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言葉のない世界で語り合うには

突然ですけど、みなさんは「Switchインタビュー 達人達」という番組をご存じでしょうか。

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Eテレの番組で、まあ要するに一対一の対談の番組です。

で、最新回でこのお二人が対談していました。

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ムツゴロウさんと(この画像はだいぶ昔のやつだけど)

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漫画家の五十嵐大介(いがらしだいすけ)さん

ムツゴロウさんは、本名は畑正憲(はたまさのり)さんといいます。番組内では「作家」と呼ばれていましたが、感覚としては「動物とずーっと触れ合っている人」という印象のある人ですね。

五十嵐大介さんは『リトル・フォレスト』『魔女』『海獣と子供』などの作品を手掛けた漫画家です。その作品のほとんどがボールペンで描かれ、繊細かつ独創的なタッチで自然世界を描き出しています。

で、このお二人。この番組内ですごく興味深いことについてお話していらっしゃったので、今日はそれについて書きたいと思います。

ずばりそれは、「言葉を使わずに語り合う方法」について。

ん? 何?

「言葉を使わずに語り合う方法」

です。

いや、むりでは?????


◆「手のひら」による会話

五十嵐さんはムツゴロウさんに質問します。

どうやったらあんなに動物たちと心を通わせることができるんですか?

ムツゴロウさんは言います。

ひとつき一緒に寝るんだよ。

なるほどな。

え?ひとつき?って、一カ月のこと?聞き間違いか?

聞き間違いではありません。
ちなみにこれはエゾヒグマのことを指して言っています。

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エゾヒグマ

ふ~ん……。

エゾヒグマは、日本に生息する陸上動物としては最大サイズらしいですよ。

へぇ……。

過去にエゾヒグマによって何名もの人間が殺されてしまったらしいですよ。

…………。

いや、じゃん。
『ブラック・ジャック』にもヒグマの話がありましたよ。
ちっさい頃はどんだけかわいくても、大きくなったらいずれ人をも殺す力を得てしまい、人間を傷つける。みたいな話が。(記憶違いだったらごめん)

このくだりだけで、ムツゴロウさんが尋常の人間ではないということが理解いただけるかと思います。
ちなみに彼は野生の象たちと三か月暮らしたりしてます。

で、まあ、対談は「動物とは言葉が通じないけれど、どうやって心を通わせるのか」みたいな方向性にシフトします。
ムツゴロウさんの答えは

手のひらだよ。

ん?

はい。

「手のひら」。ずばりこれが、動物と心を通わせるために最も重要なものだとムツゴロウさんは言うのです。

「手のひらだよ」と言うとムツゴロウさんは突然自分のズボンの中に手を突っ込みました。もちろん撮影中です。

性器に近いところに手のひらを当てるんだ。
それで、今冷たいのか温かいのかを考える。
ずーっと触れていると、そのうち感覚が混ざり合ってくる。
冷たいのか温かいのかわからなくなる。
動物の感覚と自分の感覚が混ざる。

とまあ、ざっくりまとめるとこのようなことを、ムツゴロウさんは言いました。

この感覚は、言葉にすると非常に難しいことを言っているように聞こえますが、体感としてはなんとなくわかりますね。

冬ごろになるとよく思うことですが、人の体っていうのは熱かったり冷たかったりするものです。
たとえばすごく冷えている私の手を、温かい誰かのお腹に置いたとします。
このとき、真っ先に感じるのは自分の手に伝わる温かさですが、同時に「相手がお腹に感じている冷たさ」も想像することができます(ムツゴロウさんがわざわざ「性器の近く」に手を当てろ、と言っている真意はわかりませんが、もしかすると動物は性器の近くが一番”心”に近いのかもしれませんね。だとすると人間もそうだろうけど)。

真の意味での「共感」っていうのは、言葉によるものではなく、こうやって身体で感じるものなんじゃないかと、私も思います。

心と心を通わせる。それはすなわち、「体と体の感覚を繋ぐ」ということなんだ、と、すごく腑に落ちました。

かといって、エゾヒグマと心を通わせられるかというと別問題ですけど。


 ◇閑話・死と手のひらについて

ちょっと話は変わるんですが、私の好きなゲームに『DEATH STRANDING』があります。

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『メタルギア』シリーズの生みの親である小島秀夫氏が監督したゲームなんですが、このゲームの中に「手のひら」が出てきます。
いやまあ、人間あるところには手のひらは必ずあるんですけど、そういうことではなく。

このゲームの中の世界では、地面に手のひらが生えているのです。

怖すぎ。

いや、どういうことかっていうとですね。
この世界では、「死の世界」と「生の世界」がいまにも繋がりそうになっているんですよ。
死の世界が生の世界に流れ込む際に「カイラル物質」っていうのが流れ込んでくるんですけど、その物質が雨となって地上に降り注いで「カイラル結晶」として固まるときに「手のひら」の形になるのです。

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こんなの。

なぜカイラル結晶が手のひらの形になるのかは明言されてはいないんですが、恐らく「繋がりたい」という欲からこのような形になっているんだと思うんですね。

「繋がりたい」とはどういうことか。

人と人とが繋がるためにはいくつか方法があります。

ひとつは、性交によるもの。
ひとつは、臍帯(へその緒)によるもの。

ひとつは、握手、手つなぎによるもの。

おおよそこんなところでしょう。

そして、『DEATH STRANDING』の「死の世界」は、「握手」を選んだ。
「死の世界」は「生の世界と手を繋ぎたい」と願った。

すなわち、「繋がりたい」という欲によって生の世界にやってきた「死の世界」は、握手による世界の接続を試みたのです。(いや、実は『DEATH STRANDING』には臍帯も出てくるんですが、その詳細はかなり重要なネタバレに抵触するのでこれ以上は話せません)

『DEATH STRANDING』に限らずとも、なんか映画の幽霊とかって、やたらと手形をつけたりする傾向がありますよね。
窓とか壁とかに、バシバシと飽きもせずにま~たくさん。
こないだ観た『来る』でもきれ~な血の手形をつけてました。型とって飾りたいくらい。

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この映画、おもろいよ

つまりまあ、この閑話で何を言いたいかというと。

自分とは全く違う別の世界(=他者)と繋がろうとするときに最も重要なのはやはりムツゴロウさんと同じく「手のひら」、つまり体そのものなのではないか。

ということなのでした。

ムツゴロウさんがおっしゃってた「ひとつき一緒に寝る」ってのも、体の触れ合いのためなんだと思います。


閑話休題。


◆「ソング」による会話

ムツゴロウさんと対談をしてらっしゃった五十嵐大介さんは漫画家なのですが、いくつかの作品は映画化されています。

そのうちの一つが『海獣の子供』。私は映画館で三回くらい観ました。

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米津玄師さんが楽曲『海の幽霊』(さいこ~のやつ)を提供したことでも話題となっているこの作品ですが、ポスター右上に、この作品で繰り返し語られるテーマが記されています。

一番大切な約束は 言葉では交わさない

どういうこと? 無言で指切りするとかそういうこと?

説明します。

『海獣の子供』にはたくさんの海棲生物が出てきます。「クジラ」も。

クジラは、広い広い海の中で仲間とコンタクトを取る際に、ある方法を用います。

それは、「歌」

「ソング」と呼ばれている歌のような鳴き声で、クジラは遠くの海の仲間と交流をしているのです。

作中において、クジラの「ソング」はこのように表現されています。

クジラたちは、言葉では伝えきれない”生”の情報を、「ソング」によってありのままに伝えているんだよ。

と、こんな感じのことを。(記憶だけで書いてるので細かいところは違うとおもう)

たとえば。
雨が降ったな、ってことを誰かに伝えたいとき、私たちはたいてい「雨が降ってさ」と、言葉にします。
せいぜい「槍みたいな雨が降ってさ、屋根にバシバシ打ち付けて。空見たらめちゃくちゃ真っ暗なの」とか、それくらいの付け足ししかできないでしょう。
気の利く人はもしかしたら、雨を絵に描いたりするかもしれません。そっちのほうが伝わりやすい場合はそうするでしょう。
最近はスマホも進化してますから、もしかしたら雨をスマホで撮る人もいるかもですね。言葉よりも臨場感があるかもしれません。

でも、クジラは違う。
空の色や温度や湿度、自分の感情、景色、音、そういうものすべてを「ソング」に託して届けている。
作中人物は、そう言うのです。

それって、めっっっっっちゃくちゃ素敵じゃん。

言葉を超えたコミュニケーションの方法を、人間よりもずっと大きなクジラたちが持っている。

それって超絶、素敵なんですよね。


でも、人間だって負けてはいないですよ。

人間には「音楽」があるじゃないですか。

200828付けの日記で『蜜蜂と遠雷』について書きましたが、あの映画にもまさにそんなシーンがありました。以下は日記からの引用です。自分の日記引用するの、はずかし。

ここには――まぎれもなく『春と修羅』があった。
宮沢賢治の『春と修羅』が。
それがたまらなくうれしくて、そして私は高島明石に恋をしてしまったんですよね。
(中略)
劇中に登場する天才二人も、この明石の演奏に恋をするんですよ。そしてたまんなくなっちゃって、少しぼけた音の鳴るピアノで、月光の下で連弾したりする。おい。解釈一致だな。おい。この映画、解釈一致なんだよ。恋ってそういうことだよな。あの連弾シーンは実質キスシーンだと私は思ってるけど、まあ、そういうことなんだよな。


高島明石というピアニストが『春と修羅』という曲を聴いたとき、私は脳内にぶわーっと感情と景色と色と音と匂いとが混ざり合いました。
これは言葉では説明のしようがないもので、そしておそらく受け取り手によって無限に変化するもの。

作中に登場した明石以外の「天才二人」もきっと、明石の演奏から似たようなものを受信したに違いないのです。そしてその二人は、セリフによらない「連弾」によって会話を成し遂げた。

これが音楽の力なんだよな。

超絶、素敵じゃないですか。

◆会話のない世界が行き着くところ

特に言及していませんでしたが、私は「世界」というのは
「個々人が観測しているすべてのもの」
だという認識でいます。

すなわち、同じリンゴを見たとしても、Aさんが見たリンゴは「Aさんの世界のリンゴ」で、Bさんが見たリンゴは「Bさんの世界のリンゴ」であって、全く同じものではない。
人によって見えているものは異なる。
だから、世界と世界を繋ぎ合わせてすり合わせるのはそう簡単なものではない。
だからこそ、「言葉」というのは本来すごく重要なものなのです。

ちょっとわかりにくい言い回しになってしまってる気がするので、たとえ話をします。

電話でAさんとBさんが会話してて、Aさんがリンゴのことを「リンゴ」と言ったのに対しBさんがリンゴのことを「ホンヌヮカッツァアペハソソマニーニーニー」と言ったら、二人の会話は成立しません。

二人ともがリンゴのことを「リンゴ」だと認識するためには、「この赤くて丸くておいしくてさっぱりしてるやつを『リンゴ』と呼ぼう!」という取り決めが必要なのです。

その取り決めこそが「言葉」なのです。

二人ともがリンゴのことを「リンゴ」と呼ぶことによって、「ああ、あの赤くて丸くておいしくてさっぱりしてるやつのことだな」と情報を共有することができる。

すなわち、「個々人の『世界』を繋ぐもの」が「言葉」なのです。

だから、言葉を失ってしまえば、私たちはたちまち「社会」(=個々人の集合体)を維持できなくなり、孤独な生物となるでしょう。

……………。

…………………いや、そんなことはないだろ。

言葉がなくったって人は『孤独』にはならねーぞ。

これは実感としてわかっていただけるかと思います。

確かに、電話とかメールとか、そういうものは全く意味を為さなくなるでしょう。歴史書も小説も手紙もすべて意味を為さなくなる。

でも、私たちには体が残っている。

それさえあれば、言葉がなくとも私たちはコミュニケーションができる。

リンゴだって、「赤くて丸くておいしくてさっぱりしてる!!!」ってことを全身で表現すればいいんです。

「言葉」によって削ぎ落されている「赤くて丸くておいしくてさっぱりしてる」という要素を、体ならば表現することができるのです。


番組の最後に、ムツゴロウさんは五十嵐大介さんにこう言いました。

君、動物のセックスを描いたほうがいいよ。
彼らの半分はセックスでできてるからね。

Eテレで言うことか? とは思ったんですが、でも、この議論の締めをしては適切でしょう。

言葉によらない会話の行き着く先は、体同士でのコミュニケーション以外にない。

いつかまたバベルの塔が作られでもしたら、我々が言葉を失う日も近いかもしれません。

そのときはムツゴロウさんと五十嵐大介さんとこの日記のことを思い出していただければ幸いです。


おわり

このまとめ方、「ソング」のことが完全に抜け落ちてるなということに書き終わってから気がつきました。

まあこれ、ただの日記なので、そこらへんはゆるくいきましょう。

まとめ直すなら、

「身体と音楽によってのみ、『世界』は繋がりうる」

そんな感じになるのではないでしょうか。

ね。

おわり

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