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【教育とは表現の一つなのではないか】

これからの教育は。。。と聞いて、何を思い浮かべますか?

2021年に「誰もが自分の経験、知恵、学びをシェアできる世の中に。」というビジョンを持って、学びの場を作りたいと思っています。それをnoteに綴っていきます。

思い浮かべた事は、共通することもあれば、人それぞれ違うこともあると思います。そう、十人十色なんです。

教育とは何かという議論はあちらこちらでありますが、私は教育をこう考えています。

教育は、表現である

抽象的なことを言ってすみません。もう少しだけ、お付き合いいただければ。

教育は、表現のかたまり

教育は、これを伝えたいという思いのかたまりです。教科書の内容が変更される度に議論になるのは、何を伝えたいかが人によって異なるからです。

何を大切と思うかも、その人が生きてきた経験、知恵、学びからできてきたものです。普段の生活でこれを意識する事はありません。こういう事は無意識のレベルにあります。

ですから、教育は洗脳だという人がいるのもわかります。そこまで強い表現をするかどうかは別として、人の無意識のレベルに擦り込まれるのですから、間違ってもいないでしょう。

しかしながら、私は教育に対してそんなに悲観的になる事はないと思っています。

みなさんは、違和感って感じる事ありますよね?自分が信じているものと違うものが来た時、あれ?とちょっと気持ちが悪くなったり。

人はそれぞれ、そういう感覚を持っています。私はこれは生まれた頃からあるのではないかと思っています。

違和感を感じる人もいれば、感じない人もいる。それぞれです。それこそが個性だと思います。

これまでの教育を振り返って、違和感があった事はありませんか?その時どうしましたか?そして、今はどうでしょうか?

「教育は表現である」と言ったのは、「これがいい」と思ったことを伝える手段が教育だということです。家庭内教育もそうですし、学校教育もそうです。


教育は誰かの表現に過ぎない

「教育は表現である」と同時に、「教育は表現に過ぎない」とも言えます。誰かの表現に過ぎません。ですから、自分に合わないことがあるのは当然のことです。全て一致する確率って天文学的な数字になるのではないでしょうか。

私は、各界でいわゆる偉大と言われる人たちの本を読んでいます。その人たちに共通する事は、教育への疑問、いやもっというと、否定に近い表現です。偉大な人たちは、自分自身を自らの方法で表現し、影響を与えてきた人たちだと私は思います。そう言った方々に共通するのは、自己との対話、そして自己教育です。そう、自分で自分を教育したのです。

それは何よりも、その人たちが自分自身を表現する方法でした。表現するために学び、表現するために対話し、そして時には他者との対立も恐れずに表現をし続けてきました。

どんな教育が必要か?というのは、もし他者に教育をお願いするのなら、そういう言い方になりますが、自己教育をするのでしたら、どんな教育が必要か?という質問は自問自答になります。

ただ、自分だけでは気がつかないことも多くあります。他者との対話を通して、人は自分をさらに知ることができます。

「共感」を超えた「共鳴」

他者との対話。そこには、「共感」を超えた「共鳴」のように、自分の奥深くに響く感覚がある。共感というのは、相手の言っていることがもっともであるという感覚ですが、たとえ自分と異なるものであったとしても、それが人間としての深い部分で響き合うこと、それを体感した時には満たされた感覚があります。

それは、お互いの表現が伝わったという感覚です。

伝えるというのは、相手も同じ気持ちになるというのとはまた違います。もちろん、同じ気持ちになってもらえたら、誰もが嬉しいと思います。ですが、そうならないこともたくさんあります。それを当然のことと思って、表現を恐れることなく表現をしていけば、たとえ同じ考えでなかったとしても、深いところでの人間としての繋がりを感じ、自分も相手のこともより深くわかります。


幸せと不幸

世界一幸せな国と聞いて、みなさんはどこと答えますか?

そう言われる国の一つに住んでいた人に話を聞きました。幸せでしたか?と。

すると、返ってきた答えが非常に興味深かったのです。

幸せというより、不幸に陥る要因が少ないです。それが人とのつながりだと思います。

私は、ハッ!としました。そうかと。幸せかどうかは自分の心が決めるものですが、人が不幸に陥る要因というのは共通しているものが多いと思います。それが少ないことが結果的に人を幸せにしているんだと。

私は以前より、疑問に思っていたことがあります。

なぜ、教育自体が人を不幸にしてしまうのだろうか

教育が悪い、先生が悪い、社会が悪い、という言葉にはピンとくるものがありませんでした。しかし、気がついたのです。

教育は、表現である

表現に合わない人、あるいは別の表現をしたい人はいつでもいます。その表現を許されなかった時、非常に辛い思いをします。

また、これこそがいい教育だと高額な学費を目の前にしても、それを受け取れなかった人たちは、自分はいい教育を受けなかったと辛くなります。

表現は自分からのスタートすることができます。そして、表現は他者と共に表現することで味わい深いものになっていきます。

自らそれを表現してみることが、他者が共鳴できる機会への一歩となります。

「誰もが自分の経験、知恵、学びをシェアできる世の中に。」

表現。「表」に「現れる」。

表に出したいものはなんですか?

その人の人生の経験、知恵、学びにすでにいくつかの表現があると思います。

キミがキミらしくいることが、誰かを誰からしくする


「誰もが自分の経験、知恵、学びをシェアできる世の中に。」がどうなっていくのか?具体的な構想などは順次noteにて!良かったらフォローもお願いします!

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