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『饗宴』プラトン、中澤務訳、光文社古典新訳文庫

 この本は随分前に岩波文庫で読みました。内容は《成人男性のほうがエラステス(愛する者) という能動的な意味を持つ名称で呼ばれ、少年のほうはエロメノス(愛される者) という受動的な意味を持つ名称で呼ばれる点に如実に表われています。(また、少年を表わすパイスという言葉は、奴隷・召使を指す言葉でもありました。)》など前半は少年愛(パイデラスティア)を中心としたエロス論です。

《愛する人が少年に対して愛情を示すときよりも、逆に、愛する人に対して少年が愛情を示すとき、神々はよりいっそう驚嘆し、賞賛し、よくしてくださるのです。じっさい、愛する人は神がかりの状態にあるがゆえに、そもそも少年よりも神に近い存在なのです》(kindle位置: 402)などの議論が続きますが、なんといっても素晴らしいは訳者による解説。

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(ドーヴァー)は、古代ギリシャのパイデラスティアの実態を学問的に研究し、一九七八年にその成果を出版しました。この研究の影響もあって、パイデラスティア研究が本格化し、当時のじっさいの姿が、次第に明確になってきたのです。

両者の関係は、少年が成人すれば解消される一時的なものでした。また、必ずしも相手が一人に限定されることはなく、複数と関係を持つことも可能でした。

結婚することを期待され、大多数の成人男性は三〇歳を過ぎれば結婚して家庭を持ちました。しかし、結婚しても、少年との性的関係は並行して続いたのです。つまり、少年愛とは、女性との愛を排除するようなものではなく、並行して成立する別々の愛の形だったのです。

原型となる会合を開いていた人々の間で広まったものであり、少年が男性社会に仲間入りしていくための、イニシエーションのようなものだったと考えられるのです。

むしろ、彼らの性的な愛は、不均等な優劣関係の中で成立するものです。それは、少年愛に限りません。男性優位社会であった古代ギリシャ世界では、女性との関係もまたそうなのです。彼らにとっての性は、能動―受動という関係によって把握されます。

教育とは、すでに知恵を持つ者が、知恵を持たない者にそれを分け与えることだという考えかたです。

若いときに、美しい体に心を向かわせることからはじめます。その者は、最初は一つの体を愛しますが、やがて、どんな美しい体も共通の美しさを持つのだと悟り、その結果、すべての美しい体を愛する者となります。彼は、次に体の美しさから心の美しさへと上昇し、美しい心を愛するようになります。彼は続いて、人間と社会のならわしの中にある美しさに気づき、それらが密接に結びついていることを発見します。次に彼は、知識の美しさを見ます。そして、知恵を求める果てしなき愛の中で、美しい言葉と思想を生み出すのです。

美の梯子の上昇は、一貫して少年愛の道筋の中で進展していくと言われています。

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《ソクラテスが醜い男として描かれているのは、崇高な思考とは相容れない肉体という対比がリアルだったから》というあたりの解説も見事。

最後の議論あたりで出てくる「サテュロスとシレノスの劇」というのが「サテュロス劇(サテュリコン)」と呼ばれていた演劇のことで、悲劇・喜劇と並ぶ第三のジャンルだったというのは、今回、知りました。残っているエウリピデスの『キュクロプス』だけでも読んでみようかな、とか。閑話休題ですが、ギリシャの古代演劇で登場するコーラス「chorus」はギリシャ語の「χοροs」(コロス)に由来します。これはギリシャの古代演劇の舞台に登場する10人程度で編成される歌と踊りを担当していたグループをさしますが、初読当時はオイディプスの舞台なども観たことがなかったので、今回はそんなことも思い出しながら読むことができました。

中澤務先生の解説が素晴らしいな、と思って、同じ中澤務訳で光文社古典新訳文庫の『プロタゴラス~あるソフィストとの対話~』も読むことに。

恥ずかしながら、『饗宴』『プロタゴラス』を読んだ時にはトゥキュディデス『歴史』もクセノポン『ギリシア史』もちゃんと読んでなかったので、アルキビアデスのことはそれほど注目していなかったので、実際のギリシャ史と対比する中で理解はできていませんでした。自分の無知、読書量の少なさにはいまさら驚きはしませんが、改めて再読することの価値を『饗宴』で教わった感じがします。プルタルコスの対比列伝でのアルキビアデスも再読してみようかな、とか。

本文には《人には平和を、海には静かなる凪―― 風の寝床を、そして悲しみには眠りを》などの素晴らしい表現があります。いつか、原語で読んでみよう。

ドーヴァーの『古代ギリシアの同性愛』からフーコーへの言及も解説にあって、本棚を探したらフーコーの『性の歴史』の1,3巻はあったけど2巻がない…貸して返してもらってないかな。『同性愛と生存の歴史』はあったのに。ということでサラッとでも読み直したくなったのでギリシャ的同性愛を描いた2巻だけども買い直すことにしたんですが、とりあえず、以下は印象に残ったところの箇条書きです。

ヘシオドスはこう歌っています――はじめにカオスが生まれた。そして、次に生まれたのは、広大な胸を持つガイア、すなわち永遠に動かぬ万物の居場所。そして、その次にエロスが生まれた。

さて、エロスは最も古い神であるがゆえに、ぼくたちに、最高によいものを与えてくださいます。じっさい、まだ若い少年にとって、彼を愛してくれる優れた人よりもよいものがあるのかと問われても、ぼくには答えることができません。また、愛する人にとって、優れた少年よりもよいものがあるのかと問われても、ぼくには答えることができないのです。

導き手と呼ぶものは、いったい何でしょうか。それは、醜きふるまいをいとう羞恥心と、美しきふるまいを歓ぶ名誉心です。

人がなにか恥ずべきふるまいをしたとか、あるいは誰かから辱めを受けたにもかかわらず、臆病ゆえに自分を守れなかったことが発覚したとします。そのとき彼は、父親や友人といった人たちよりもむしろ、愛する少年にそれを見られたとき、最も苦しい思いをするのです。

愛する人が少年に対して愛情を示すときよりも、逆に、愛する人に対して少年が愛情を示すとき、神々はよりいっそう驚嘆し、賞賛し、よくしてくださるのです。じっさい、愛する人は神がかりの状態にあるがゆえに、そもそも少年よりも神に近い存在なのです。

(俗のアフロディテ)と共にあるエロスは、まことに俗なる存在です。ですから、やることなすこと、でたらめです。そして、これこそまさに、くだらない人々における愛なのです。  第一に、そのような人々は、少年だけでなく女性も愛します。第二に、彼らは、恋する人の心よりも、むしろ体を愛します。第三に、彼らはできるだけ愚かな人を愛します。

第一に、〈天のアフロディテ〉は、[母がいないために] 女性の性質は持たず、男性の性質だけを持っています。ですから、このエロスは、少年に向かうエロスなのです。第二に、〈天のアフロディテ〉は、より年長の女神ですから、ひとかけらの傲慢も持ちあわせてはいません。それゆえ、このエロスに動かされる人たちの心は、男性へと向かうことになります。そして、彼らは、生まれつきより強く、より理性的な者に愛着を感じるのです。

このような人たちのせいで、例の[少年愛に対する] 非難が生じてしまいました。その結果、[少年が] 自分を愛してくれる人に身をゆだねるのは不道徳だと言い出す人たちまであらわれることになったのです。しかし、そんなことを言う人たちは、このような人たちの不適切で正しくないふるまいを見てそう言っているのであり、どんなことでも、適切かつ合法的になされるなら、非難される筋合いはまったくありません

老いも若きも、誰一人それを恥ずべきこととは言わないでしょう。わたしが思いますに、それは彼らが、言葉を使って少年を口説くなどという面倒くさいことをしたくないからでしょう。なぜなら、彼らには弁舌の能力がないのですから。
 これに対して、イオニア地方など、異民族の支配下にある地域の多くでは、そのようなことは恥ずべきことだとみなされています。
 じっさい、異民族の人々は、独裁政治のもとにあるため、このようなことばかりでなく、学問やスポーツをも恥ずべき

また、たとえ容姿は劣っていても、このうえなく家柄がよく、優れた少年に求愛するのが、特によいことだとも言われています。さらにまた、求愛する者は、あらゆる人から、驚くほどの励ましを受けます。

嘆願や哀願をする人々のようなお願いのしかたをしたり、誓いの言葉を口にしたり、相手の家の戸口で一夜を明かしたり、あげくの果てには、奴隷さえやりたがらないような奴隷的行為を、すすんでやろうとしたとするのです。

ところで、なぜ、このような三つの種族が存在していたのか。それは、男性は太陽を起源として生まれたものであり、女性は地球を起源として生まれたものだが、両性をあわせもつアンドロギュノスは、月を起源として生まれたものだからだ。なぜ月からかといえば、月は太陽と地球の性格をあわせ持っているからね。また、彼らの体が球形で、回転しながら移動していたのも、彼らの生みの親である天体の姿を模倣してのことなんだ。さて、この太古の人間たちは、恐ろしく力が強く、元気があった。

ゼウスは、彼らの生殖器を体の前のほうに移動させた。そして、それを使って、男性と女性の間で行われる性交渉によって、子どもを作るようにしたのだ。なぜなら、そのようにすれば、男性と女性が出会ったときに、体を絡み合わせれば子どもが生まれて、種を存続させることができる。また、男性同士の場合でも、少なくとも性的な満足は得ることができるから、ほかのことを考える余裕ができて、自分の仕事をし

男性のうちでも、両性をあわせ持っていた性――すなわち、太古の昔に〈アンドロギュノス〉と呼ばれていた性――の片割れである男性は、女好きだ。そして、浮気性の男の多くは、この種族から生まれる。女性についても同様であり、男好きで浮気性の女が、この種族から生まれる。  女性のうちでも、太古の女性の片割れである女性は、男性に心を惹かれることがあまりなく、女性に心をよせる。女性同性愛者は、この種族から生まれるのだ。  太古の男性の片割れである男性は、男性を追い求める。

そのような少年だけが、成人してから、政治の世界で一人前の男として活躍することができる。  さらに、そのような少年が成人すると、彼らは少年を愛するようになる。彼らは、結婚したり子どもを作ったりといったことには、生まれつきあまり関心がなく、社会的圧力によって、しかたなくそうするにすぎない。

なぜなら、エロスは老年から逃げ去る神なのですから。誰の目にも明らかなように、老年というものは足早なものです。事実それは、必要以上に足早に、わたしたちのもとを訪れます。

エロスがなにかをするときも、暴力を用いることはありません。なぜなら、エロスの言葉であれば、どんなものでも、すべてのものが自発的に従うのですから。

エロスは、明らかに、美を求めるエロスなのです。( なぜなら、エロスが醜さを求めることなどありえないのですから。)

人には平和を、海には静かなる凪―― 風の寝床を、そして悲しみには眠りを

ヘシオドス『神統記』一七六行以下によれば、クロノス神は、父ウラノスの男根を大鎌で去勢したが、自分も同じように息子に倒されることを恐れたクロノスは、息子たちを次々と飲み込んでしまう。

『精霊は、人間の思いを翻訳して神々に伝え、神々の思いを翻訳して人間に伝える。すなわち、人間の祈りと供物を神々に送り届け、神々のお告げと供物の返礼を人間に送り届ける。そして、両者の間に立ってその溝を埋め、全宇宙を一体化させるのだ。

アフロディテが誕生したときの話だ。そのとき、神々は祝いの宴に集ったが、その中にメーティスの息子のポロスという神がいた。さて、祝いの宴の終わるころ、宴ではよくあることだが、物乞いの女がやって来た。ぺニアだ。

すべての人間は、よいものを自分のものにすることを常に願っていると考えるか。

金儲けに励んでもよし、スポーツを愛してもよし、知恵を愛してもよし。しかし、そんなことをしても、〈 愛している〉とは言われぬし、〈愛する者〉と呼ばれることもない。そうではなく、[恋愛という]ある一つの種類の愛において熱心に行動する者だけが、〈愛〉、〈愛している〉、〈愛する者〉という

人物だと言われながらも、その構成要素は決して同じものではなく、たえず新しいものになり、また、ある部分は失われていくのだ。毛髪も肉も骨も血も、体全体がな。

さて、正しい少年愛を通して、このような段階に至るとき、この美の姿が見えはじめる。 そうなれば目的にたどり着いたも同然。エロスの道を正しく進むとか、誰かによって導かれるというのは、このようなことを指す。
しかし、やがて、愛する者の仮面を脱ぎ捨て、自分のほうが愛される少年になってしまうのだ。

末席に向かい、反時計廻りに行われていますが、この方向は「 左から右へ」と呼ばれるもので、

アガペーは、フィリアと同様に、広く好意を表わす概念ですが、その中には性愛も含まれています。このアガペーという言葉は、キリスト教における愛の理念を表わす言葉として知られていますが、この時代にはそのような含意はありません

ドーヴァーです。彼は、古代ギリシャのパイデラスティアの実態を学問的に研究し、一九七八年にその成果を出版しました。この研究の影響もあって、パイデラスティア研究が本格化し、当時のじっさいの姿が、次第に明確になってきたの

この関係は、成人男性のほうがエラステス(愛する者) という能動的な意味を持つ名称で呼ばれ、少年のほうはエロメノス(愛される者) という受動的な意味を持つ名称で呼ばれる点に如実に表われています。(また、少年を表わすパイスという言葉は、奴隷・召使を指す言葉でもありました。)

両者の関係は、少年が成人すれば解消される一時的なものでした。また、必ずしも相手が一人に限定されることはなく、複数と関係を持つことも可能でした。

結婚することを期待され、大多数の成人男性は三〇歳を過ぎれば結婚して家庭を持ちました。しかし、結婚しても、少年との性的関係は並行して続いたのです。つまり、少年愛とは、女性との愛を排除するようなものではなく、並行して成立する別々の愛の形だったのです。

原型となる会合を開いていた人々の間で広まったものであり、少年が男性社会に仲間入りしていくための、イニシエーションのようなものだったと考えられるのです。

むしろ、彼らの性的な愛は、不均等な優劣関係の中で成立するものです。それは、少年愛に限りません。男性優位社会であった古代ギリシャ世界では、女性との関係もまたそうなのです。彼らにとっての性は、能動―受動という関係によって把握されます。

教育とは、すでに知恵を持つ者が、知恵を持たない者にそれを分け与えることだという考えかたです。

彼の演説は、当時の賞賛演説(エンコミオン) の作法に忠実に従った教科書的な演説であり、それゆえに、賞賛のために必要な要素や論点が提示されているからです。つまり、彼の演説は、その後の一連の賞賛演説の出発点として、その方向性を規定する役割を果たしているのです。

その人と生涯を共にする覚悟があるのだと述べます。これは、彼とアガトンの関係を意識したものだと見なせるでしょう。すでに述べたように、パウサニアスは、アガトンが成人したあとも関係を続けていました。それは、当時の少年愛としては逸脱した行為であり、成人男性同士で関係を継続させている彼らは、さまざまな批判にさらされていたと考えられます。

完全だった太古の人間の本性に由来しているのだと主張します。この説明は、アリストファネスの言うとおり、エロスという、言葉で表現しがたい感情の本性を直観的に言い表わしている

エロスが永遠に所有することを望んでいる「よいもの」とは、子孫であることになるでしょう。これに対して、「美しいもの」とは、子孫を残そうとする男性の性的なパートナー(美しい女性)であることになります。

ここでは、身体における肉体的な交わりに相当するのは、言葉による精神的な交わりです。そして、美しい人に対してさまざまな話を投げかけ、それを導こうとする行為によって、徳という自分の子が生み出されていくことになるわけです。

若いときに、美しい体に心を向かわせることからはじめます。その者は、最初は一つの体を愛しますが、やがて、どんな美しい体も共通の美しさを持つのだと悟り、その結果、すべての美しい体を愛する者となります。彼は、次に体の美しさから心の美しさへと上昇し、美しい心を愛するようになります。彼は続いて、人間と社会のならわしの中にある美しさに気づき、それらが密接に結びついていることを発見します。次に彼は、知識の美しさを見ます。そして、知恵を求める果てしなき愛の中で、美しい言葉と思想を生み出すのです。  

美の梯子の上昇は、一貫して少年愛の道筋の中で進展していくと言われている

「サテュロスとシレノスの劇」と呼んでいます(「 エピローグ」)。これは、古代ギリシャにおいて、一般に「サテュロス劇(サテュリコン)」と呼ばれていた演劇のことで、悲劇・喜劇と並ぶ第三のジャンルでした。


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