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人の視点、カメラの視点

大学が購読してくれている本にIMAというアートフォトをテーマにした雑誌がある。今回の特集はスティーブンショアという1970年代から活躍している主に街を撮影する写真家だ。
1970年代はアートフォトはモノクロだという固定観念があったため、カラーでの写真をアートとしたスティーブンショアには当時から注目が集められた。

14歳の頃から写真を撮ってきたスティーブンショアだが、彼の撮る像は私たちが見ているのと変わらないありのままの情景だ。これは、場所や物というのではなく、視点という面においてである。

写真を撮ることはまずきっかけが必要である。私たちがカメラアプリを起動する時、目の前には撮りたい情景であったり、面白い物があったりする。さらに当時は写真を撮るということは今よりももっと特別なことだった。撮る、という安易な言葉よりはフィルムに焼き付けるみたいな言い回しの方が適しているかもしれない。

だからこそ、スティーブンショアの作品は当時熱烈な支持を集めたのかもしれない。なんの変哲もないニューヨークの車道や街並み、テーブルに乗ったパンケーキ。そのどれもが、既視感のあるありふれたものだ。それは彼の求めていた自然さによるものだろう。

また、意図的にカメラと自分の視点を同期させようと試みたであろう作品とも言える。
特にそれが現れている作品は、Horseshoe bend motel,Lovell,Wyoming,july16,1973という作品だ。
モーテルの駐車場から撮ったであろうその写真には右から虹が伸びている。しかしそれは伸び続けることなく中央でぶつりと切れている。この全てを写さない構図が、見る人にその他の場面を想起させようとしているのだ。

また、別の写真では、机に一面並べられたジグソーパズルが写されている。端の四隅は埋まっているが、中は埋まっていないところが大半で、無数にピースが散らばっている。一体何の絵ができるのだろうと思わず考えてしまう。
この二つの写真は人が生きる上での自然さを表しているのではないかと思う。

完成したパズルであったり、端から端まできれいに写る虹であったりは、あまりに完璧すぎるのだ。撮るべくして撮ったものではなく、その普遍的な事象のように撮ることがスティーブンショアの意図したことなのではないかと思う。 

スティーブンショアの写真を以前の私は1枚では成り立たない点でジッと見ることは少なかった。現代ならこのようなありきたりの写真を撮る意味はないだろう、と。

でもこの人が居てカラー写真のアートフォトが生まれたという事実、そしてありきたりの中に芸術性を見出すコンセプトが、写真史を変えたということが評価に繋がっているのだ。
美術史で例えるなら印象派やフォービズムのようなものだろう。

絵画ではその描画表現から見るだけでこれがどういう思想の上で描いたのかが理解しやすい。写真では(特にスナップ写真は)一眼見るだけでは革新的に思えない。だからこそ読み解く面白さみたいなものはあるが...
私も表層的なものに囚われず、写真の意図を汲み取る力を持ちたいと心から思う。

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