【週刊ドーパミン】自由についての講座を受けて、愛されたくて制限した自由について思い出す、の巻。
みなさまおこんにちは、
自分責めの毎日からわたし大好きがあたりまえな毎日を。
あなたのドーパミン、
心理カウンセラーのイチカ✳︎ドーパミントです。
ブログにお越しくださってありがとうございます。
きのう、田村洋子カウンセラーの心理学ミニ講座を受講した。
洋子先輩は、わたしにとって浄化の光なのである。
↓ わたしがどれだけ洋子先輩に癒されてしまうのか、泣かされてしまうのかを書いた過去記事。
テーマは【自由】だった。
講座は、自由ってなんぞな?そんな哲学的なおはなしからはじまった。
「自由という字は、
自(みずから)に由(よ)る
と書く。
自分が原因で、いまを生きている」
惚れ惚れとした。
すかっとした。
人間は人のせいにしている間、自分のことを見つめなくなる。
その矛盾を考えなくて済む。
わたしの悩みはすべて自分が作り出している。
自由とは、だから、自分の人生に責任を持つことなのかもしれない。
講座のはなしを続けよう。
受講者が、自由について自分で考える1分ワークを行い、
それをシェアすることによって進行する。
さっそくだけれど、よかったらみなさんもタイマーをセットして一緒にやってみてほしい。
1分、感じたままにメモしてみよう。
【ワーク1】わたしにとって自由とは?
思い浮かんだだろうか。
だいたいみなさん、4つくらいあげておられた。
ご自分のことばと合致するものがあるだろうか。
なにか心惹かれることばがあるだろうか。
意識しながら、読んでみてほしい。
イチカ:心地いい
しあわせ
のびのび
そのまんま
涙が出るほどありがたい
受講者さんたち:好きにできること
どこにでもいけること
イメージしたとおりに動ける
空気みたいな感じ
奇異な目で見られる
時間に縛られない
自己責任が伴う
洋子先輩:気持ちいいこと
なんでもおもしろい
自分もほかの人も自由なこと
わたしはほかの受講者さんの
「奇異な目で見られる」ということばにひどくこころ揺さぶられた。
ああ、ほんとうにそうだ。
自由とは、決してポジティブな面だけではなかった…。
こんな気持ちを見透かされたか、洋子先輩はみんなに「背伸びして深呼吸して〜」と笑って言う。
そうだそうだ、からだを動かすとこころも動く。
首や肩をぐるぐるまわしていると、浄化されるような気持ちになった。
からだが自由になった。そしてこころも。
さあ次に行こう。
【ワーク2】あなたが自由だったら、やりたいことはなんですか?
どんな感じで過ごしていますか?
さあまた1分。ぱっと思い浮かんだことをメモしてみよう。
そしてシェアしてみよう。
イチカ:月に一度5連休を取って、山と川を越えて海へ出て島にたどり着きたい。
ごめんね、とあんまり思わなくて済むようになりたい。
「わたしがやりたいことをやりたいようにやっている」をよろこびたい。
期待に応えられなくてごめんね、をすてさりたい。
ここで、受講仲間さんたちとのシェアをせず、がっつりと自分の世界に入った。
出先だったもので、見る専門、聞く専門だったせいもあるのか。
ああ、わたしは、自分が自由でいることは誰かの期待を裏切ることだと感じているのか。
そう思った。
あああ、こころあたりがありすぎる。
いつのまにかはじまった次のワークにはっと我に帰る。
【ワーク3】自由にできない理由はなんですか?
また1分間ひらめいてみよう。
今度は受講仲間さんたちとのシェアができたので、書き記すよ。
イチカ:人の期待に応えてあげられなくなるから
わたしの自由は、目の前の人の期待に反するから。
みんな:
・いつしかタスクにしてしまっている。
・だれかに迷惑をかけるから
・家族、こどもたちにうしろめたい
・世間さまにうしろめたい
・「自由でしあわせでごめんなさい」
「恵まれていてごめんなさい」と感じる
ああ、なんでだろうなあ、罪悪感をもってしまうのはみんなおんなじなんだ、ふしぎだなあ。
むかしの記憶がよみがえる。
小さなころに犬の図鑑を読んで書いた作文を担任の先生がものすごく褒めてくれたとき、
「こんなことに使うエネルギーがあるんなら、算数のテストで100点取りなさい」
と母に叱られたなあ。
わたしが自由にたのしんでいることは間違っている。
わたしはもっと我慢して嫌なことをやらなければちゃんとした大人になれない。
自由でいたら、母が悲しむし、大人としてきちんとしていないことになる。
そんな制約をつくったっけ…などとむかしを思い浮かべていると、
洋子先輩のやわらかな笑顔とことばが画面越しにこう伝わってきた。
その理由はほんとうですか?
だれかにそう言われましたか?
それはそのひとの真意ですか?
自由を自分で却下しませんでしたか?
うん、わたしが却下したんだなあ。
わたしが自分で棄てた。
おかあさんを悲しませたくなかったし、よろこんでほしかったし、愛してほしかったから棄てた。
だけれど、わたしはもう47歳のいい大人だし、母の真意はわからない。
ちいさなわたしにとって母は絶対だったけれど、わたしはもうわたしの責任で自分を生きなければならない。
わたしは恋人の顔を伺って、自由にしていたらこの人を悲しませるし、嫌われるし、愛されないと頑なに信じてちがう人を演じてきたけれど、
恋人はわたしが自由のなかで選んだんだ。
この人を一生涯愛したい、ほかの男は一切必要ない、と自分で選んだんだ。
この人はおかあさんじゃない。
おかあさんが嫌ったことを、この人も嫌うとは限らない。
いや、まったく嫌わない。むしろ愛される。
たいせつにしたいと思う人と出会うたびに、
わたしはしあわせにできなかった母への懺悔を昇華させようと我慢する。
そして、そんなことせんでいいねんで、と笑ってもらえる。
わたしは自由で、自分の責任で生きていられて、とてもしあわせだ。
> この人を一生涯愛する、ほかの男は一切必要ない、と自分で選んだんだ。
こんな枷を自らはめること、これもわたしのすばらしい自由のなせるわざ。
さてさて、きっと似たようなお悩みをお持ちの方がいらっしゃると思うから、
「タスクにしてしまってしんどい」
という受講仲間さんのお悩みへの、洋子先輩のお話をシェアしたい。
わたしもおんなじなのよねん。
やりたくてはじめたことがだんだん面倒くさくなって、
なんでこんなことしなきゃならんねん、とやる気を失ってくる。多々ある。
洋子先輩のことば
↓
やすむときがきたよ、っていうこころとからだからの愛だよ〜
いつでも一生懸命でがんばりやさんなあなたが、ちょうどよい休憩をいれてさらに輝くために、教えてくれている。
恋愛もしんどくなったときはやすみどきだ。
自分に向き合う時間がきたよ、と教えてくれているのだろう。
1分という時間は短いようだけれど、あたまを経由せず、ふだんこころが感じているものがパッと浮かんできやすいのだそうだ。
たしかに、ものごとをずっと考えていると、
「果たしてこんなことを言っていいのだろうか」
などという社会性に支配されてくる。
「これは言わない方がいいだろう」
「こっちは言っといたほうがいいな」
そんな、損得にからんだ発言をしやすくなってくる。
損得というと身もふたもないけれど、こう言い換えると胸がきゅっとする。
「こう言えば嫌われないかしら」
「こんな言い方をしたら好きになってくれるかしら」
こうやって、みずから自由に遠ざかっていく。
わたしたちは、社会と恋に落ちるのではない。
目の前の愛しい男と、ふたりの世界を生きるために恋をする。
正解は、ふたりのなかにしか存在しないのである。
今日もおつきあいくださってありがとうございました。
すてきな今日をお過ごしください。
イチカ、あなたのドーパミンより。
ずっと罪悪感を抱えて、自己肯定感ひっくい人生を送ってきたんですけれど、いまは応援していただくことの修行をしています。よかったらサポートお願いします。いただいたサポートで土偶や土器の博物館に行きます。