セクハラを会社で報告したら、つながった勇気のこと
「言わなければよかった」
"大丈夫"の境目がわからない。
つらく、苦しいことを体と心の中で馴染ませ、ごまかしている。いつまで経っても報連相がうまくできないわたしは、涙と手を繋ぎながら話している。誰かに寄り掛かってばかりだから、自分を"負担"と捉えてしまうのかもしれない。
頼ってもいいのかな。
頼ったら、迷惑なのかな。
聞きたくなかった言葉ほど、ぬるい風にのって律儀に届く。昔勤めていた会社で、わたしは疲弊していた。仕事に埋もれ、責任やプレッシャーにも押し潰されそうになっていた頃、上司はわたしの肩にやさしく手を乗せ、「いつでも相談乗るぞ」と言ってくれた。
目からこぼれる水滴が止まらなかった。後日、その上司へわたしは泣きながら相談をした。けれど、もうすでに"姿"を変えていた。席を途中で外し、「また今度聞くよ」と言われる。遠くの方から誰かとの話し声が聞こえてきた。「余計な仕事増やしやがって」と。いまもそれが、頭の中の一番取りづらい場所にこびりついている。
いい上司って、なんなのだろう。
いい部下って、なんなのだろう。
いい人って、なんなのだろう。
そんなことは考えずに、生きていけばいいのだろうか。小石を蹴飛ばしながら、痛む内臓を触れられない。嘔吐を足跡にはせず、澄んだ小鳥と飛んでいきたかった。
◇
「あなたを何と呼べばいいかわかりません」
頭から冷水をかけられたかのように、立ち竦む。
いままで呼んでくれていたのだから、それでよかったのに。「いちとせさん、これをやっといてほしい」と頼まれれば、わたしは喜んで仕事をするのに。この仕事が好きだから、ここにいたかったのに。自分が思っていたよりもわたしは手前で躓いているようで、それがひたすら、哀しかった。
清々しいほど誰とも職場で話せなくなった。家に帰れば、わたしには愛する人がいるというのに、それで"帳消し"にはならない。
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「どうでしたか今日は」
そういう聞き方はしてこない。
恋人の彼と、わたしは一つ屋根の下で暮らしている。彼は機微を掬いすぎてしまうから、外でつらいことがあっても、わたしは笑顔を作って帰宅していた。
「限界」の中を、わたしは息継ぎもせず泳ぎ、潜りすぎてしまう。溺れてもなお、それに気づかない。他の誰かが同じ姿をしていたとしたら、危ないのはわかるのに、自分自身に迫っている大きな波に対して叫べない。弱い自覚があるからこそ、甘えになってしまう気がした。
先月、とあるきっかけでわたしに恋人がいるのが職場で広まった。
わたしは、チェーンの飲食店で働いている。
朝から店でいつも通り仕事をしていたら、12時頃、電話がきた日があった。
「いちとせさん、なんか鳴ってますけど」
たまたま休憩中だった、近くにいた従業員がわたしのスマホを持ってやってくる。"予感"がしたので、そのまま休憩に入ったわたしはそれに出た。
救急隊の人からだった。
「あなたのパートナーの方がパニック発作で搬送されます。〇〇病院に来れますか?」
確か、こんな台詞だった気がする。
元々彼にそんな"予兆"はなかった。その瞬間、気づけなかった自分を悔やんではいたが、それよりも先に、一刻も早く彼の元へ駆けつけたかった。そんなわたしは同じ時間帯の従業員全員に伝える。
「ごめんなさい。恋人が倒れたので、病院にいかせてください」
店を勢いよく飛び出し、向かった。
幸い、入院しなければいけないほどではなかった。そこから職場で、わたしへの扱いが変わる。後日、「彼女いたんですね」と聞かれすぎたわたしは、ついむきになり、「男の恋人がいます」と答えてしまった。
なにも間違っていないのに、"答えてしまった"と、思ってしまった。
あえて「マイノリティ」という言葉を使うのであれば、マイノリティを盾に優位に立ちたかったわけではないし、"男の恋人がいる男のわたし"を持て囃してほしかったわけでもない。恋人の家族として、働く場所で胸を張りたかった。
ただ、この想いはうまくいかなかった。
"ゲイ"と名前がつけられ、周りの従業員から無視されるようになってしまったのだ。挨拶すら、返ってこない。インカムをつけて仕事をしているのだが、誰もわたしの返事をしない。しまいには、聞きたくもない言葉が流れてくる。
「ゲイの人、邪魔なんですけど」
「ゲイが男の客と話してる」
「ゲイに好かれたら怖いね」
「ゲイだと思ったら、なんかキモチわるい」
「女々しい」
「男なのに力がない」
全員に言われていたわけではない。ひとり、猛烈にわたしを口撃する人がいた。だからか、周りの人もわたしを遠ざけるようになり、どちらの味方につくか、それを考えれば口撃している方につくのが自然で、安全なのだろう。
言い返せなかった。
わたしが全て飲み込めばよかったのか。気にしないように、気にしないように、と。そう繰り返していたら、作った笑顔が取れなくなってしまった。哀しいのに、それを言えない。ただ本音は、愛する人がいるだけでこんなことになるとは思っていなかった。これもわたしの日頃の行いが、何かわるかったのだろうかと、ひとりでぐるぐると考える。波というよりは、渦に引き込まれていた。
◇
そんなわたしは、決断をしていた。
知っている人も多いかもしれないが、2020年6月から「パワハラ防止法」ともいわれる労働施策総合推進法が改正されていた。企業には、ハラスメントに関する相談に対応する義務が生まれていたのだ。当然、うちにもそれがある。
いままでのわたしであれば、自分が我慢をすればそれでいいと思っていただろう。誰かを頼るのを怖がっていたわたしは、逃げるようにして店を辞めていただろう。ただ今回は、違う。
「愛する人を守りたい」
その想いが上回った。実際は自分を守る行為だとしても、わたしは"誰かのために"声を出す、そう思えれば踏み出せる人間だったのかもしれない。愛する彼を、これから先も愛するために、立ち向かおうとした。
ハラスメント相談窓口と呼ばれる場所(本社)へ、報告のメールを先週送っていた。それから起きたことをここから先、書き記していこうと思う。
◇
メールを送った後、わたしが出勤した日、店長と久しぶりに会った。そもそもうちの店にはあまり店長が来ない。他の業務が忙しいらしく、そのあたりはわたしもよくわかっていない。
「いちとせさん、今日はわたしと少し話そうか」
事務所の奥の方でふたり。誰にも聞かれない場所。順を追って、丁寧にわたしは説明をした。関わった人、交わした言葉。それを話している途中、泣き虫のわたしは泣いてしまいそうで、けれど、泣かなかった。「変わるんだ」。そう何度も思い、決壊してしまいそうな瞬間、彼の表情が助けてくれたりもした。「大丈夫ですよ」と。愛する人からもらう"大丈夫"は、絶対に大丈夫だった。世の中にはないはずの、「絶対」がそこにあった。
一通り伝えきった後、落ち着いて深呼吸をする。そして、心のどこかで店長なら味方をしてくれると思っていた。けれどそこから、わたしの想像を越えた言葉が耳に届く。
「ゲイと呼ばれるのが、いやってこと?」
——違和感が通り過ぎる。
わたしの説明の仕方がわるかったのかもしれない。そして自分が、悩んでいるものを見失いそうになる。現場と、話を聞くのでは、差がありすぎてしまうのかもしれない。
「あのわたし、ゲイなわけではないんです」
「ゲイ」も「人」も、等しく尊重される。
わたしは、彼のことが好き。それだけだった。こうして"違う"と言うことも、わたしは誰かを傷つけている気がする。自分を同性愛者だとわたしは思っていない。これは思っている人を否定しているわけではない。わたしにとっての"大事な心"だった。
そもそもわたしがゲイだとしても、それが揶揄の材料になっている現状を悩んでいた。それをどうにか目の前の人に伝えよう、そう思った瞬間、次の言葉が飛んでくる。
「じゃあ、なんて呼んだらいいんだろう」
出かかっていた雫が、一滴、落ちてしまった。
店長は恐らく、本社に報告する用の資料にメモをとっていた。だから、聞いてきたのだろう。きっと、名前がついていた方が簡単だから。
どこへ歩いても壁にぶつかって、「言わなければよかった」が時々顔を出す。感情が混ざる、それだけで機械的な爆発が起きそうだった。さっき"いちとせさん"って、呼んでくれたのに。それで、よかったのに。わたしは、わたしの名前で呼んでほしかった。わたしが、わたしで働きたかった。
◇
そこから、わたしはもう一度、ハラスメント相談窓口にメールを送った。"店長の名前"を出して、送った。もしかすると評価にかかわる行動をわたしがしてしまったかもしれない。
でも、守りたかった。
理不尽に慣れたくない。
自分が自分らしく生きることを諦めたくなかった。
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「いちとせさん、初めまして」
送った数日後、今度は本社の人が店に来た。柔らかい表情をしている、40歳くらいの男性だった。
また、わたしたちはふたりきりになれる事務所の奥へ入る。そこで、本社の人が頭を下げてきた。
「いちとせさん、申し訳ない。もっとわたしが早く店に足を運べればよかった。いちとせさん、ずっと、あなたがあなたらしく働けるよう、わたしがサポートします」
初対面の人に、まっすぐ瞳を向けてもらえる。どこか恋人の彼の表情と重なり、我慢することを忘れたわたしは声を出さずに泣いてしまった。なにが正しいのか、結局うまく整理できない自分を悔やみながら、「ここまで声を出してよかった」と思う。
店長にした説明とほとんど同じことを言った。
今度はそれが、きちんと伝わった気がした。
自分が悩んでいる色が薄まることなく、本社の人は包んでくれた。具体的にそこから話が進み、わたしとかかわった人はまた個別で面談があったらしく、口撃してきた人とはシフトは被らないようになり、わたしの希望シフトが優先されるようになった。そして店長は、わたしの「声」のせいだったのだろうか。異動になった。
最後の事実だけは、とても怖かった。
全員で笑顔になろう、と、それを実現することが難しいのはわかっている。わかっていても、全員で笑顔になるのをわたしは望んでいたのだと思う。誰のことも傷つけたくなかった。結果的に、わたしが声を上げ、わたしだけが働きやすい場所を作ってしまったのではないかと嘆く。そんな日々を送っていたら、日をあけて、同じ本社の人が店に来てくれた。
「いちとせさんにどうしても伝えたいことがあって」
いい報告だとは思えなかった。言いたい放題言ってしまった。心の中で何度も頭を下げる。「ごめんなさい、ごめんなさい」と。ただ、ゆっくりと口を動かしながら、本社の人は話す。
「実は、いちとせさんがメールを送ってくれて、それを全国の店長に共有したんです。内容は伏せていますが、『声』があったことを伝えたんです。そしたらそこから、それぞれの店から新しく『声』が届くようになったんです。きっと、つらかったことをつらいまま抱えていた人が沢山いて、そこで勇気を持ったんだと思います。『言っていいんだ』って。6月から窓口を設置しましたが一番最初のメールは、いちとせさんでした。わたしの"大切な仕事"が増えたんです。だから、ありがとう。いちとせさんの勇気がこの会社を、店を変えていますよ」
言葉を聞いて、これは涙を我慢する必要がないと思った。とめどなくあふれ、ただそれに痛みはなかった。ずっとわたしは自分がしたことが、また誰かを壊すことに繋がっているのではないかと思っていた。ここでこんなことを言っても説得力がないかもしれないが、わたしは誰かに仕返しをしたかったわけではない。自分で自分を尊重する選択をしたかった。そして、相手を傷つける意思を持った人が、少しでも薄まってほしかった。
◇
「おかえりなさい」
瑞々しく滴る心を持って、家に帰り、愛する人がいつものように迎えてくれた。彼はきっとわたしのことなら何でもわかる人なのかもしれない。下手くそに笑顔をその日も作っていたはずなのに、彼は言った。
「僕の前では、作らないでください」
頬を撫でながら、まっすぐな瞳で言うから、わたしはまた目一杯泣いていた。彼を愛し、ここまで生きた自分を抱きしめるようにして、彼の体を包んだ。とても怖い数日間だった。わたしの力は相変わらず小さいけれど、"ない"わけではない。これから先、より人が自分らしく生き、うちの会社にかぎらず、働きやすくなればと思う。
想いは、届く。わたしは、心の底から泣き笑う。
わたし、言ってよかった。
書き続ける勇気になっています。