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【公立校ICT活用の遅さは意識の低さだったのか】

こんにちは、いちまるです。

先日5/11に文科省によって行われた情報環境整備に関する説明会で、公立学校のICT活用の取り組みの遅さが痛烈に指摘されました。

文科省は「使えるものはなんでも使って」といった今後の指針を示すとともに、対応の遅かった管理職の危機感のなさや、取り組もうとしない姿勢を強く批判しました。

しかし文科省が述べたように公立学校の取り組みの遅さは各学校の姿勢の問題だったのでしょうか。
そのような疑問から本記事では、なぜ公立学校のICT活用は遅かったのか、という原因の考察をしたいと思います

1, 取り組みの遅い原因はなにか、対応の遅さに見られる構造的問題

5/11におよそ2時間半にわたって行われた情報環境整備に関する説明会では、おもにGIGAスクール構想の説明、および制度の活用方法や学校への要望が話されました。
文科省の会見については、こちらに全文があります。
https://note.com/mmeducation/n/n9ab23ea5a385?fbclid=IwAR1waPCnXjjquNqnAdt-WDtE7Gd5dInvLtGhySs-2RfxfjC5vA1pa9uhCz0

GIGAスクール構想はこちら
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2003/06/news002.html

その中でも冒頭の30分間は今回のコロナでICTの活用が急務の中、遅々と進まない公立校の取り組みが強く批判されました。
例えば冒頭で矢野審議官は、「これまでの学校は5%の家庭がネットに繋がらなければあきらめるという発想だった。しかし緊急事態の今、95%が繋がるならまずはやってみて、5%の子どもに対して他にどのような手当を行うことができるかを考えていく必要がある。子どもの学びをいかに保証するかを真面目に考えていけばそのような発想になるはずだ」と述べました。

つまり文科省は、管理職や委員会が真面目に考えていないからこのように遅いのだ、と述べているわけです。
もちろん文科省も「緊急事態なので早さ重視で取り組んでほしい」という旨を強い口調で述べただけであり、学校を批判・統制しようという意図はないと思います。
しかし、ほんとうに学校関係者の危機意識の低さがこの対応の遅さの原因だったのでしょうか。

皆さんお分りかと思いますが、そもそも公立学校という組織は、新しいことを迅速に決定し・実行するということを極めて苦手としています。

まず、今回の休校期間の対応として学校がICTの活用を行うためには、立案、決定、実行の過程を迅速に行う必要がありました。その過程のうち現場ではおそらく立案がなされていた、にも関わらず決定・実行があまりに遅かったことで文科省の批判につながったのでしょう。
それではなぜ決定・実行が遅い、もしくは立案が却下されたのでしょうか。その主な原因を三点挙げ、考察していきます。


(a), 意思決定の過程が階層的かつ民主的であり、提案から決定までが長い

まずは委員会→校長→教員といった、階層的な意思決定の過程が第一の原因だと思われます。(このあたりもっと厳密に検討したいと思っています)

今回のICT活用に関して各校の校長が即決していれば、状況は大きく違ったでしょう。(私立の場合はそれができた)
学校は官僚的な階級組織であり、各学校の運営における最終的な決定権は校長にあります。しかし、ICT活用に関しては設備や労務なども絡むため、当然教育委員会への相談が必須になってきます。ところが委員会も官僚的な組織なので、また上に上に相談していく必要があります。
例えば学内では教諭→指導教諭→主幹教諭→教頭→校長といった職階に従い
委員会では、指導主事→統括指導主事→委員→教育長といった風になります。
(これは一例、実際にはより多岐にわたる)

つまり現場の教員がやりたいと思っても、上に上に了承をもらえなければ決してやることができないのが官僚組織の特徴です。それが現場のニーズ→実行までが遅い原因の一つでしょう。


もう一つ述べたいのは、トップダウンでありながら決定過程は民主的であるだろう点です。学校は手続き上の階級はありながらも、職務においては横並びの共同体に近く、したがって運営は職員の合意をもとに行われることが多いです。つまり生徒の学びに関することは職員会議によって話し合った上で決定されます。そのためICTをどのように活用するのか職員で話し合い、懸念や妥当性について合意形成をした上で実行に移されることになりますが、しかし当然この話し合いも簡単ではないでしょう。

したがって学校には管理職の決定に従うという階層的なプロセスと、共同体の同意をえるという民主的なプロセスの二つの決定過程があり、その両方のプロセスをクリアするという公立校独特の壁が対応の遅さにつながっていたのではないかと思われます。


(b), 足並みを揃える、という対応指針

次に校長が即決できない理由として、足並みを揃える、という対応指針があったと考えます。今回の場合、足並みを揃えるというのは地域や委員会とタッグを組んでチームで対応にあたる信念の一方、運営における守りの姿勢の表れでもあったのではないかと思います。

校長は学校の運営に関して決定権をもっていますが、他校と大きく異なった対応はあまりしたくありません。なぜなら新しい取り組みを行うことは(しかも他校はやってないのに)、運営上のリスクが大きいからです。オンラインで個人情報が流出したとか、通信料がとんでもない額になったとか、教員の設備不足への不満だとか、そういったことへの説明と責任が求められます。休校期間の決定ですらそもそも先行き不明なのに、委員会と交渉して、部下にお願いして、保護者に説明して、新しい取り組みを行うなんて。。。(´_ _`)シュン
したがって実施にあたる明白な理由と、確かな道筋が見えなければ即決することは難しいのです。

そこで「足並みを揃える」と述べることで、チームで取り組むという主張をしつつ、自らの責任リスクを回避できたのです。
校長の心理はあくまで推測にすぎませんが、いずれにせよ「足並みを揃える」という対応指針は、学校独自の判断を抑制し、ICT活用の提案を保留し、周りを伺うという対応につながったのではと考えます。

余談ですが、学校の管理職がそういった独自の判断、リスクのある選択をできないくらい学校に対して過度の要求をしてきた社会の側にも、その根はあるのではと思います。

(c),  形式的な教育、学び観にとらわれすぎていた。

そして最後に挙げられるのは、学校が形式的な教育観にとらわれすぎていたことです。
これまで学校教育は、教室という学習空間、区切られた時間割、クラスなどの社会的集団を前に教師として授業を行うことが位置づけられ、そういったパッケージ化された教育環境によって子どもの学びを総合的に支援してきました。

しかし今回のコロナ対応では授業をいかに工夫するかという域を超えて、子どもの学習環境をいかに整備するかという、より包括的な教育支援の視点が求められました。授業・時間割・クラスでの活動といった個々の教育環境は、一体子どもたちのどんな学びや育ちに貢献していたのか、どんな教育的意図や目的、配慮を前提にして行われていたのか、そしてそれはICTという道具をつかってどのように別の形で担保できるか、ということの創造的な再構成を求められたのです。

しかし実際の学校の対応は各教科のプリントの配布という極めて従来の形式に依存したものでした。このことは学校が休校明けに夏休みを短縮し、可能な限り授業を行おうとする対応にも表れています。つまり子どもたちの学びは授業をすれば担保できる、という形式に依存した教育観に立っているのです。

実際には休校中も自宅学習によってむしろ効率よく教科の学習を進めた子もいれば、プログラミングをじっくり探求した子、ニュースによって社会問題への関心を高めた子など、多様な教材と対話し子どもたちは学んでいたかもしれません。

しかし、「授業=教育活動」という形式に依存した教育観が、家庭でICTを活用した教育環境の再構築という創造的な取り組みに歯止めをかけてしまったのではないかと考えられます。

まとめ
学校がICT活用に遅れた原因は、a, 意思決定過程が階層的かつ民主的, b, 足並みを揃えるという対応指針, c, 形式的な教育観にとらわれすぎた, からではないかと考察しました。

2, なぜ新しい取り組みを決定・実行できないことが問題なのか
~学校の自律性~

最後に述べたいのは、なぜ「今回のような新しい取り組みを決定・実行できない学校組織が問題なのか」という点です。これは学校の自律性に関わってくるのではと思います。

そもそも学校は1872年の学制以来、教室というハードウェアは変えずに、学習指導要領というソフトウェアだけをアップデートしてきました。そしてそれらのアップデートは文科省からのトップダウンによってなさられてきたという歴史があります。したがって今の学校という組織は生まれて150年、自分たちで目的を定め、達成の方法を吟味し、遂行の評価をしてこなかった。言い換えれば自分たちの価値観にしたがって活動するという自律的な文化を持ってきませんでした。
この学校の自律性の低さが今回の対応によって顕在化したというのが私の考えです。

学校に自律性は必要か、私は必要だと思います。
全国一律でない状況に対応するためには、それぞれの学校が自らの判断で子どもたちの学びの支援に取り組むしかないと思っています。
各地域、各家庭、それぞれの子どもたち、学校が持つリソース、財政状況など大きく差があるいま、文科省に従う運営で掬い上げられるのは、マジョリティの子どもたちだけです。
目の前の子どもたちのニーズに対応できるのはそれぞれの学校であり、学校の自律性が発揮されなければいつまでも通り一遍のお役所仕事になりかねません。

例えば、不登校の子どもたちはこれまでも一定数(かなりの)いましたが、その子たちにオンラインの学習環境を提供する公立校はありませんでした。
しかし今回は全員不登校になったから、そこに対応しない学校の運営を文科省が問題にしたのです。

ですので、離島で暮らす子がいる、スポーツに打ち込みたい子がいる、地域に歴史的な資源がある、個性的なキャラクターの教員がいる、そういうそれぞれの状況に照らし合わせて、教育的な営みを展開していける自律的な学校組織が必要だと思います。

もちろん、問題は根深いです。財政的な問題もあります。文化的・社会的な問題もあります。
昨今の教育行政においては学校の自律性を高めるような制度設計を進めるべく、
校長に学校運営の強い権限を与え、地域の人や保護者が参画できる学校運営評議会を設置し、目標・運営・評価が関係する当事者によってなされていく仕組みづくりをしてきました。

しかし結局、文科省が喝を入れる構図になってしまった。

僕自身まだまだ勉強不足で考察が適切かわかりかねますが
今回の出来事から「学校の自律性」という制度的・文化的・社会的な問題について議論のテーブルに載せたいと思い記事を書かせていただきました。
皆様の関心になればと強く思っています。

ご拝読ありがとうございました。

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