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読んだ本で、ゆく年くる年。

2019年の読書日記をまとめてみました。

今年も雑多な読書だったなぁと思うけど、そのとき自分に必要な本を毎回手にとるので、なるほどこんな一年だったんだなあという発見が。

チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』

吐くかと思った。読むのが辛かった。

文芸書として開いたけど、まるでフィクションの体をしたデータブックか、白書か、告発書のよう。(その戦略的な体裁もふくめて文学的)

82年生まれの韓国人女性・ジヨン氏は作中で33歳。わたしは84年生まれ34歳だから、同世代でほぼ同い年である。読みながら沢山のことを思い出した。わたしが育った環境は、80年代、90年代の韓国よりは幾分か男女平等に感じられたけど……それはたいした問題じゃない。

かつて結婚相手の親族に「貴女もはやくお義母さんの玩具を産んであげなさい」と言われたことを思い出した。それをヘラヘラ笑って流した前夫に泣きながら抗議したことも思いだした。友人が結婚相手とその家族のことで泣き崩れていたことも思い出した。

同時に自分が滑らかに生きるためにとってきた態度とか、甘やかして許してきたこととか、女友達に言われたこととか、逆に男性という立場にバイアスをかけてやり返してきたことも次々と湧いてきた。

本当に吐きそうなほど現実だ。物語の構造的に「ひとつずつ思い出す」よう仕掛けてあるのも巧妙。

人生はままならないものです。正直、面白いけど、読んでいて落ち込みました。最後の一行も絶望的でパンチが効いてる。でも色んな人が読んで、話し合えばいいと思う。この溝はそうそう埋まらないだろうけれど。そういう一冊。(2月6日)


ゴッデン/W・P・デュボア『ねずみ女房』+河合隼雄『こころの読書教室』


「かずえちゃんに絶っ対、読んで欲しいの」と、友人から猛烈にお薦めされ、手にした『ねずみ女房』。

こども向けの絵本で渋いタイトルだな……と思ったら、とんでもない一冊でした。これ大人向けなんじゃ。

衣食住満ち足りていても、家族がいても、日々が忙しくても、「わたしの知らない世界がある」ことに気持ちをソワソワさせ、触れてみたいと身を焦がす雌ねずみ(既婚)の物語。生きるってなんだろうか。役割ってなんだろうかと考え込んでしまう一冊。お薦めしてきた友は、相変わらず鋭いなぁ、なんで今必要なことばを正確に見抜くかなぁと震えました。

そして、この絵本が紹介されていたというのが『こころの読書教室』。臨床心理学者で文化庁長官もつとめた河合さんの解説では、『ねずみ女房』が扱う主題を「魂に対する希求」と表現されています。

心理学という分野に、なぜか昔から抵抗があったのですが、30代も半ばになって、折り合いのつかない物事と付き合う日々を送っていると、ぴたりと当てはまる事例ばかり思い出されて……降参! という感じ。上手。

紹介されている様々な物語の構造やひだから、人のこころとは何か、なぜ他者と関わるのか、ということに思い巡らすことが出来る一冊。

ややこしい人間界を生きるもやもやが解消されるわけではないけれど、もやもやが何処から来るのかは目星がつく感じがします。面白かった。(でも重すぎて読後しばらく感想が出てこなかった)(3月21日)


佐藤信夫『レトリック感覚』

「森羅万象のうち、じつは本名をもたないもののほうがはるかに多く、辞書にのっている単語を辞書の意味どおりに使っただけでは、たかの知れた自分ひとりの気もちを正直に記述することすらできはしない、というわかりきった事実を、私たちはいったい、どうして忘れられたのだろう。本当は、人を言い負かすためだけではなく、ことばを飾るためでもなく、私たちの認識をできるだけありのままに表現するためにこそレトリックの技術が必要だったのに。
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ときどき、流れ弾のようなことばにあたって具合が悪くなることがある。そういうときには案外、ことばに関する本を読むといい。と、最近気づいた。
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何年も前、当時の同僚に勧められた佐藤信夫さんの『レトリック感覚』はそんな一冊。たぶん今回で読むのは3回目。引用される文学がどれも興味深くて、毎回途中からそちらに浮気してしまうんだけども。
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論旨も面白いけれど、佐藤さんの文体がそもそも軽妙で気持ちいい。(3月24日)

島田潤一郎『90年代の若者たち』

連休中、家が映画学校の学生たちの撮影所になっていて気が休まらないという妙な事情で、毎日かなり早起きして夜遅くまで放浪しています。

きょうはまず、西荻窪の雑貨店「FALL」へ。夏葉社の島田潤一郎さんが青春とその時代を振り返ったエッセイ『90年代の若者たち』を新レーベルで出したと聞いて、買いに向かいました。(わたしは今、ひとのエッセイに飢えている! 昨日は色々縁あって、こだまさんの『夫の〜(※以下略)』を一気読みしました)

レジに本を持ち込むと、店主の三品さんがにやりと笑って問うてきました。「中田さん、今うちの棚にはかっこいい90年代の本と、かっこ悪い90年代の本があって、この本はかっこ悪い方だけどいいんですね?」と。

怯えつつうなずいたわたしに「こっちがあなたの90年代って感じがしたんですね?」と念を押された一冊を持って、その次は三鷹へ。(三品さんのそういう感じが癖になるので、なんかたまに浴びたくなり、中央線に用のある日はついFALLに寄ってしまう)

カフェで一気読みして、なるほどと思いました。あぁ、ぎゅっとしてます。いろいろな「かっこ悪さ」が。

そもそもわたしが他の書籍で読んだ島田さんの文章ともかなり違う気がする。文の構成までもやっとして、行き来する90年代の若者感。というか、男の子感。なるほど。知らない感じがした!(でもなんかわざと、かっこいいところを抜いてる気もするな)

わたしにとって90年代といえば、立川で開催された博覧会の大失敗と、24時間テレビのTシャツを着たいじめっ子、同い年がヘソを出して歌い上げるSPEEDの登場、親に野島伸司のドラマは見るなと言われたこと…などです。それにしても本の冒頭で、このあいだ今更読んだ『五体不満足』のあのシーンが出てきてびっくり。島田さん、乙武さんのバスケ試合の相手方だったのか……!

と、散漫な感じで一日が終わるのもまたよし。久しぶりにちゃんと歩いた西荻窪は、なんだか街の端までずいぶん洗練されてて、それこそ90年代に父のお店を手伝いに行った頃とは別の様相でした。(5月2日)

鹿子裕文『へろへろ-雑誌『ヨレヨレ』と「宅老所よりあい」の人々』

物々交換でいただいた本を開封して二日、一気読み。最初の数ページですっかりやられてしまった。

面白すぎる。出来事やモチーフがユニークなだけじゃない、文章が上手なだけじゃない、本当に腹から出ている言葉だから面白い。ちゃんと生きてちゃんと転げてちゃんと感知して、そういう体重が全部乗っかっている本だった。あぁ羨ましい。わたしも死ぬまでにこのぐらい体重が乗ったテキストを書いて、人を笑わせて終わりたい。そのためにはまず、ちゃんと生きることだ。と、思った。(5月20日)

あだち麗三郎『野良犬たちはみな踊る キューバ旅行記』

鳥取の書店「汽水空港」でパラパラしてて気になって買った一冊。

⒈ひとの旅行記はそれだけでもかなり面白い。
⒉音楽家が旅先の音を描写することばが良い。
⒊娼館のくだりをあんなに素朴に正直に(そして乙女チックに)描写するあだちさんて実際どんなひとなんだろう。
⒋旅の末に生まれた楽曲「野良犬たちはみな踊る」が予想外に可愛い一曲でびっくり。
5.コード譜?もついてます。(6月25日)

朴沙羅『家(チベ)の歴史を書く』

「私は彼らの人生を丸ごと扱えるような、適切な先行研究を見つけられなかったし、そんなものがあるとも思えなかった。ただ記述し記録する以外に、彼らの話を扱う方法はないと思った

読書家の友人に勧められ、朴沙羅『家(チベ)の歴史を書く』(筑摩書房)を手に取った。面白くて面白くてあっという間に読んだ。

本書は、社会歴史学者・朴さんによる「論文にできない面白い家族の話」についての正直な吐露から始まる。在日コリアン3世である朴さんは、済州島出身の祖父母や叔父叔母が日本に渡り、逞しく生きてきた「話」を「面白い」と感じ、インタビューを試みるが、その「語り」を社会学や歴史学の研究に落とすプロセスで苦しむ。

…というイントロダクションが、まず丁寧で面白い。そしてその後に続く、四人の親族の「語り」の章はなお興味深い。

大文字の歴史を追おうとするとこぼれ落ちてしまうような微細な記録。客観的な「つらさ」と主観的な「つらさ」のギャップ。例えば、済州四・三事件の虐殺や、日本への密航、過酷な労働などの歴史的事件に触れてきただろう伯母が何よりも「つらい」と語るのは、「字がわからん」ことだったりする。(でもわたしもこの点にもっとも驚き、そして胸がしめつけられた)

歴史と個人の記憶の境を行き来し、語りと史料を編み集め、迷いを打ち明けつつ、まとめきることなくまとめる。そのことによって「余白」に宿る魅力と、重要性を浮き彫りにする。とんでもなく難しいことを、とんでもなく軽やかな筆力でやり遂げた一冊。面白かった。

語ること、残すことを気軽に扱いがちな職業で生きているので、こういう一冊に出会えると身が引き締まる思いがする。ありがたい。そして、朴さんが同い年とのことで、いつかどこかで直接お話を聞いてみたいと思った。(7月21日)

バラージュ ベーラ『ほんとうの空色』

カルマール・フェルコーがはじめて長ズボンをはき、みじかい子どものズボンと永久にわかれをつげたのは、その日曜日の午後のことでした

予備校時代の恩師で、映像作家の鷺山啓輔さんから『ほんとうの空色』が届いた。『家を継ぎ接ぐ』との物々交換で。映像作品のような童話だなぁと思っていたら、ハンガリーの映画監督が書いたものみたい。

思いがけないものに出会うのがまた楽しい。(7月13日)

窪美澄『トリニティ』

緻密で面白くはあったけど、しんどいな、辛いな、と、何度か休憩を挟みながら読んだ。

戦後に生まれ、学生運動を横目に過ごし、高度経済成長期の日本で「新しい女性像」にある種呪われた三人の女性の物語。

世代は違えど、フリーランスでの不安、歳を重ねることの重み、家族も生き方もこれでよかったのだろうかと手を見てしまう感じ……は、あまりに生々しくて、わたしにはちょっとしんどい。冒頭が孤独な死や、寂しい老後のシーンから入ったのも辛かった。(8月30日)

今村夏子『こちらあみ子』


雑誌で写真家の植村一子さんがオススメしているのを見かけ、気軽に買った。ところがとんだ物語だった。

どこか既視感のある優しい文体なのに、おさめられた三編はどれも頭がぐらぐらするほどえぐみが強い。どう消化していいかわからない。美談でもないし、暗さを暴く話でもない。

明るくておかしみがあって微妙にズレていて不思議で、そしてどうしようもなく悲しい感じがする。はみ出し者たちが真顔でこちらを見ている感じがする。表題作「こちらあみ子」で、「好きじゃ」と「殺す」が交互の掛け合いになるくだり、告白された作中の男子より先に自分が狂気に落ちるかと思った。

読み終わり戸惑うわたしに、二人の豪華な解説者が、巻末で的確な言葉を与えてくれた。

一途に愛する者は、この世に居場所がない人間でなければならないのである」(町田康)

皆と同じように生きられない魂が、皆と同じ生身で生きようとする時、世界は地獄に変わるんじゃないか」(穂村弘)

凄かった。読んで良かったが、わずかに後悔した。(8月30日)

ミランダ・ジュライ『最初の悪い男』


わたしの読書週間のチョイスがおかしいのではないか。食べ合わせ的に胃もたれしそう。と、冒頭数ページをめくって気づいた。が、手遅れだった。

女主人公の過剰な内面と淡々した日常が、年の離れた若い女性と暮らすうちにどんどん狂っていく。

内面と日常の双方が混乱のピークに上り詰めたと思ったら、今度は日常が異常な展開を見せ、主人公は逆に冷静かつ人間的になっていく。その間、主人公の視点でしか世界を歩けない、読者としての「わたし」は何も信じられなくなって、世界不信を重ねていくしかない。しかもそれは解消されない。

人と人の関係が虹色に変化し、粗筋が何回も山場を迎え、「やばい」がどんどん更新されてく。けど登場人物はみんなそれぞれに真剣だ。可笑しくて、哀しい。突飛。だからこそ人の世のリアリティが迫ってくる。

パンチラインだらけの小説だけども、中でもこのフレーズがすきだった。

でも神々なんて本当はいない。呪いを解くたった一つの方法は、呪いを解くことだ」(8月30日)

ヴィクトール・フランクル『夜と霧 新版』

運命に感謝しています。だってわたしをこんなひどい目にあわせてくれたんですもの

ヴィクトール・フランクル『夜と霧 新版』(池田香代子訳)を読んだ。

ここのところ何度も読み返している講座形式のテキストがあって。その中で「フランクルの説く〈態度価値〉の創造/提示こそ文学の役割だ」という一節がとても心に残り、そうだ『夜と霧』を読んだことないぞと新訳版を手にしてみた。

精神科医/心理学者のフランクルは、ユダヤ人であったために第二次世界大戦でアウシュビッツに連なる強制収容所へと送られる。『夜と霧』は、その過酷な日々の中で、人間性を失う人と、深める人の双方の姿を見つめ、人間とは何か……を考察する手記だ。

戦後間も無く出版され、世界的な大ベストセラーになったのち、世界情勢を踏まえてフランクル自身が加筆や修正を重ね、再度出版された1977年の新版。それを池田香代子さんが日本語に翻訳したのがこの一冊。

一人称で綴られる瑞々しい文体は、強制収容所という遠い出来事を、「誰にでも起こりうる人生の苦しみ」に引き寄せてくれる。

フランクルが説いた「人生価値」は、〈創造価値〉〈体験価値〉〈態度価値〉の三つ。特に態度価値は、創ること、体験することが叶わないような状況でも、運命をどう受けとめるか、どう振る舞うかということが自ら発揮しうる価値(≒精神の自由)であるという考え方だ。(要約ずれてたらごめんなさい)

この考え方には、とても励まされる。生きてる意味というのは刻一刻変わるもの。「生」にどんな意味があるかを問うのではなく、どんな意味があるのかを自ら態度で「生」に対して示すことが大切、というくだりで泣きそうになった。その視点の転換は、一人ひとり異なる条件で人生を歩むしかないわたし達の足元を照らしてくれるものだから。

「わたしたちはおそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった『人間』を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはつねになにかを決定する存在だ。人間とはガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ

(フランクル自身は、収容者と被収容者、あるいは“迫害”した側とされた側に線を引かず、あくまで一人ひとりの態度によって、人間性によって、堕落するかどうかが決まる、と言っているところも忘れないようにしたい。この本から現在を照らすときに。)(10月14日)

雑誌『ヨレヨレ』

「いびつで、バランスを欠いていて、ねじれていて、やりたい放題でーー僕は少しぞっとしてしまった。なんのことはない、自分が本当におもしろいと思う話だけを取り上げて、一人で悪戦苦闘しながら黙々と作ったら、自分という人間にそっくりな雑誌が姿を現し始めたのだ。これは大変なことになった」(鹿子裕文『へろへろーー雑誌『ヨレヨレ』と「宅老所よりあい」の人々』)

書籍『へろへろ』を読んだときから、いつか読みたいと思っていた雑誌『ヨレヨレ』(4号で休刊)をついに手に入れた。きのう、武蔵野プレイスで開かれたトークイベントで。

ゲストは、この雑誌をつくったフリーの編集者で『へろへろ』の著者・鹿子裕文さん。と、「宅老所よりあい」を福岡で立ち上げ、さらに老人ホームをつくるために億単位の資金調達に奔走した元代表の下村恵美子さん。

本で読んでいた通りかそれ以上に、キャラの濃いお二人のトークにお腹を抱えて笑いつつ、老いや介護の現場を想像して胃がきゅっとなった。これだけは、どうしても、逃れようもなく、降ってくる問題だ。

仮装して歌いながら登場した下村さんが、質疑応答ですっと前を見て、言っていたことが忘れられない。全国の宅老所の先駆け、「よりあい」の創始者として一番伝えたいことだったんだろうなと想像しながら。

「“素敵な楽園”をつくろうとすると間違います。よりあいは、マシな場であっても、素敵な場ではありません。お年寄りは本来みんな、施設なんて来たくないし、いたくない。家に帰りたくて当たり前なんです。だからお年寄りが嫌がることをしないだけ。でも、やはりそれは本当に、“よりマシな場”でしかないんです」(10月23日)

佐藤信夫『レトリック認識』

「だまる、ということもまた重要であった。無論、それは修辞だけのことではない、もともと、語ることと同様に、語らぬこともまた、言語活動をなりたたせる本質的な因子なのである」(「第1章 黙説あるいは中断」)

佐藤信夫『レトリック認識』を読み始めた。そして「転喩あるいは側写」の第3章で挫折した(はやい)。

わたしは本当に遅読で、特に調べながら読む本が気が散ってしまって苦手で。前作『レトリック感覚』も間を開けて3回ぐらい挑戦してようやく読了。

それでもこの、「辞書どおりの意味のやりとりだけでは、伝えたいことが伝わらない」という、ことばの根本に向き合い続けるシリーズが面白くて(なんて書くのも恐れ多い名著ですが…)、やっぱり開いてみたくなる。あと著者の表現がいちいち美しすぎてしびれる。『認識』もまたゆっくり読み進めていこう。

「しかし考えてみれば、すべての単語は「常套句」であり、他者たちの使いふるしである。私たちは日記すら、常套語を工面しながら、他者のことばを引用するようにしか、書くことができない。しかし、それはかならずしも残念な、情けないことではあるまい。それは、私たちがある文化の中に生きているということにほかならず、そして、おそらく、人間として生きているということにひとしいのだ。母言語は私たちに(けっして悪い意味ではなく)甘えることを許してくれる、自分の中の他者である」(「第2章 ためらい」)(10月27日)

笹井宏之『えーえんとくちから』

“えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい”

世界に慣れず、世界を呪わず。そのあわいを揺れながら紡がれたような歌集(短歌の他に、手記、俳句も少し)。

気になる歌に印をつけていたら、印だらけになってしまった。「夭折の歌人」と枕に来ると、まるで昔の人のようだけど、ほぼ同世代だ。闘病をへて、若くして亡くなって、笹井さんの永遠は解けたのだろうか、解けたのだろうか。(12月20日)

同人誌 『USO うそ』

“嘘の奥には、本当の顔が眠っています。”

文学フリマで出会った小さな本『USO(うそ)』。知っている人が文を寄せているからと手にし、なんだかすごい一冊を買ったのだと後から気付いた。

エッセイ執筆者として名を連ねている人のほとんどは編集者。名前を聞いた(見た)ことがある人も多い。

そんな執筆者が皆、「嘘」について書いている。エッセイは個人の体験を綴るもの…という前提で読み進めるが、本のタイトルがタイトルだけに、もしかした嘘かもしれない、と、怪しみつつ。

そして実際、「嘘でしょ」という話が続く。家族の自殺に因縁のある本の版元に就職するひと、特殊かつ過酷な一家に預けられ育ったひと、友人の嘘をめぐって教師との攻防を味わったひと、とある音楽家が亡くなった夜にはちゃめちゃな出来事を巻き起こしていたひと。

人生はときどき、嘘のような出来事に満ちているし、体験したことの真偽は本人にすらわからないこともある。そして言葉にした時点で、出来事は「エピソード」という塊になり、フィクションの色合いを帯びて転がり出す。

どの文章もあまりに上手で、面白かった。ほかのテキストももっと読みたい!と思うけど、同時に、これが同人誌として出された意味もよくわかる(気がする)。面白かった。『へろへろ』に次ぐ、今年の読んで良かった本。(12月20日)

千葉雅也『勉強の哲学』

勉強とは、喪失すること。別のノリへの引っ越し。二つのコードの間で板挟みになること。

千葉雅也『勉強の哲学』を読んだ。一週間でふたりにおすすめいただいたので、パッと手に取り、開いたら面白くてあっという間だった。

「勉強の哲学」をしているのか、「哲学の勉強」をしているのかわからぬうちに辿り着く、本質的な勉強入門。

今までぼんやりと「勉強が下手」という自覚があったのだけど、それがなぜなのか、ものすごくよくわかった気がする。(※ここでの勉強とは、「試験勉強」的な勉強ではなく、「学問的探究」のこと)

いつも興味関心が散っていて、話題が拡散気味になりがちな自分。無自覚な「コード変換(連想、ユーモア)」を繰り返し、終わりがない意味飽和の状態(ナンセンス)へ突入しているのだ…と理解すれば、納得がいく。体系化や地図を描くことが苦手なのは自覚してたけど、根っこは連想癖だったのか。

同時に、個人的にはコンプレックスに感じていたことが悪いことでもないと希望をもらう。こだわりを起点に考えることであったり、やりきれず中断することだったり、決めきれないことであったり。

それらへの対峙の仕方から、具体的な勉強そのものの手順まであって、学生の時に知りたかった……卒論やり直したい……と悔し涙がとまらない。が、勉強は何歳からでもできるのだ。はげもう。(卒論でやりきれなかったことはいつか回収しようと思っていて、それは今のような気がしている)

“可能性をとりあえずの形にする。言葉はそのためにある。”

“決断の前に自分が何者であるかは、決断には関係ない。中身がカラッポの私が、何でもいい任意の他者と出会い、その他者を絶対化する”(のが決断主義だから勉強において「エイヤ」はやめるべき)

“信頼に値する他者は、粘り強く比較を続けている人である”

“どんな段階でも「それなりに勉強した」のです。完璧はないのです”(12月24日)
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「一会」と書いて「かずえ」と読みます。祖父母の遺した家を片付け暮らしつつ、広報コミュニケーション事務所「きてん企画室」を営んでいます。noteは備忘録。仕事についてはこちら→ https://ki-ten.com/
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