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私たちは、いつも誰かを演じている

5歳の息子と一緒に、「宇宙のえほん」を読んでいた。
太陽系にはさまざまな惑星があることや、宇宙には重力や音がないこと、火星で活躍するピカピカの探索機のことなどが、小さな子供でも理解できるようわかりやすく書いてある。
息子は宇宙の不思議に驚き、目を丸くしながら話を聞いていたのだが、地球の自転と公転について説明をすると、突然立ち上がり、「こういうこと?」と言って、くるくる回転しながら父親の周りを周回しはじめた。
地球についての理解を深めるために、「自分自身が地球になってみる」という行動をとった息子を前にして、驚いたと同時に、とても感動してしまった。

息子はいつも、自分ではない誰か/何かになろうとしている。
ある時はピカチュウになって10万ボルトを放ち、ある時は仮面ライダーになって悪の軍団に強烈なキックをお見舞いする。お笑い芸人になって一発ギャグを披露することもあれば、お店屋さんの店員になって新作商品をおすすめしてくれることもある。
自分にとって、「地球になってみる」というのは驚きの発想だったのだが、彼にとって「なってみる」は、日常の中でのごく当たり前の行動だったのだ。

ロシアの心理学者レフ・ヴィゴツキーは、「遊びのなかでは、子どもは頭一つ抜け出たもののように行為する。遊びは発達における先導要因である。」と述べている。
子供たちは、ただ単純にごっこ遊びをしているわけではない。ごっこ遊びを通じて、自分自身でありながら、自分の能力を超えた、自分ではない何者かになろうとしている。そして、その「自分ではない何者かを演じる」という行為を通じて、新しいことを学習し、新しい自分を創造しているのだ。
発達心理学者のロイス・ホルツマンは、ヴィゴツキーのアイデアを発展させて、これを「パフォーマンス」と呼んでいる。

「(私たちは)私たちでないものをパフォーマンスすることによって私たちがなろうとしているものになる。」

ごっこ遊びは、遊びなんかじゃない(遊びなんだけど)。
新しい自分を創造するための、輝かしい発達の舞台なのだ。


でも、これって実は、大人にも同じことが言えるのではないだろうか。
たしかに、日常的にごっこ遊びをしている大人は少ないかもしれない。だけど、自分一人の考えだけでは乗り越えられないような、何か困難な場面に陥った時、「もしもあの人だったら、どうするだろうか?」と自分ではない誰かを想像することは、きっと誰にでもあると思う。

「もしも尊敬するあの先輩だったら、この状況でなんと言うだろうか。」
「もしも憧れのあのアーティストだったら、こんなことを許すだろうか。」
「もしも亡くなった母さんだったら、こんな時どうしていただろうか。」

そして、その人が言うであろう言葉を、とるであろう行動を想像しながら、勇気を出して、自分自身がその人に「なってみる」。
今の自分は、まだその人のようにはなれないけれど、まだ届かないけれど、自分がなってみたいと思うその人のイメージに手を伸ばしながら、自分ではない何者かを演じてみる。
そんな風にして、未知のパフォーマンスを通じて、新しい自分を創造していく。子供と同じように、そんな「ごっこ遊び」を、私たち大人もしているのではないだろうか。


私は普段、株式会社MIMIGURIという会社で、組織の経営課題を解決するためのコンサルティング支援の仕事を行なっている。
私が過去に関わったあるプロジェクトで、印象的だったこんなエピソードがあった。

クライアント企業の社長は、対話が非常に苦手で、言葉を選ばずに言ってしまうと、あまり人の話を聞くことが得意ではなかった。というか、ぜんぜん人の話を聞かなかった。社員が話をしていても、すぐに割り込んで遮ってしまい、自分の話を始めてしまう。社員のみんなも、社長はどうせ話を聞いてくれないと、どこか諦めムードが漂っていた。
しかし、プロジェクトを進めていく中で、社員の生の声に触れ、社員と対話的な関係を築くことの意義に、社長自身が気づきはじめた。「自分はこれまで、社員ときちんと対話ができていなかったんじゃないか…」、そんな風に語り始めた社長は、プロジェクトの中盤頃には、ミーティングの場面で、「私の意見はいいので、よかったら、みんなの意見を聞かせてもらえないかな?」と、ぎこちなく、謙虚に、社員に対して呼びかけるようになっていた。
あれだけ人の話を聞かなかった社長が、苦しみ模索しながら、不器用に、人の話に耳を傾けようと努力する姿に、なんだか心を打たれてしまった。

あのとき社長は、自分がなりたいと思いながら、まだなることができていない、「社員の声にひた向きに耳を傾けることができる社長」という、自分ではない何者かを演じていたのではないだろうか。そうして、その未知のパフォーマンスを通じて、新しい自分を、なってみたいと思う未来の自分を創造していたのではないか(実際、プロジェクトが終わる頃には、社長だけでなく、プロジェクトメンバーも含めて、全員が対話を尊重する素晴らしいチームに生まれ変わっていた)。
そうやって、私たちは、私たちでないものをパフォーマンスすることによって、私たちがなろうとしているものになるのだ。きっと、子供も大人も同じように。


…と、そんなことを考えていたら、息子のごっこ遊びがなんだかとても尊いもののように思えてきた。
一緒にお風呂に入っていると、「ポケモンごっこしようよ〜」なんて毎日誘われるんだけど、ついつい、「パパ疲れてるから明日にして〜」なんて気のない返事をしてしまうことがある。
でも、彼はただ遊んでいるんじゃない。ごっこ遊びを通じて、自分ではない者を演じることを通じて、新しい自分を、未来の自分を創造しているのだ。
そんな風に考えると、ちょっと疲れてるけど、この時間を大切にしてあげよう、と少しだけやさしい気持ちになれたりする。まぁ、遊び終わったら疲れてヘトヘトになるんだけど。

参考書籍


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