『「ならずもの国家」異論』吉本隆明、光文社

 71歳の時、吉本隆明さんは96年に伊豆の海で溺れて、そのあとは目が悪くなり、晩年の著作はほとんど聞き語りによる時事評論みたいなものでした。

 89年に出た『ハイ・イメージ論』は1巻が凡庸な印象を受けたのですが、実は90年に出た2巻、94年に出た3巻はこれまで言ってこなかったようなことを書き始めていたので、本来であればそこらへんをもっと展開してほしかったのですが残念です。

 『ハイ・イメージ論』の2巻は、ヘーゲル・マルクスの対象化の考え方を敷衍して、人間は対象的世界である非有機的自然を加工し、自分自身を二重性の意識を眼前に確証できる、みたいな言い方から西欧的な神概念について語っていたのが印象的でした。

 さらに『ハイ・イメージ論』3巻では、あまりかえりみられることのなかった『資本論』3巻のしかも終盤に書いてある利子生み資本についての概念を敷衍して消費論を語っていました。

 消費論についての聞き語りではあまり印象に残る本はないのですが、『日々を味わう贅沢』などは個人的には中途半端な感じをうけた『ハイ・イメージ論』1巻について自身の育った東京についての都市論と合わせて語ったのかな、と思いますし、『ハイ・イメージ論』2巻の議論を共同幻想に絞って語ったのが『「ならずもの国家」異論』で、対幻想に絞って語ったのが『超恋愛論』かな、と個人的には見立てています。

 『ハイ・イメージ論』1巻では都市の景観が行き着くところまで行き着いてしまい、これから新しい方向に発展する可能性があるのはアフリカ的段階を残した地域だみたいな言い方をしています。吉本さんは、そこからアジア的段階の前にあったヘーゲルの『アフリカ的段階』について深掘りしていくのですが、それは簡単にまとめると共同幻想の原段階といいますか、王殺しの段階だった、と思います。王殺しの段階の社会の共同幻想は、王に殺生与奪権を独占して与えてはいるが、それは豊穣の保障と引き換えであり、不作や天変地異があれば王を殺すという生命の等価交換システムによる支配だった、みたいな。

 中東の国々で独裁者が倒されると、だいたい民衆によって殺されますが、それは社会にまだ「アフリカ的段階」の要素が残っているからかもしれません。あるいは韓国のように、前政権の為政者はだいたい投獄されたりするのは民主主義の未成熟とか発展段階の問題ではなく、中国という巨大な本家本元の『アジア的』デスポチズムに対抗して、無意識のうちに半島には「アフリカ的段階」が残されていったからなのかもしれない、などと考えることもあります。

『「ならずもの国家」異論』吉本隆明、光文社

 吉本がイラク戦争、拉致問題などを語っています。もうお年だったので、言うことに新味はなくなっちゃっているし、前にも書かれていたことだなぁ、と思うのですが、それでも、なつかしく読んだことを思い出します。

 拉致問題では、北朝鮮は明治以降の民族虐待を持ち出せば帳消しになると思っていたし、日本でも拉致だ拉致だと大騒ぎすれば向こうから反論されるだろうということで、問題が長引いたと指摘しているのは「そういえば忘れていた見方だなぁ」と思いました。

 後は最近の持論ですが、「宗教自体が発達していく、あるいは文明が進んでいくと、そうした宗教は法律になったり、国家になったり、国の政権になったりします。宗教が法律や国家に変容・転化するわけです」(p.88)という文脈の中で、イラク戦争を見るところ。

 実はこの本で文章として一番素晴らしいのは「まえがき」でして、アフガンからイラク戦争までの問題は「国家と宗教が分離していてその間に産業が介在している高度な文明国家と宗教とが未分化のまま融合している後進的な共同体とが、宗教や文明を異にし、社会段階や利害を異にしているため、この紛争は起こっていると言ってよい -中略- 宗教と共同体が未分化のまま直接に一体となった共同体国家と、宗教が民族国家として宗教発達史の最終段階にある国家との対立を基底している姿だともいえよう」というところでしょうか。

 ということで、最近のモチーフである「宗教なんていうのは仏教もキリウト教もイスラム教も全部同じ」「宗教が高度になったのが国家」「ただしその国家には段階がある」という三代噺につながっていきます。

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