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中山みき研究ノート2-15 拝み祈祷でいくでなし

拝み祈祷でいくでなし

『御水屋敷並人足社略伝』には、飯田岩治郎が病気のとき、治療にあたった医者の名前が出ています。これが今村文吾です。それに、吉田賢良、佐々木佳斎という二人の医者を加えた合計三人が、術を尽くし薬餌におこたらず努力したが、良くなりません。それで、奈良の二月堂や生駒の宝山寺歓喜天などにも祈祷を願い、神社仏閣を回ってみたが、全く効験はありませんでした。

その時、隣家の平井伊兵衛が以前から教祖と面識があったので、この人が「私の親類がおります庄屋敷に不思議なおたすけをする人がおりますので、お願いしてあげましょう」ということから、教祖は先方の請いに応じられた、ということになっております。この平井家は、多分、教祖が文久2年に産後の煩いをおたすけされたところだと思います。

『御水屋敷並人足社略伝』には、

この時文久3年12月10日の七ッ時なり。老婆とは天理教教祖、奈良県山辺郡三島村中山善兵衛様の令室、みき様なり。(中略)老婆は家族のものに一礼をのべ、病人の枕辺にいたり、満面笑みを含ませられ、

 くすりいらぬ、かわにながしておくれ
 きとうするにもおよばぬ
 みな ことわりなしたがよろしい

と云わるるゆへ….....

『御水屋敷並人足社略伝』

とあります。当時の医者は、現在のように手術をしたり細菌やウイルスに効く特効薬を用いたりという、速効性のある治療は出来ず、体力をつけて自然治癒力を増すことぐらいが、限界でした。

それに対して教祖は、もう医者の治療は止めなさい、あっちこっちに祈祷する事も止めなさい、そして、私がこれから話す、心の入れ替えということによって、回復するのかどうかを自分の身で確かめなさい、というように話をしておられるのです。その後に、

教祖には御入りありても、別にまじないのようなこともせず、神仏を祈念するでもなく、居あわせし人にこれからさきのみちすがら、その道すぢというのはな これこれに変わる 世の中はかやうかやうにうつるのや または人間のはじまりはどふいふことといふならば云々と、謡ふ如くはなしするが如く、耳なれぬ不可思議のことのみをかたられました

『御水屋敷並人足社略伝』

とあります。この時、教祖が話された人間の元初まりは、女も男もそのままでは生き延びられないような性質と、寿命を持つものではあるが、その間で補い合うところに115歳も生きるような生命力を持った「子種」が出来るというものでした。子種は男女両方の五分五分の協力によって出来るのであり、それを女性がさらに育てて、次の時代を担う命が生まれてくるのです。これから先は皆の考え方も変わり、男万能の世の中から、女松男松の隔てのない世の中に変わって行くのだ、というよう な話をなさったことがうかがわれます。

この記述で明らかなように教祖のおたすけは拝み祈祷ではありません。 教祖を特別な祈祷師のように考える向きもありますが、教祖は神仏に祈願はしなかったのです。

12月に一旦、お屋敷に帰り、翌年の文久4年正月に再び安堵村に行かれました。『御水屋敷並人足往略伝』にみるその時の様子は、

老婆のまたもや安堵にまいりおちつくと聞くや、ます/\多人数毎日夜のあけるをまちては寄り来たり、門をひらくを待ち兼ね、我さきにと入り来るありさまなれば、家内一同仕事もできぬことゆえ、母上の思ふには、これでは働くことかなわん、老婆に帰りて貰うにしかじと心のままを申し上げたるに、ふしぎなるかな、立ちどころに身体其の侭動くこと出来ぬようにしびれ、息の止まる如き心地して言葉も出しえず、いかんともなす事ならぬよう相成りたり。家内一同驚き恐れ、顔見合わせ居たるのみなりしが、父上には老婆の前にすすみ、いろ/\と御詫び申しいれたるに、老婆いつもながらに御笑いなされて

さあ/\ これな ないじゆみやうもたすかるはかみのちからなるぞよ
さあ/\まちがへやで/\
わがこさいたすからば ひとはどうでもよいと いふこころへ
そのこころをいれかへてさんげさせねばならん

との仰せに、母上もおそれふるいて懺悔せしかば、すぐさま自由用叶うようになりたり。かく眼前に心のむけよふにて罰も利益もあることを見聞するゆえ、其の話の四方に響き、漸々大阪又は河内等の遠方より慕ひ来ることとはなりし…

『御水屋敷並人足社略伝』

ということでした。薬やまじないに頼らなくても、人間の元初まりやこの世の中の有り様、これから先どの様になって行くかということなどを、親達の心構えとして話し、親達がそれによって心を入れ替える中に、全く物を食べられなかった子供(岩治郎)がたすかったのです。

このことを伝え聞いた大勢の人達がたすけを求めて飯田家に押し掛けて来るようになりました。しかし、祈祷師のようにお祓いなどによってご利益を与えるというのなら、時間もかからず、御礼もはずんでもらえるのですが、教祖の場合は何の不思議さもなく諄々と話をして、心を立て替えて、治めていくというやり方です。人間の生まれ出しの真実から、この世のあり方、将来の事まで、理解させないと心の立て替えにならないので、一人の人にかかる時間が長くなり、その接待は大変です。これは教祖だけではなく、おたすけを求めて人が尋ねて来るようになった講元の家でも、同じような事が起こっています。したがって、大勢の人が来ても、おさづけだけでたすかった、というものではなかったということを表わしています。

大勢の人が来てお話が続いていると、その宿になっている飯田善六の家では、岩治郎の母親が、もう子供はたすかったことだし、こう毎日人が来ていたのでは仕事も出来なくなってしまうので、教祖にはそろそろ庄屋敷に帰ってもらおう、と思うようになったのでした。 しかし、教祖の話を聞いて、互いたすけ合いに生きなくてはならないと心を定めて、子供も回復してきたのに、これ以上の負担は大変だから帰って頂こうというのは気がひけます。言い出しかねていたが、家の方も大変という気持ちが重くのし掛かってきて、ついに体の自由用じゆうようが利かなくなる状態が起こってきたのです。

その時、父親の方は、教祖にそんな心を使ってはいけない、と言って教祖にお詫びをしたら、我が子をたすけてもらうためならば一生懸命にもなるが、他の人のお手伝いまでは面倒、という心では誠の心とは言えないし、後ろめたさが残って勇んで通るわけにはいかないだろう、と諭されたのです。

それで、母親は、私も人をたすける心になって、自分で自分をなるほど立派な人だと思えるよう、努力して通ります。とお詫びをしたのだと思います。この事が、文久年間のおたすけとして最も詳しく残っているのです。

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