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中山みき研究ノート3-14 男児誕生

同じく明治8年には、秀司と、若い女房としてご新造さんになっていたまつゑ、、、との間に、子供が生まれています。同年3月頃のおふでさき、、、、、には、

このたびのはらみているをうちなるわ
なんとをもふてまちているやら 
(七 65)

なわたまへはやくみたいとをもうなら
月日をしへるてゑをしいかり  
(七 72)

と記されていますが、当時は5ヶ月目にならないと孕んでいると言わなかったのです。それで、この夏の頃、または秋の始めの頃に子供が生まれました。「名はたまへ」と教祖は記しておられるので、多分「たまへ」と名付けられたと思います。

しかし、この時に生まれたのは男の子でした。これは当時の人達には大変ショッキングなことだったのです。

特に拝み祈祷を説いている人達は、因果応報を信じ込んでいます。 仏教の生まれ変わりの教理では、男は男に、女は女に生まれ変わるのが原則です。おふでさき、、、、、でも、明治3年に18歳で亡くなった秀司の子おしゅう、、、、と同じだ、と記されています(注=おふでさき 三-109)。当時の人は当然、おしゅう、、、、の魂が生まれ変わってくるものと受け取ってしまったのです。

まつゑ、、、は、おしゅう、、、、の母親は庄屋敷村の身分の卑しき【原文ママ】小作であると思っていたのです。

平等寺村の自分の所は、法隆寺の御用も勤める家であるとして、門の所に馬繋ぎの鉄の輪があるという、ある意味での身分を表わす話を好んでしていたと伝えられるまつゑ、、、です。 おしゅう、、、、やその母親のおやそ、、、を一段低く見て、「正式に妻となった私のお腹に生まれる子は魂が違うのだ」というように思っていたのです。

それに対して教祖は、両方とも秀司の素質を受け継いだ子であり、同じだ、という意味でおふでさき、、、、、に説かれているのです。

「同じだ」ということから、当時の人々は死んだおしゅう、、、、の魂が、生まれ変わってくるのだという受け取り方をしていました。ところが生まれてみたら男の子なのです。この子は、明治12年に亡くなって「智生童子」と戒名が付けられた子であると思われています。約4歳まで生きていたことになるのですが、色素が足りない障害を持っていたとも伝えられています。

弱かったり、障害があったりすると跡取りにはしないというのが当時の考え方でした。 しかし、まつゑ、、、はどうでも自分の子供に跡を取らせたいと思っていました。 秀司にしてみれば、音次郎も我が子だ、という思いがありました。このように、それぞれの人がいろんな思惑を主張していたので、お屋敷は極めて複雑な様相を示していました。こういうことがお屋敷にあったという史実が、『稿本教祖伝』には全く書かれてないので、明治8年3月の「今なるのはらみている」子が2年も胎内にいて、 明治10年の2月に生まれた(注=『復元』29号、30~33頁。檪4。『復元』37号 106~109頁。檪7) などと、いう話になってしまっているのです。

明治10年2月5日に生まれた女の子は、まつゑ、、、の里である平等寺村の役場に出された出生届によると、マチ、、という名になっています。後にたまへ、、、と改名されたが、明治16年当時の中山家の戸籍では、マチ、、のままになっています。

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