女の子の裁判 #本

昔から自分のことなのに自分で決められないことがあるのはなんでなのかな?という疑問をもっていました。

ぼくにとってそんな疑問の出発点は小学校に入学した時のランドセルの色でした。それまでは、みんな同じ黄色のカバンだったんです。

例えば、好きとか嫌いとか、興味があるとか興味がないとか、美しいと思うかとか醜いと思うかとか、でもそれってなぜそう思うかと聞かれても、そいうことってそれ以上に追及しても理由が出てこないんです。

そういう感覚の中でとりわけずっと不思議に思っていたのは人の中の性別意識でした。

日常生活における些細な人の行動に対しても、なぜなぜを繰り返すと、最終的には自分の性別意識に行き着くんじゃないかなと考えているからです。

性別意識が自分の行動原理の中での最もベースにあるものの1つであるのに、それが自分で決められないのだとしたら、それに紐付くあらゆる意思決定は、はたして誰が決めているんだろうって。

ぼくは自分の言葉遣いや仕草やファッションや将来の夢や、それからそれから…、ありとあらゆることに自分を疑わしく思って、果てのない道無き道に迷宮入りしたんです。

そんな疑問についてある大人たちに訊けば、それは本能みたいなものとして自分を受け入れるべきだと言っていたけれど、ぼくはそれではなかなか納得のできなかったのです。

またある大人たちの知識に触れれば、それを古典的な命題として自由意志の問題を哲学的に説明していたり、最近の脳研究について報告していたりしていたけれど、これもまたよく分からなかったのです。

人はみんな自分の意志で生まれてきたんじゃなくて、気付いたらこの世界にいたわけなので、そもそもそんなこと考えることすら無意味なのかもしれません。

自分の意志でスタートラインに立ったわけじゃないのだから。

なんて虚しいんだろうって思いました。

ぼくは夢を見られなくなった大人たちから逃げるように、自分らしく生きられない世界から逃げるように、深い深い夢の中に沈んでいきました。

でも、それじゃあまりに侘しいので、自分の中でうまく形にならない心の地図を描きたくて、またそういう疑問を世の中に投げかけたくて、女装男子を集めた写真集に参加したり、展覧会のモデルを務めたり、映画で役を演じたり、TV番組に出演したりしました。

どれもすごく楽しかったし、遣り甲斐もあったし、思いを伝えることができたのですが、一方で自分の中で課題として感じているものがありました。

一つは、世の中に何かを伝えたいと思っても、同じような境遇の人同士が集まっていると、興味がある人たちの中で情報が閉じてしまってなかなか広がりをもてないことです。

また、同じような境遇の人同士が集まって活動することによる課題はそれだけではなく、そういう姿を見てもらったときに「そういう特殊な世界にいる人たち」と「それとは別の正常な世界にいる自分」という構造で、異種のものとしての認識が強まり、かえって溝が深まってしまうこともあります。

もう一つは、例えば展覧会などで作品を発表した場合、発信者に問題意識があることが前提なので、問題が解決に向かう一方で、問題をより問題としての認識を強めてしまう矛盾した作用が働くことがあります。

仮に、それに対して何の問題意識も持っていない人が、何らかの問題意識を潜めた展示を見たら、それって問題なんだなっていう認識が刻まれてしまうかもしません。

そういった課題に対して、自分とは違う毛色の人たちの中に混ざることで自分の視野を広げて今までの暗黙のルールから外れて共存している姿を見せること、そしてそれに対してぼく自身が問題意識を持たず、それがはじめから普通であって、当たり前であって、そして嘘でもそれが既成事実である世界を見せたいと思って、ぼくは男子として女性アイドルの世界に挑戦しようと思いました。

もともとアイドルなんて向いてないし、本当に不器用だったけど、でもこの3年間でメンバーと切磋琢磨し、関係者やお客さんと接するうちに、自分なりに少しずつ一段一段階段を上ることができて、はじめの頃と比べて少しだけ見晴らしがよくなって、今まで気付かなかったことにも気付きました。

ぼくが所属するグループは、「年齢、 国籍、性別を超えて」というのが当初のコンセプトでしたが、本当に乗り越えるのが難しいのは宗教だと思います。

宗教っていうと物々しいのですが、価値観とか思想とか好みとか、そういういった人の"無意識にある何か"です。

年齢とか、 国籍とか、性別とかそれは表面的なものであって、そんなの違ったって気が合う人は気が合って仲良くなれるんです。

偏見をもつのは自由だけれど、たとえ心の中にそういう気持ちがあっても、それによって人に理不尽な不利益を与えたり、気付けたりする差別があってはいけないと思います。

だから、そういうものを理性的なアプローチで抑制する社会の仕組みは大切だと思います。

一方で、頭の中の多様性はどうでしょうか。

冒頭で説明したように、人の無意識は自分でコントロールすることが難しく、それ故自分とは違う考え方をもつ人を受け入れるのも大変難しいです。

昨今、多様な人たちが共存することが大事であると謳われていますが、言葉だけが独り歩きして、共存がそれ自体目的になっていないかということが懸念されます。

もともとそういう事が言われた始めた出発点は、何か新しい価値を生むという目的に対して、それを達成する手段として色々なアイディアやナレッジを持った人達が集まるということであったと思います。

共通の目的意識がなくて、多様な考えを持つ人がただ共存するのはいたずらにストレスがかかるだけで、平和な環境とは言い難いです。 

だから、例えばアイドルグループであれば、多様な個性を持つメンバーを合わせて、新しいパフォーマンスができないかとか、多様なお客さんを巻き込めないかとか、そういう共通の目的意識をもつことがとても大事だと感じました。

じゃあそういう目的の下で多様な人たちが集まったとき、どう共存するかといえば、それはメンバーに対しても、お客さんに対しても、思いやりの気持ちを持つこと、ホスピタリティが大事なんだと思います。

一人一人のお客さんに、笑顔で握手する度にそう思いました。

統計的な傾向としてみれば、外面と内面には強い相関があるかもしれないけれど、でも実際には全然そうとは限らないし、今後より一層グローバル化やボーダレス化が進んでいくこともあって、外面と内面はあまり関係無くなっていくと思います。

多様性を尊重することは大事ですが、そもそも頭の中の多様性がなかったら尊重することができません。

世の中はグローバル化とか、ボーダレス化が進んでいますが、無批判にそいういものにみんなが向かっていくと、多様性が失われ、画一化を生む可能性があります。

だから時代の流れに翻弄されず、たとえ周りから古い考えと言われても、中には時代の方向とは線を引いて今までの自分を貫く人もいるべきだと思います。

とはいえ、もっと自分らしくありたいのに、仮面を被って生きている人は沢山いるんじゃないかなと思います。

でも、こいうことやったらだめなんじゃないかって決め付けているのは、実は周りじゃなくて人目を気にしている自分自身だったりします。

自分が美しいと思えば、今まで食べてはいけないと思っていたものも、食べてみてもいいんじゃないかなと思うんです。

それを言うのは簡単だけれど、自分の殻を破って新たな一歩を踏み出すために、自分で自分に魔法をかけてあげるのはとても勇気いる行為だと思います。

そこで、自分姿がそういうキッカケとして何か役に立てないかなと思いました。

ぼくの声は今はまだ遠くまで飛ぶ前に途中で弾けて消えてしまうような弱々しいもので、身近な人に届けるのが精一杯です。

だったら、自分のことを知らない人のいる場所に、自分の声が届く圏内まで自分から足を運んで近寄ってみばいいんじゃないかなと思いました。

女性アイドルもそうだし、ミスiDに挑戦したのもそういう理由があります。

アートやエンタメ、ファッションなど、そういうものには人の無意識に影響を与える力をもっています。

だからアイドル活動や、写真・映像制作はもちろん、それだけに限らずあの手この手といった方法を使って、もっと遠くまで飛ばせたらなと思っています。

"あの部屋"の中に入るために、自分が望まなければ今ある"赤い扉"や"青い扉"を使う必要なんてなくて、自分で新たに"白い扉"を1つ作ってそこから入ってもよいのかなということです。

それはミルクのような真っ白な色の扉です。

そんな真っ白な色の光は、プリズムを通せば、また鮮やかで多様な色を映し出すことだってできます。

単一の白色ではなく、あらゆる色とあらゆる可能性を含んでいる、そんな白です。

#ミスiD #ミスiD2019


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こんにちは、ぼくの名前は一条あおい。 「恥じらいレスキューJPN」という女性アイドルグループでメンバー唯一の男子として活動しているよ。 ぼくの心の中から零れ落ちた思いのしずく、それを記事にまとめるんだ。 文章を書くのはヘタッピだけど、一所懸命言葉を連ねるよ。 どうぞ、よろしくね。

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