【連載】雲を掴んだ男 02/僕の嫌いな僕の名は
金儲けのために三毛猫の雄を探すという、変な男の言うがまま、夏生は午後の授業を抜け出して学校近くの河川敷まで足を伸ばしていた。猫を探す気などさらさらないし、なぜ素直についてきてしまったのかはわからないが、不思議と嫌な感じはしなかった。
「キヤ、カオル……って言ったっけ? あんた」
川面に向かって石投げをする馨の背を見ながら、夏生は舗装された遊歩道に腰を下ろした。夏生も身長は高い方ではないが、その夏生よりも少し低い。細い肩や腰はスポーツをしているようには見えない。それでも、石の投げ方はなかなか堂に入っていた。サラサラと流れる長めの茶髪に、くっきりとした二重瞼が、この男の幼い印象を作っているのだろうと思った。
「そうだよ、二年! おまえは?」
明るく答える声音は、どこか少年のような雰囲気を残している。この童顔男が同い年だということにも驚いたが、自己紹介も済ませていなかったことに、夏生は少しバツの悪い思いがした。
「相田」
ボソリと短く答えると、馨は石を投げる手を止めてこちらを振り返った。
「名前は!」
「相田っつったろ」
「下の名前は!」
「なんで初対面の人間に教えなきゃいけねぇんだ」
「俺は教えたろ!」
「頼んでねぇよ」
そもそもよく知りもしない人間と行動を共にしたことなど、夏生には一度もなかった。加えて言うと夏生は自分の名前が好きではない。しかし、じっとりとこちらを睨みつける馨からはどうにも逃れられそうな気配もないし、振り切ってこの場を後にすることはできそうだが、夏生がその選択肢を思い浮かべることは、何故かなかった。
「……夏生」
「ナツオ!?」
馨は一瞬で明るい表情を取り戻すと、その名前を繰り返した。
「そうだよ、古臭くて悪かったな」
夏生は吐き捨てるように言った。もともと、夏生という名前は曽祖父のものだ。大正時代に始めた商売が大当たりし、一代で財を成したという相田家きっての優良株だったのだが、商才がなかった祖父がこれまた一代で会社を潰してしまったというなんとも情けない話がある。夏生が生まれた時に、祖父は自分みたいにならないようにとの思いを込めて、曽祖父の名を与えたそうだ。
しかし、残念ながら夏生の性格は驚くほど祖父に似ている。祖父の娘である夏生の母は、気風がよく、曽祖父の血を受け継いでいることがわかると親戚中でも評判だが、その夫つまり夏生の父は温厚で出世とは無縁の万年平社員。夏生は祖父の性格と父の事なかれ主義を継いでいるので、完全に名前負けだ、と身内が集まる盆暮れ正月には、いつも笑いの種にされてきたのだった。
古臭い、重い、分不相応。
だから夏生は、いつまで経っても自分の名前を好きにはなることはない。
「どこが? カッコイイじゃん」
そんな事情を知る由もない馨は、きょとんとした顔で言い切った。
「カッコよくねぇよ。曾祖父さんと同じ名前だぞ」
「ふぅん。でも、夏生は夏生じゃん」
「呼び捨てにすんな。苗字で呼べよ」
「俺のことも馨でいいよ」
「そういう問題じゃねぇよ」
夏生は馨から視線を逸らすと、遊歩道にそのまま寝そべった。平日の午後、河川敷はどこまでも静かで人の気配は欠片もない。まるで、世界から人間が消えたみたいだった。
「俺も自分の名前嫌いだよ。馨って女みたいじゃん」
いつの間にか、馨は夏生の隣に寝転がっていた。距離感のない男。苦手なタイプ。だけど、居心地は悪くない。
「じゃあ木谷でいいだろ」
「だめだよ。好きな奴らに呼んでもらったら、好きな名前になるかもしんないじゃん」
「ならねぇよ。それに俺はおまえのこと何も知らねぇよ」
「まぁ、なるよ。俺、いいヤツだよ」
寝転がったまま、馨はにっかりと歯を見せて笑った。屈託のない人懐っこい表情に、夏生は呆れを通り越して脱力した。なぜ、自分に声を掛けてきたかはわからないが、退屈しのぎにはなりそうだな。ひとりごちて、夏生はぼんやりと橙に染まり始めた空を見上げた。
>>03/優等生 に続く
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