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論拠だけあればいいのかという話

デザイン思考の話を書いていて、デザインは「人間中心」であるべき、ということは間違いないと思っています。そのスタート地点は「誰に届けるのか」(あるいは「誰に届かなくてもいいのか」)「どんな問題を解決するのか」だと思いますが、その過程で、様々な論拠が示されることになります。が、それらをちゃんと網羅したものが、「よいデザイン」になるかというと、どうにもそれはまた別の話のような気がします。

極端な例を挙げます。UIは使いやすく整理され、考えられたものでなくてはならないのですが、たまに特定のボタンを目立たせたいというオーダーが出てくることがあります。そこで「コンバーションがいいから」と、UIガイドラインの例外的にビビッドな色合いや大きいサイズにしてくれという指示が出て来て、それじゃあ、と色を増やしたところ、目立たせたい部分がどんどん増えていき、全体のUIガイドラインや色彩設計が崩壊してしまったとしたら、OKが出たとして、それは成功と言えるのでしょうか?やたらと色数が多く、ごちゃごちゃした統一感のないUIを見て、おそらくあとでうんざりすることになると思います。
(多くの色数をトーンや明度をコントロールして制御する方法はあるのですが、「コンバーション」という言葉の前には、おそらくそうした精密な制御や親和性は崩れ去るかと)

「機能美」という言葉がありますが、これは理にかなったデザインが、その最低限の機能以上の美しさを持つことで、要件を満たしたデザインが結果としてすべて美しいことではないと、わたくしは理解しております。
要件を満たした上で、さらによいものを模索するのがデザインだと考えています。おそらく、デザイナーがデザイナーたりえるところはそういう部分にあるのではないのかと思っています。言葉で語り尽くされた先の何かを作り上げて行くような、そういう作業こそ、デザイナーが提示することができるものではないかと思います。そのために、多くのデザイナーは色彩や平面/立体構成やレイアウトの技術を日々磨いているのではないかと...
マーケターはデザインを「コスト」と呼ぶことがあります。しかしこれは、「デザインなんてどうでもいい」という意味ではないと思っています。ではデザイナーの仕事とは、それに見合った(あるいは、それ以上の)バリューを、デザインに持たせることではないかと、わたくしは思っています。

追記:
たまに本当に「デザインなんてどうでもいい」と思っている人もいますが、こういう人はお金を払いたくないだけなので、そっと距離をおく方がよいと思います。我々のいないところで勝手に困ればいいんです(笑)。

Webフォントサービスを片っ端から試してみたいですし、オンスクリーン組版ももっと探求していきたいです。もしサポートいただけるのでしたら、主にそのための費用とさせていただくつもりです。