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自意識過剰な三四郎と、魔性の女ミネ子

【今回のおススメ図書】
夏目漱石『三四郎』

<あらすじ>

熊本から東京の大学に入学し、
今までとは全く違う世界に戸惑いながら、
そこで出会った人々と交友関係を深めていく主人公・三四郎。

ある日、三四郎はミネ子という女性に出会う。

三四郎はミネ子に惹かれていくが、
なかなか自分の好意を伝えることができず、

最終的に彼女は別の男性に嫁いでしまう。

読んだことがある方はご存じだと思いますが、
いわゆる恋愛小説ではありません。

三四郎の心の動きを丁寧にかつ冷静に追っていく、
一人称のような小説です。

1:自意識過剰な主人公

「近頃の青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎて不可(いけ)ない。吾々の書生をしている頃には、する事為す事一つとして他(ひと)を離れた事はなかった。凡てが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他(ひと)本位であった。」

この一節は物語の前半、
三四郎が知り合いになった広田先生の言葉です。

「自我の意識が強すぎ」る、
つまり、自意識過剰な状態。

この状態は物語を通して、三四郎に当てはまります。

三四郎はいろいろ考えはするものの、
それを口にしたり、
行動に移したりすることが苦手です。

他人がどう思っているのかばかり気になって、
自分自身が主体的に動くことは
ほとんどありません。

それは特に、ミネ子に対して顕著です。

三四郎は彼女に恋心を抱いていながら、
常に受け身であり、
そのために彼女に振り回されることになります。

ただ、その振り回されるというのも、
三四郎が勝手に妄想をふくらませて、
右往左往している感じです。

女性慣れしていないだけ?

いえいえ、
友人の与次郎や広田先生に対しての態度を見ると、
そうとも言い切れません。

三四郎はいつでも、
あまり自分の意見を言わず、
聞き役に徹しています。

三四郎はまるで、
10代の頃の自分のようで、
読んでいて
「気持ちはよく分かるけどしっかり!」
とエールを送りたくなりました。

2:そもそも自意識って?

自意識とは自分が自分である、と意識することです。

自意識は自分ではない誰か、と区別することで成り立ちます。

つまり他者がいることによって、成り立つものです。

この自分を意識する「自分」が強すぎると、
自分と他者を躍起になって区別しようとするあまり、
自分をがんじがらめにして動けないようにしてしまうのです。

三四郎の場合、「自分」とは「他人の目」として表されています。

3:ひとり相撲の恋愛

三四郎が心を寄せる女性・ミネ子は、
彼が知っている田舎の女性とは違って自由に行動し、
男性にも臆することなく接します。

ミネ子は美しく、
何を考えているのか分からないミステリアスな女性です。

また、「ストレイシープ(迷える子)」と言って彼を戸惑わせ、
共通の知人である野々宮さんとも関係があるような素振りをして、
彼の心を振り回します。

まさに、魔性の女です。

しかし、ミネ子が魔女の女であるのは
三四郎にとってのみです。

『三四郎』は三人称の小説ですが、
ミネ子の描写のみ三四郎視点で描かれています。

つまり、「現実」のミネ子がどうあるかではなく、
三四郎の目を通して見た彼女が、
魔女の女であるに過ぎないのです。

現に、
与次郎や広田先生の発言からは、
彼らがミネ子のことを特別な女性として扱っていないことが分かります。

物語の後半には、
三四郎がミネ子からお金を借りる場面があります。

三四郎は生まれてから今日に至るまで、人に金を借りた経験のない男である。その上貸すと云う当人が娘である。独立した人間ではない。

「独立した人間」であるはずの三四郎が、
「独立した人間ではない」女性のミネ子に翻弄され続けるところが、
この物語の面白さです。

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