見出し画像

中山みき研究ノート3-16 雨乞いづとめ

明治9年には、雨乞いづとめ、、、、、、が行なわれました。

昭和3年に本部はおふでさき、、、、、を印刷して各教会に配り、全教会長に対してその講習会を行ないました。その時の内容が『おふでさき講義』として出版されていますが、その中の12号のところに、この雨乞いづとめ、、、、、、のことが語られています。

次に親神様の自由用の御守護の例として雨乞づとめのことについて簡単に申上げさせて頂きます。

せかいにわあめをほしいとをもたとて
このもとなるをたれもしろまい   
(十二 155)

このもとをしいかりゆうてかゝるから
どんな事でもしよちするなら    
(十二 156)

このお歌は明治9年の6月28日より3日間、 川東村小坂の松田利平氏の願いによって辻忠作、仲田儀三郎、桝井伊三郎、村田幸右衛門、堀内興助等の人々が雨乞勤めに行かれた時に論されたもので、其の時には雨は降らなかったけれども、雨乞の願いをした田は非常によくみのったので御座います。

雨乞いづとめ、、、、、、が、3日間、当時のそうそうたるメンバーを集めてつとめられたにもかかわらず、雨は降らなかった、とサバサバとした調子で書かれています。

大阪の測候所の記録を調べたら、にわか雨がわずかに降ったという記録があるので、この時の雨乞いづとめ、、、、、、の結果は、雨が降ったという話になっています。しかし、『稿本教祖伝』にも、雨が降ったかどうかは書いてないのです。

16年の雨乞いづとめ、、、、、、では、降ったということになっています。この時には、河内でも降ったという記録が残っています。

19年の時には、高安の大教会史を見ると、8月11日から12日までお願いしたが降らなかった、とあります。そして、降らないからもうやめます、と言ったら、教祖は、「降らないからやめるようなおつとめではない」と言われました。 それで、14日から18日まで続けたら、おつとめをしている丘の上は降ったけれども、たんぼの方へ行ってみたら全然降らなかったのでがっかりしたという事も、記されています。

どうも雨乞いづとめ、、、、、、は確率的にみると降らない方が多かったようです。それにもかかわらず、当時の人々は喜び勇んで雨乞いづとめ、、、、、、に行っています。 ここが、今の感覚と違うのです。

世間では、雨乞いづとめ、、、、、、は雨さえ降ればいいと思っていました。しかし、教祖の教えた雨乞いづとめ、、、、、、では、必ず、「人の田に水をやる心を定めなさい」というお言葉がありました。

我田引水の心では水争いとなり、水が流れず血が流れるという悲惨な結果になってしまいます。雨が降らない時にこそ、人の田に水をやる心を定める事が大切なのです。その心定めが教祖の教えられた雨乞いのおつとめ、、、、だという事を十分に理解していれば、三日間おつとめをしたが雨は降らなかったと、堂々と話すことができ、悪びれないでその次も雨乞いづとめ、、、、、、に勇んで出掛けられるのです。

雨乞いづとめ、、、、、、を、雨のご利益を頂くおつとめ、、、、と悟ったか、雨の少ない時にこそ人の田に水をやる心を定めるおつとめ、、、、と悟ったのかによって、降らなくとも勇んで通れる人と、降りもしないのに降った降ったと言わなければならない人とに、別れてしまうのです。

昔から、「人の田に水をやるような心」を持つ人は多かったのでしょう、 大和盆地の山沿いには多くの用水池があります。四国にも、弘法大師の満濃池や行基菩薩が造ったという用水池があります。人の田に水をやる心を説いた人達の指導によって、雨が降らないのに水不足を克服している姿であります。

明治10年には西南の役がありました。その頃すでに、13号のおふでさきに、

高山にくらしているもたにそこに
くらしているもをなしたまひい   
(十三 45)

と、人間には魂の上下による隔てはない、ということをはっきりとお教え下さっています。 十三号の50前後の一連のお歌は、高低のない世界を、人間が高低あると思い込んで事を押し進めることが全ての悪事の根源であり、それを正すには、かんろだいづとめ、、、、、、、、しかないということを示しています。 そして、教祖はかんろいづとめ、、、、、、、、の理を学び、おつとめ、、、、を組織できる講を結べと導かれています。

しかし、秀司は、天輪王明神がなくなった分を講という組織を作ることによって、とにかく中山家の営業を成り立たせたい、と思っていました。また、教祖はすでに80歳になっておられることから、秀司が代わって講元となり、その下に信仰者達の組織を作れば、皆は自分について来てくれるという思いがありました。

教祖と秀司。目的は互いに裏腹のまま、講を結成しようということだけは一致していて、明治11年頃には、天元講という地元の講が出来たということが伝えられています。

3-15 蒸風呂、宿屋の営業 
第3章 教祖の道と応法の道
→ 3-17 転輪王講社


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?