サブカル=全体主義?

「作品に罪はない」とよく言うが、本当にそうだろうか?

アラン・ブーローという歴史家の『鷲の紋章学 カール大帝からヒトラーまで』(平凡社)を繙くと、実に興味深いことが分かってくる。

今回取り上げるのは、第七章「視覚の罠――ナチスの鷲」である。

その中に、次のような箇所(p.176)がある。

 

ドイツ表現主義ほど、全体主義の魅惑的な形態への没頭と非合理的な信奉の収斂を示す文化運動はほかにない。[…]表現主義文学の主人公、単純かつ孤独にさまよう虚無の人間は、大衆と形態から救済を期待する。

 

要するに、表現主義と全体主義は目指しているものが同じだというのだ。

表現主義の創始者の「大半が反ナチスであった」(p.176)にもかかわらず。

では、表現主義文学の主人公は、どのような形態から救済を期待するのか?

次の箇所(p.178)が、その答となっている。

 

ナチスの象徴体系はまさに、[…]意味内容がなく[…]指向対象もない強烈な形態からなっていた。[…]ナチスの記号は、その単純で乱暴な造形、大規模な反復、巨大性によって、大衆の空虚にされた視線を占拠する。

 

つまり、「深い意味はないがインパクトがあるもの」こそが、表現主義そして全体主義における救済の要なのだ。

 

ところで、この「深い意味はないがインパクトがあるもの」は、現代のサブカルチャーによく見られる。

なおかつ、それが孤独な主人公にとっての救済になっていることが多い。

たとえば欅坂46は、そうしたコンセプトで活動してきたように思える。

平手友梨奈が演じる孤独な少女にとっての救済は、大人数でのフォーメーションダンスであり、ライブでのド派手な演出なのである。

それゆえ、あるイベントでメンバーの衣装がナチスの制服と酷似していたのは、必然的だったとも言える。

また、「ハリー・ポッター」シリーズの作者であるJ. K. ローリングがトランスジェンダー差別発言をした件も、けっして意外ではない。

孤独な少年が、魔法学校という巨大で画一化された組織に居場所を見出だしていくストーリーそれ自体が全体主義的だからだ。

 

「作品に罪はない」とよく言うが、本当にそうだろうか――。

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