵は、秀司の体質を見抜いているから、かたくなに参加しないのですが、他の人々は皆、勇んで集まり、1400名もの講社名簿が出来上がったのです。その結果、 転輪王曼荼羅という掛け軸が一幅、三島村教会出張所に納められたのです。

曼荼羅として今に伝えられているものの中には、転輪王曼荼羅という名前は見当たりません。 しかし、その当時のことを高弟達は、星曼荼羅を飾り仏像を飾って、お説教をしていた、と一様に伝えているのです(注=諸井政一『正文遺韻』64、69頁。櫟本19)。ところが地福寺からの書類には、星曼荼羅ではなく転輪王曼荼羅と書いてありました(注=復元37号、207頁。櫟19)。

例えば法隆寺に伝わる星曼荼羅には中尊として一字金輪像といわれる仏が、その中央に描かれています。さらにその周辺には北斗七星や、九曜星、バビロニヤで起こった十二宮、中国の星座二十八宿などが描かれていますが、これらは大陸から入ってきたいろんな文化や占星術などを描き込んだものです。それらの一つ一つは中尊が姿を変えて現われたものであるとされ、全体として一つの世界を表現しているものです。その中尊である一字金輪像が実は転輪王なのです。それで転輪王曼荼羅とも呼 ばれていたのでした。

転輪王を表現する時には、いわゆる苦の娑婆である地獄から天上界までを含む、この世界の本地仏である釈迦如来の姿で表わそうという約束になっています。

さらには、我々の世界だけではなく、一切の世界、 全宇宙の教主である大日如来の姿でこの転輪王を表わそうとした曼荼羅もあります。転輪王というのは、最高の勝れたる王なのだから、最高の姿で表わそうということです。

お屋敷はこの転輪王曼荼羅、つまり星曼荼羅を掲げて、日暮宥貞が説教する転輪王講社になったのです。 明治13年9月22日(陰暦8月18日)には開筵式が行なわれました。 秀司が教祖の下に帰って来てくれたのだ、といって大勢の人が寄り集い、この開筵式には、教祖が御存命の間としては最も大勢の人が参拝に集まったのです。

当時、お屋敷の中は、北から母屋(元の隠居)があり、その南につとめ場所、一番南に門屋というように建物が建っていました。星曼荼羅が掲げられたつとめ場所には、真言宗の象徴である輪宝が染め抜かれた紫の幕が張りめぐらしてあり、転輪王講社という提灯が吊り下げられるという全くお寺の形式になっていました。

また、「門前で護摩を焚く」といかにも護摩を焚くことだけは、お屋敷内ではやらなかったように『稿本教祖伝』には書いてありますが、門前といえば道路です。道路で護摩を焚くはずはありません。

大和では、「庭」と書いて、カドと仮名を振るのです。「あの人がカドにいた」というのは、庭にいたということなのです。

明治19年に教祖が捕えられた時のことを心勇講の小西定吉は、「熱心な者は二階でおてふりをや っていたんだ。そう熱心でない人は、下にいるなり、カドにいるなりして・・・・・・」と語っていますが(注=『復元』15号、31頁。櫟33)、ここではカドという言葉を庭という意味で使っているのです。 しかし、時代が下ると「カド」は「門」を指すのが普通となったことから『稿本教祖伝』のような記述になったものと思われます。実際には、大勢の人がつとめ場所の軒先に火が移るのではないかと心配する程、盛んに護摩を焚いたと言われています。

つとめ場所では、星曼荼羅を掲げて僧侶が説教をしていました。

 燃え盛る大護摩の前では、日暮宥貞が戒刀を抜いて盛んに祈祷を行ない、秀司は、その弟子とし 法衣を借りて — 借賃が記録に残っていますが、山伏の装束だったのか墨染めの衣を着ていたか、そこのところははっきりしません — 恐らく山伏の格好をして一緒にやっていたのではないかと思われます。

教祖は門屋の十畳の間におられたが、『逸話篇』には、赤衣のままお出ましになりニコニコとごらん下されていたが、直ぐに門屋にお引き取りになったと記されています。たった一言でも「ニコニコ」とあれば、教祖がお許しになったという意味になってしまいます。

高野友治氏の『御存命の頃』には「皆大勢の人が寄っておりますから、教祖どうぞお顔をお見せ下さい」と促されて、教祖は門屋とつとめ場所を結ぶ渡り廊下の所に立たれて、ずっと見ておられたが、戻られてからも暗澹あんたんとしておられたように書かれています。 同じ笑うのでも「ふん」とか、「何を言うのだ」という雰囲気であったと思われます。秀司達は、この星曼荼羅にお願いしたらご利益がもらえるという拝み祈祷の説教をしていたのです。転輪王講社で星曼荼羅を掲げ、祈祷して出したお札が残されています。

これは、五黄の寅年生まれの人に、本命五黄土星祭りを行なって、運勢を変えるという祈祷を行なったことを表わしています。また、鎮宅和合星相生祭りとは、鎮宅というのは上棟式であり、和合は夫婦仲良く、相生というのは共に長生きするということなのです。

それを見ていた教祖がお喜び下されるはずがありません。それでこの後、たった10畳の部屋に3尺もの高い段を作り、教祖はそこに赤い座蒲団を乗せて、その上に座して、「あんなもの嘘やで、つとめ場所は嘘やで、これのみが真実なのや」と高い所 からお話し下さらねばならなかったのです。このことを知らなくては、皆を見下ろす三尺の高さを理解することはできません。

『稿本教祖伝』ではこの時期に、秀司のお陰で鳴物まで入れておつとめ、、、、が行なわれたと記されていま す。しかし、このおつとめ、、、、は、人が寄らない早朝、暗いうちに行なわれたのです。

おつとめ、、、、だけは、教祖の高弟達を納得させるためには、どうしてもやらないわけにはいかなかったのです。しかし、おつとめは平等思想で、弾圧必至だからというので朝の暗いうちにひっそりと行なったのです。そして日中の人が集まり出す時分には、教祖の教えとは似ても似つかない星曼荼羅の教えが説かれていたのです。

『稿本教祖伝』は、秀司が作った転輪王講社という組織を、そのまま受け継いだ人によって書かれています。したがって、この時、「秀司のお陰で組織が出来た」あるいは「教祖の教えに背いても、拝み祈祷を教えて来たために現在の隆盛を見るに至った」という調子で書かれています。 しかし、教祖の評価では、

このたびのつとめ一ちよとめるなら
みよだいなりとすぐにしりぞく   
(十五 88)

と激しく厳しいお怒りの言葉となっています。

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 3-18 こふきへの疑問


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