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土下座する彼の背中越しに「誰よ、その女」とつぶやいた




二度目の「もう浮気はしません」の言葉を、わたしは1ミクロンも信じていなかった。


だってそうだろう、バンドマンとして夢を追いかける彼のためにぼろ雑巾のように働いて帰ってきた夜、同棲している部屋のベッドで見知らぬ女が裸にシーツで色っぽくしなを作っていたら誰だって「愛は死んだ」とシャウトしたくもなる。

彼は半裸にジーンズで自慢の腹筋を晒しながら「香奈ちゃーん」とわたしのではない女の名前を呼びながら部屋に入ってきた。どうやらまだ魔王が帰ってきたことに気が付いていないらしい、バカな男。そもそもわたしの帰宅時間なんて午後8時きっかりと決まっているのに、3歩あるけばすべて忘れてしまう鳥頭が羨ましくもあった。わたしもそんなふうに短絡的に生きられたらなぁ、とつぶやいたら彼は照れた顔で「そう?」と鼻の下をこするだろう。褒めてないっつーの。

愛憎の修羅場が完成して、彼は開き直るかと思ったら手に持っていたペットボトルを放り出して膝と手をついた。ジャパニーズ・土下座だ。隣の部屋に住むイタリア人に見せたらきっと喜ぶだろう。でもその前にわたしは「ペットボトルはきちんと蓋を閉めてから投げようね」と彼に教えなければいけなかった。おかげでお気に入りのソファはびしょびしょ、何万したと思ってんだと怒りのボルテージは上がるばかりだった。


「ごめん、美幸! もう浮気はしない! 二度としないから捨てないで!」


浮気心は一人前のくせに、プライドはまるでないのが久能忠敬という男だった。ちなみに彼の名前はかの有名な「伊能忠敬」と一字違いだが、東西南北も読めないドがつく方向音痴。一度目の浮気の時にスマホを洗濯機にかけたら、次の日にGoogleマップが使えなくて出演が決まっていたライブ会場にたどり着けずに半べそをかいていた。そのあとに仕方なく迎えに行ったのもわたしだけど。

人目を惹きすぎる顔面をふわっと緩めて「ありがとう」と微笑み、ライブハウスへと消えていった彼・タカちゃん。天使の微笑みに大ダメージを食らいながら、「これは絶対にまた浮気するな」と確信した。車の窓から見上げた小さなハコの中には、彼を目の保養としてやってくる女がさんまの小骨くらいいるのだ、頭も下半身もゆるいタカちゃんに抗えるはずがない。そう思っていたら案の定、予想した通り馬鹿正直に二度目がやってきた。



こうなった以上は将来も金も愛もない、顔だけの男にわたしの大事な婚期をくれてやるつもりはない。生ごみは黒い袋に入れて捨ててやる、とも思ったが最後くらいどうにか一泡吹かせてやりたかった。どんな美人が来ても使い物にならない類のトラウマを植え付けてやりたい。

タカちゃんの好みのタイプは把握している。少女っぽい童顔のくせにスタイルはボンっキュっボンっな茶髪ロングのゆふわちゃん。わたしとは正反対のタイプ、とまでは言わないが自分が彼のストライクゾーンから外れていることは知っていた。だがそれは浮気をしてもいい理由にはならない、目にもの見せてくれるわ。

わたしは次の日の仕事帰りにデパートに寄り、鼻息荒く高級化粧品を買い込んだ。上品顔の店員さんたちは若干引いていたが、男ひとりを地獄に落とすためなら白い目にも耐えられる。また次の日の帰りは駅前の若い子向けのショップに寄り、「可愛いは作れる!」と銘打たれたふりふりの服を買い込んだ。お洒落顔の店員さんたちはだいぶ引いていたが、男ひとりを再起不能にするためなら「若作りイタイ」と言われるのも耐えられる。

そしてタカちゃんが出払った週末、宅配便で茶髪ロングのウィッグが届いた。段ボール箱からはみ出た毛に宅配のイケメンのお兄さんは完全に引いていたが、男ひとりを叩きのめすためなら「婚期逃した女のひとり遊び」と言われるのも耐えらえる。いや、さすがにそれはふざけんなって言ったけど。


そうやって金にものを言わせて完成させたのが「あんずちゃん」だった。


あんずちゃんはわたしの思う「タカちゃんの理想の女の子」を詰め込みつつ、わたしという存在を修正液をぶちまけて消した唯一無二の存在。彼を落とすためだけに作り上げた、レベルカンスト級の最強の女だ。

もちろんバレるリスクはある。彼もアホじゃない、と言いたいところだけどこちらが食い気味に「人違いです!!!!!!」と言い続ければ、タカちゃんは生まれたての赤ん坊同然で信用するだろう。心が綺麗なんだか、頭空っぽなんだか判断が難しい。

完成すればあとは簡単、ライブを見に行ってハートマークを浮かべて「ファンです♡」と腰をくねらせればきっとやつは落ちるだろう。わたしは休日の真昼間から日常生活では手に取りもしない高級品とふりふりの服、まとまりのない茶色の毛玉に囲まれながらビールを煽った。



***



ことの進捗は上々だった。


わたしの思惑通り、ライブ終わりの物販で天使のような顔面を使ってCDを売りつけていたタカちゃんと接触することに成功。正しくは数多の女達を足蹴にする勢いで彼の前を陣取ったのだが。わたしは個性を完全に捨て去り「ずっと好きでした♡」とゆるふわを演じる。

何度か我に返ってしまいそうになったがここが正念場だと思い、血眼になりながら「大好きです♡」「最高でした♡」と畳み掛け、どうにか連絡先交換にまでこぎつけた。そして挨拶もそこそこに「また会いたいです♡」と無表情で打ち込み続け、一度目のデートの日取りが決まった。やはりあんずちゃんは最強だ。



そして来る出陣の日、お決まりのハチ公前で待ち合わせ。というかタカちゃんは方向音痴なのでまともにたどり着けるのがここしかなかった。わたしが時間の10分前に到着すると、タカちゃんはその30分後にやってきた。初デートくらい遅刻すんなやと思うが、あんずちゃんはそんなことは言わない。「会えて嬉しい♡」と茶髪をいじいじしながら伝える。

タカちゃんが選んでくれたアイスクリームに「嬉しい♡美味しい♡」と喜ぶ(ちなみにお金を出したのはわたし)。タカちゃんが見たいと言った映画に「センス良いね♡すごい♡」と褒める(ちなみにお金を出したのはわたし)。

そんなあんずちゃんに気を良くしたのか、彼も終始鼻の下を擦ってデレデレしていた。いやそうなってもらわなければ必死で目尻のシワを隠し、どこかに引っ掛けそうなほどフリルたっぷりな服を身に着け、怒りを笑顔に変えている意味がない。いつものわたしならもう30回はキレている。

そうして最後は渋谷駅近くの雰囲気の良いお店で食事をし(ちなみにお金を出したのはわたし)、いよいよホテルへとなだれ込むかと思われたが、その日は健全デートのままで終わった。あれほど気に入っていた様子だったからてっきりこのまま頂きますだと予想していたが、タカちゃんにもなけなしの良心というものはあるらしい。

もしかしてわたし(美幸)のことを想って…?と淡い期待を抱いたものの、一足遅く帰宅すると彼はお気に入りのソファに半裸でよだれを垂らして眠っていた。しかも廊下には点々と脱ぎ散らかした靴下とブランドTシャツが転がっている。この状態で「やっぱりお前だけ」とか言われても百年の恋も冷めるだろう。わたしはそっとエアコンの設定温度を3度下げ、どうかこのバカが風邪を引きますようにと祈りながら寝支度をした。



それにしても一回目のデートで種明かしができないとは誤算だった。タカちゃんの辞書に「我慢」なんて言葉はないし、そもそも「我慢」が読めるかも怪しい。どうせすぐに自らどん底へ落ちるだろうと思っていたが、さすがに甘かった。だが次こそは、と思って挑んだ二回目のデートで鼻をすするタカちゃんに「風邪だいじょうぶ? 早く元気になってね♡」囁き、一度目と同様にひたすらゆるふわを演じ続ける。

しかし反応は上々なものの、またもや健全デートのまま駅前で手を振って別れた。それが三回目、四回目と続く。おかしい、タカちゃんにとってあんずちゃんは完璧な女のはずなのに。たとえ近くにラブホがなくても、Googleマップで経路検索しながら女を誘える鋼のハートの持ち主なのに。

自宅でも完全に女に溺れたときの浮かれ方をしていて、あんずちゃんからのメッセージを見ては気持ち悪い顔でニマニマし、お風呂場で気持ちよさそうに大声で歌っては隣のイタリア人に怒鳴られていた。一応部屋の名義はわたしだからクレームが怖い、本当にやめてほしい。またお気に入りの高いギター(ちなみにわたしが買ってあげた)にもろくに触っていなかった。

これほど浮かれているくせに相手がわたしじゃないとすると、もしやこの男はあんずちゃんという完璧な女がいながら別の女にもうつつを抜かしているというのか。にわかには信じがたいけれど、その可能性も十分にありえる。絶賛三回目の浮気に直面しているわたしが言うのだから間違いない。

これは一度「あんずちゃん」という鉄壁の仮面を外し、新たに「探偵」の仮面をかぶる必要がある。



***



五度目のデートの朝、犯罪級に盛ったあんずちゃんのLINEアカウントから「ごめんなさい、急用ができちゃったの」と送り、予定をドタキャンした。他にも女がいるならタカちゃんはそれほど落ち込むこともないだろう。その反応を見て徐々に様子を探ろうと思ったら、タカちゃんは落ち込むどころか洗面台で髪の毛をいじりながら自作のラブソングを歌っている。

その後もあろうことか服選びにいつもの倍の時間をかけ、彼にしては珍しいカジュアルなスーツルックに決まったらしい。普段は偏差値3のところが、30くらいには見違えた。しかしそんなことは問題じゃない、これは明らかに誰かに会いに行くための装いだ。だってタカちゃんは基本的にいつだって自慢の筋肉を見せつけようとしてくるから、ぴったりめのTシャツや腕が出る袖丈のものを選ぶことが多かった。

同棲している彼女の家をルンルン気分であとにしたクソ男・タカちゃんを尾行する。ハンチング帽はないけれどサングラスにマスク、身体のシルエットが出にくいファッションに身を包み、一定の間隔を保って様子をうかがっていた。タカちゃんのことだから真後ろを歩いたところで気づかれはしないだろうが念には念を入れる。



彼はお得意のGoogleマップでどこかへ向かうかと思いきや、我が家から歩いて10分のコンビニへと消えていった。一緒に入るわけにもいかないので外で待っているが、待てど暮らせどタカちゃんは戻ってこない。コンビニで何をそんなに悩んでいるんだと思って遠目から店内を見渡すが、―――――――――いない。タカちゃんは煙のように忽然と姿を消していた!

まさか尾行がバレるなんて、と思ったところでタカちゃんが店の奥の扉から出てきた。スタッフ以外立ち入り禁止の札がかけられたドアがぱたんとしまったところで、彼は一緒に出てきた店長と思しき人物に頭を下げて店をあとにする。わたしは慌てて裏に隠れ、その背中を目で追いかける。

どういうことだ、まさか! タカちゃんを見失わないように気をつけながらコンビニの入口に貼ってあった張り紙を見る。そこにはゴシック体で「スタッフ募集中」の文字。まさか、タカちゃんがバイトの面接にいっていた、なんて。

わたしは彼を追いかけながらも、雷に打たれたような心地でいた。あのタカちゃんが、物覚えが悪くて客寄せパンダにしかならないタカちゃんが、お金の計算がこの世でもっとも不得手なタカちゃんが、「俺はバンドに生きる」と言いつつただ働きたくないだけのタカちゃんが、アルバイト。何が起こっているんだ。

混乱するわたしをよそに、タカちゃんは国道沿いを歩きながら誰かと電話をはじめる。声がとぎれとぎれにしか聞こえず、「…で、今日……ね」「俺、……でしょ」など肝心の話の内容がまったく聞き取れない。もどかしくなって少しずつ距離を詰めていったところ、ようやく彼の声がはっきりと聞き取れた。


「えっ、すぐ行くすぐ行く! 待っててね、あんずちゃん!」


そう言って電話を切った彼は急に進路を変更し、わたしの方へやってくる。やばいと思いつつも隠れるところもなくて立ち尽くした。目は合わない、それどころか爛々と輝いたタカちゃんの目はどこか遠くを見つめるように心ここにあらずだった。わたしの横をすり抜けて足早に目的地へ向かう。

行き先は間違いない。ハチ公前だ、と直感する。そもそも方向音痴の彼がGoogleマップを使わずに行けるところなんて他にないのだ。心臓が早鐘を打つのを聞きながら、足だけはムダに長いタカちゃんを必死で追いかける。



あれは本当に、わたしの知っているタカちゃんなんだろうか。着慣れないカジュアルスーツ、バッチリ決めた髪型、他人を待たせてもなんとも思わないはずなのにやたらと早る足。彼はいつからこんなに変わってしまったのかと考えて、そういえばあんずちゃんとの二回目のデート以降は食事代も映画代もきちんと割り勘だったことをぼんやり思い出した。


「あんずちゃん!」


ハチ公前につく。タカちゃんは子供みたいに大きく手を振り、駆け寄る。そこにいたのは控えめに小さく手を振る、見知った女。

高級化粧品で完璧に作り上げた顔面、若者向けのショップで買ったふりふりのワンピース、ボリューミーな長い茶髪。まさしく、わたしが完成させたあんずちゃんだった。

ふたりが何かを話している。わたしはスマホを取り出してあんずちゃんのLINEアカウントに入ろうとしたが、なぜかエラーメッセージが出るばかり。どうやってもハートマークを多用してタカちゃんに送ったLINEのトーク画面が表示されない。

わたしは無意識のうちにふらふらとふたりに吸い寄せられ、タカちゃんの背後に立ってあんずちゃんを見つめる。どう見ても完璧な女。わたしが作り上げた、レベルカンスト級の―――――、


「あの、」


あんずちゃんの困った顔に気がついたのか、タカちゃんが振り返る。訝しげにわたしを見る視線にマスクとサングラスを外すと、さすがに自分が寄生している女だとわかったらしい。愛憎の修羅場が完成して、彼は開き直るかと思ったら膝と手をついた。ジャパニーズ・土下座だ。道行く観光客らしい外国人が手を叩いて喜んでいる。でもその前にわたしは目の前の事態がよく理解できていなかった。


「ごめん、美幸! 俺、彼女のことが、あんずちゃんのことが好きなんだ! 彼女と一緒になりたいんだ、そのためにバイトの面接にも行ってきたし、バンドもやめた! 美幸には本当に悪いと思ってるんだけど、」


「ねぇ、」


タカちゃんは必死で謝っているけど、わたしの目はどうしても後ろのあんずちゃんに吸い寄せられてしまう。わたしが作り上げたはずの、作り物の完璧な女。しかしそれが今目の前に立っていて、怯えるような、タカちゃんの発言を喜ぶような、そんな複雑な表情が貼り付いている。

―――――――こんな顔、わたしにはできない。わたしだったらきっと見えないところでほくそ笑み、「作戦成功」とつぶやくだろう。そんなのは「あんずちゃん」じゃない。

まさにタカちゃんの理想の、女の子。わたしとは正反対のタイプ。だがつぶやかずにはいられなかった。



「誰よ、その女」







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