短編コント小説:ピーターパン

 その日は皮肉にも雲ひとつなかった。
夏の日差しがおさまらない季節。
私は五階建てのコンクリート造りの建物の屋上にいた。五階建ての屋上は、それは六階を意味している。高さは二十メートル近くになる。
遠くの景色を眺めればきっと見晴らしはいいはずだが、今は眺めている余裕なんてなかった。
緊張して強張った体から冷たい汗が滲む。
そして滲んだ汗のことを意識する余裕すらなかった。私の目線の先には屋上のフェンスを乗り越えて立っている生徒、吉岡の姿があった。
 吉岡が立っているところは、屋上を全て縁取るように囲った五、六十センチ程高くなったところである。何もなければ、誤って人が落ちないように、防波堤のような役割をしているように見える。しかし人が立っている今、それはまるで飛び込み台のように見えてしまう。吉岡は私に背中を向けている。吉岡の一寸先は地面である。正確には多分そこの下は花壇である。
 屋上の扉は金属でできていて、開閉時の金属の摩擦音と閉まる時のうちつける音は想像以上に大きい。だから吉岡は人が来たことはわかっているはずだ。しかし吉岡を見ていると何人にも影響を受けない気高さを放っていた。それはもしかしたらその時の私の心情が投影されていただけなのかもしれない。
私はそれが吉岡にとっての引き金になることを恐れて声をかけられずにいた。と、その時吉岡がグニャリ動いた。右に傾きながら膝を折るようなゆらっとした動き。視界が歪んだだけの錯覚だと言われても疑わないがその時は反射的に声を出していた。
「よしおか‼︎」
吉岡が五メートル先にいることを考えると余る程の声が出た。こんなに大きな声を出した記憶はないが出すべき時にはちゃんと声は出るらしい。吉岡は曲げた足を伸ばしながら状態を真っ直ぐに戻した。そして今度は左に傾けながら足を曲げて、足を伸ばしながら状態を真っ直ぐに伸ばした。それを左右交互に繰り返してる。踊っているのか、儀式なのか。踊りの起源を儀式ということを考えればどっちでもよかった。
「吉岡。やめなさい。」
どんな言葉をかければいいのかわからない迷いが二言目を弱々しくさせた。不安になればなるほど声をかけたくなる。しかし、弱っている場合ではない。少しお腹に力を入れた。
「吉岡。吉岡に何があったのか先生にはわからないけど、もう少し生きてみないか。先生だって毎日辛い。思い描いていた教師像とは程遠い毎日を送っている。でも、先生思うんだ。痛みや悲しみのない世界よりも痛みや悲しみを共有する世界の方がいいんじゃないかって。」
私は驚いていた。毎日絶望していた自分の口から出てきた言葉とは思えなかったからだ。いつ人生を本当の意味でリタイアしてもいいと思っていた自分の言葉とは思えなかったからだ。それはまるで自分で自分を説得しているようでもあった。すると吉岡は振り返り初めて口を開いた。
「なーんちゃって」
予想していなかった一言に私は少し固まってしまったが、ゆっくりと慎重に声を出した。
「なーんちゃって・・・って言ったのか?」
「なーんちゃって」
「なーんちゃってって・・・あのなーんちゃってか?」
「うん。あのなーんちゃって」
「なんだ。あのなーんちゃってか。あのなーんちゃってっだったら早くフェンスのこっち側に来なさい。」
「なーんちゃって。なーんちゃって。なぁーんちゃって。」
吉岡は奇妙な踊りを踊り始めた。両手を上下に顔の周りをぐるぐるまわしながら膝を上下させている。猿のような動きである。踊りなのか、それとも何かを行う前の儀式なのか。踊りの起源を儀式と見るならばどっちでもいい。
「吉岡。なんだその動きは?」
「なんちゃってダンス」
「なんちゃってダンスか。なんちゃってダンスはフェンスのこっち側に来て踊りなさい。」
吉岡は私の声を無視して踊り続けている。吉岡が本気で飛び降りる気がないのか分からず、安心したい気持ちと安心できない状況が緊張感を生み、声を震わせる。
「吉岡。なんちゃってなんだよな?」
「なんちゃってだよ。」
「なんちゃってなんだったら、フェンスのこっち側に来ないか?」
「なんちゃて、なんちゃて、なんちゃ、なんちゃ、なんちゃ、なんちゃ・・・」
吉岡のなんちゃってダンスのテンポが上がった。テンポが上がれば、より危なっかしく見える。足のステップがダンス部がよく踊っているものに似ている。これがブレイクダンスというやつだろうか。あんな細いところでするようなステップではない。
「吉岡。もうやめにしないか?」
刺激しないようにと思うと同じような言葉しか出てこなくなる。吉岡は踊りのリズムに合わせてずっと「なんちゃって」という言葉を繰り返してる。スペースが狭いだけにそこまで激しい踊りはできないが、それでもずっと動きと一緒に声を出すのは疲れるはずだ。よく息が上がらないものだなと思い始めた時に、吉岡の動きが止まった。息が上がったようで呼吸を落ち着かせている。
「はぁー・・・。はぁー・・・。はぁー・・・。」
「吉岡疲れたか。喉渇かないか?今日は特別に先生が飲み物を奢ってあげよう。何が好きなんだ?なんでもいいぞ。」
吉岡はブレザーの内ポケットに手を入れて中からコーラのペットボトルをとりだした。
「コーラが好きなのか・・・。先生もコーラ好きだぞ。」
中身が半分も入ってないペットボトルのキャップをひねると、プシュッと勢いよく空気が抜ける音がした。
「そのコーラ炭酸が抜けちゃったんじゃないのか?新しいコーラ飲みたくないか?」
吉岡は勢いよくコーラを飲み干し、ペットボトルを足元に置いた。そして、また踊り出した。私の言葉には反応を示さなかった。
「お腹は減らないか?何かご馳走しようか?何か食べたいものはないか?」
相変わらず、吉岡からの反応はない。
「そのダンス先生見たことあるぞ?ニジ・ユーじゃないのか?ニジ・ユー。」
「NiziUだねー。ニジュー。小っちゃいユ。」
「フフフッ。こういうのには反応するんだな。」と、吉岡には届かないぐらいの声でつぶやいた。
「吉岡。何が目的なんだ?先生を困らせたいのか?飛び降りる気は無いんだよな?なんちゃってなんだよな?」
とにかくこの不安と緊張から解放されたくて質問を重ねてしまった。
「大丈夫、飛び降りないよ。」
吉岡が危険なところに切ることは変わらないから緊張感は拭えないが、飛び降りる気は無いという言葉を聞いて、ことを急がない方がいいのかなと考えを改めた。ずっと踊っている吉岡をしばらくそのまま見守っていた。飽きてやめることを願っていた。そのまましばらく見ていると吉岡はふと、踊りをやめてこちらに背中を向けた。そして屋上のその先へ左足を投げ出した。そのまま一歩踏み出せばその先は地面である。
落ちる。
と思った私は反射的に声を出していた。
「吉岡‼︎」
しかし吉岡は私の言葉を無視して一歩踏み出した。そして二歩目も踏み出した。そして三歩目も。
「ふへ?」
間抜けな変な声が出た。無理もない。普通なら落ちるはずの吉岡が空中を歩いているのだ。そこにまるで透明な板でもあるかのように。
「吉岡。何してんだ?どういうことなんだ?」
吉岡は何も答えずに空中を歩いて行ったり来たりしている。
「もしかして、あの、マジックなのか?練習したマジックを披露したくてこんなことしているのか?」
もちろん吉岡は何も答えない。何も答えてくれないことに慣れ始めていた。
「マジックか。すごいな。先生全然気づかなかったよ。いまだに分からないんだから、すごいじゃないか。やっぱりタネとか仕掛けとかは教えてはくれないんだよな?」
ずっと空中を歩いていた吉岡が今度は、ふわっと一メートルほど浮いた。それまでは浮いているというより透明の板の上に立っているという感じだったが、今の吉岡を取り巻いているのは重力を感じさせない浮遊感だ。
思わず私は空を見上げた。透明なワイヤーがあるのかと思って探した。ワイヤーは見つけられず、今度はワイヤーを繋げられるものがないか周りを見回した。が、それらしいものは見つけられなかった。それらしいものがどんなものか想像していたわけではなかったが無いと判断した。再び吉岡に視線をもどすと、大きく横に8の字を描くように飛んでいた。吉岡が飛んだ軌跡を残像のように星屑が輝いては消えていった。
その姿を見て私はピーターパンだと思った。ピーターパンとしか思えなかった。
「ピー・・・ター・・・パン?」
吉岡が宙に描く八の字はどんどん大きくなっていく。
「吉岡。お前、ピーターパンだったのか?」
その時の私は不思議にも、タネや仕掛けがあるマジックという考えは無くなっていた。吉岡の描く八の字はどんどん大きくなっていった。それを見ながら私はこのまま吉岡はどこかへ飛んでいってしまうんだろうなと予感していた。
とその時、吉岡はそれまでの八の字の動きをやめて、私と視線を合わせて薄くくちを開いて、微笑んだ。その時の吉岡の微笑みは美しかった。顔立ちが綺麗とか口角の上がり具合のバランスがいいとかそういう事ではなくて、笑顔としての美しさだった。それから私が予感した通り空高く飛んで、どんどん空高く飛んで、そして見えなくなった。

呆然と何も見えなくなった空を眺めていた私は視線を屋上へと戻した。ゆっくりと辺りを見回す。するとそれまでの記憶が蘇ってきた。
 教師生活5年。私は毎日絶望していた。高校になると親からのクレームはそう多くはなかった。私が耐えられなかったのは、教師一人一人の教育に対するモチベーションの違いだった。私はきっと教育熱心な方だと思うが、モチベーションが低い人はそれでいいと思っていた。やる気のない先生を変えようと思っていないし、また、それこそが社会だと思っていた。しかし、モチベーションの低い先生はやる気のある先生の脚を引っ張ってくる。
愚痴。悪口。陰口。教育に関係のない噂話。新しいやり方や提案に対する根拠のない薄い批判。
将来を考えた熱心な教師も今日一日を消化することしか考えていないやる気のない先生に邪魔される。そしてそれが続くと果たして自分していることが本当に正しいのか分からなくなってくる。
いったい私はなんのためにこんなことをしているのか?
生徒の将来のことを考えてる人はいないのではないか?
自分一人だけがただ空回りしているのではないか?
本当は迷惑なんじゃないか?
 そんなことを毎日考えていたら今日、昼休みの時間に屋上に来ていた。本気で飛び降りる気があったのかどうかは分からない。とりあえず屋上に来ていた。
そこで私は幻覚を見ていた。誰かに止めて欲しかったのかもしれない。いや、ただ仲間が欲しかっただけかもしれない。なぜ幻覚で現れたピーターパンが生徒の吉岡だったのかはなんとなくわかる。わざわざいうほどの大した理由ではない。私はスマホを取り出してピーターパンと打ち込み、検索してみた。

戯曲『ピーター・パン:大人にならない少年』イギリス・スコットランドの作家ジェームズ・マシュー・バリーの作品
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大人にならない少年、か。
大人にならない少年・・・か。

金属でできた屋上の扉が、ギィっと開いてバタンと閉じた。
「先生。」
振り返るとそこには吉岡がいた。
「お、ピーターパン。」
「は?何それ?」
「吉岡お前、ピーターパン知らないのか?」
「ピーターパンは知ってるよ。急になんだって聞いてんの。」
「あ、ごめんごめん。こっちの話だ。それよりどうした?」
「は?どうしたじゃねーよ。もう授業始まってんだけど。それでクラスの中で俺が先生を呼びにいくことになって。」
腕時計を見ると五時限目が始まる時刻を20分も回っていた。ということは一時間近く私はここに立っていたらしい。
「ほんとだ。わざわざ悪いな。」
「先生大丈夫かよ?何してたんだよ。」
「いや、先生は大丈夫だ。それよりお前、敬語は使えるんだよな?先生だからタメ口なんだよな?」
「当たり前だろ。」
「ふふっ。そうか。それならいいんだ。親しみのタメ口なんだな。」
「先生なんか変だぞ?」
「そうか?じゃあ、先生はいつも変なのかもしれないな、ハハハハハッ。」
「気持ちわりっ、ははっ。」
「で、吉岡。なんでお前が先生を呼びにいくことになったんだ?」
「なんで、って?」
「クラスには他にも生徒はいるだろう?」
「そんなことぐらい先生もわかってんだろ?」
「やっぱり、苗字か?それは気の毒だったな。」
「もう慣れたからいいんだけど、くだらないよな。」
「でも、親近感湧くだろ?先生に。」
「いや。別に。わかんない。いや・・・。」
吉岡は少し考えるそぶりを見せて、
「わかんない。」と答えた。
「年取ったら多分わかるぞー。」
「ふーん・・・。せんせい、早く行こうぜ。」
「おお、そうかそうか。」
屋上の扉に向かって私は歩き出した。それに合わせて吉岡も左斜め後ろをついてきた。
「天気いいな・・・。」
という言い方が独り言に近かったけど、
「え?・・・あ、うん。」
と、多分空を見ながら言ったのだろう。
人と人が繋がるのに必要なことは、偶然のような些細なことでいいみたいだ。



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