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子どもの質問攻撃にうんざりしたら『クリスマス・カンパニー』

やあ、僕だよ。
まだ11月だっていうのに観たよね。
赤と緑、トナカイにたくさんのプレゼント!
サムネイルがキラキラしていて居ても立っても居られなくなったんだよね。

けれど、なんというか、その、育児の現実を突きつけられたような、「何浮かれてたんだろう…」って思う一本だった。
目が覚めた僕は、いっぱいいっぱいの時余裕を持つことや人を慮ることがいかに難しいか、改めて考えてしまったよ。

またサムネイルに騙された僕を笑ってくれると嬉しいな。

映画あらすじと感想

『クリスマス・カンパニー』アラン・シャバ
アマプラで視聴。
オドレイ・トトゥが出てきて、「これはフランス映画かもしや」と思ったが開始10分間は期待したキラキラファンタジー感が満載なので観続けた。

ここから1時間強つらい展開が続く。

現実時間で600年ずっと「子どもは目を閉じて静かなものだ」と思っていたサンタクロースが、過労で倒れた大勢のエルフのために人間界へ向かう
そこで出会った家族に手伝ってもらいながら、ようやくエルフを助ける手立てを見つけたサンタクロースは自分の世界に帰るものの、その手立てを失ってしまう。彼の運命やいかに。

文章にすると結構メルヘンな王道子ども向け映画のようだが、これは「フランス映画」である。
特に、サンタクロースを助ける夫婦が、子どもにもサンタクロースにも夫の弟にも、「こっち見て見て!」と大岡裁きの様相になった際、妻がブチ切れて夫を誘って外に出掛けてしまうシーン。

このシーンに至るまで、非常識さと癇癪持ちで振り回すサンタクロース、金銭的にも甲斐性がなく頼りにならない夫(しかし夫もいっぱいいっぱいなのだ)、クリスマスで集まりたがる大勢の親戚の執拗な電話云々。
とにかく彼女は育児だけでも手一杯なのに、その他の雑事に追い回されてまったく余裕がない

夫も夫で、お調子者の弟や子どもやサンタクロースから質問攻めに合う(なるべく誠実に答えようとしているのが痛々しいし、結局すべておざなりになっている)し、妻は常にヒステリーを起こしている。
しかもサンタクロースのせいで趣味のバイクの購入資金が制限されそうになっている。泣けるではないか

この二人の偉いところは自分が自分でなくなる前にそれらから距離を置くところだ(突然すぎるところには目をつぶろう)。
日本だと有り得ない(少なくとも公の作品や建前上は)展開だが、ここまでの話で夫婦がブチ切れる妥当性はあるのでむしろほっとした

こういうのぶっこんでくるのがフランス映画だよなぁ。

昨日のくまのアーネストおじさんもそうだが、子ども向けと見せかけてシビアな展開や生々しい人物像が欧米は多すぎないか?
アジアの方がその辺り、何重にもオブラートに包み、お砂糖とメルヘンを散りばめてくれる。でも僕、こういう話も大好物です。

とはいえ、今日観たかったのはキラキラファンタジーなクリスマスだったので選択ミスではあった(なお、ラスト5分だけ再びファンタジーに戻った)。
視聴後、育児への不安が僕を検索魔にしたよね。
こんなことにならないように、これからはオーディオ言語を必ず確認するとしよう。

なんで?どうして?攻撃の苛烈さ

子どもが利用するような施設で働いていた頃、動物に関する質問を子どもにされて困惑する親(しかも彼らの質問数の容赦のなさたるや)を見て、僕はすかさず代わりに答えるようにしていた。

間違った知識を適当に答えられて正しく動物を理解する機会を奪われるのも嫌だったし、何より親にも施設をゆっくり楽しんでほしい気持ちが大きかった。

知らないことを聞かれて、相手が理解できるように瞬時に答えるのってかなりエネルギーを使うって僕は思ってる。
せっかく親もお金を払って入場しているわけだから、その代金分楽しんでしかるべきだ。

しかし、「フクロウの首はどのくらい回るの?」だのの質問に僕が答えるとほとんどの子どもたちはきちんと聞いていない
おや、と思って色々工夫する(トーンや態度、知識の深度、言葉の選び方など)が、聞いてくれる率は変わらない。

僕だってサービス業ではいっぱしのキャリアを積んでいる。
「子どもだってお客様なのだ、攻略せずに何が接客か」とムキになってサービスの質を高める努力をするも、のれんにうで押し、ぬかに釘。
全然手ごたえがない機会が続いた。

「ねえ、何だって?」とお母さんに聞く子

「フクロウの目、色違うの何で?」
「えーっと何でかなぁ…」

説明が書かれている案内でもあればよいのだろうが、そういった工夫はしていない不親切な施設ではあった(そこは僕らの怠慢である)。

「よく気づきましたね。ここにはオレンジと黄色、黒の子がいますよ。」

僕は子どもに向かって言った。
が、子どもは僕の方をちらっと見て、すぐ目を逸らして目の前のフクロウを見るフリをしていた。
仕方ない。小学校低学年までは知らない大人に話しかけられたらすべからく怖いものなのだ。
申し訳なさそうな顔をしているお母さんの方に向き直り、僕は説明を続けた。

「今お客様が撫でてらっしゃる子は黒い瞳のモリフクロウですね。その子は夜行性。野生だと夜に起きて生活します。で、あっちのオレンジの子は朝焼けや夕焼けの頃、黄色の子は主に昼間に活動するんですよ」
「へえ、活動時間によって違うんだ」
「当てはまらないフクロウもいますけどね」

お母さんもよっぽど動物好きなのだろう、僕の話を興味深く聞いてくれたようだ。

「はあ、すごいですねぇ」
「ねえ、何だって?」
「野生だと起きてる時間が違うから色が違うんだって。」

子どもが母親にまとわりつき再び質問する様子を見て、「なあんだ、やっぱり知りたかったのか」とほっこりした。
そして、そこでようやく僕は理解した

この質問にほとんど目的はないのだ
厳密に言えば「答えを知りたい」というより、「親の反応がほしい」のが目的だ。
本当に「答えを知りたい」子どもたちはごく一部で(そういう子たちは僕に質問のターゲットを移してくれる)、ほとんどの子たちは「親の反応がほしい」がために質問をしていたから僕のことを無視していたのだ。

自分の子どもに質問されるのがしんどい理由

それはきっと、その子の関心が全て親である自分に向いているから。

この二冊でも言及があったが、幼少期の子どもは自分を見よと「フルコミット」を求めてくるし、反応が雑だとわかるとへそを曲げるらしい。

そもそも親以外の大人にそこまで関心がないのだ。
有り体に言えばどうだっていい。だから無視する。恥ずかしいとかそういう気持ち(ないとは言い切れないが)より、目に入らないのだと僕は思う。

僕はそこから、子どもたちに対する態度を変えた。
動物の力に頼らず、僕自身をいかに視界に入れてもらうかに注力した。
一番効果的なのはお母さんやお父さんに「群れ」に入れてもらうこと。お母さんやお父さんが僕に関心を持つと、自然に僕のことも視界に入れてくれるようになる。

「そうなんですよ、不思議ですね。」

さっきの会話の続きでいえば、この一言を目線を合わせつつ少し距離を置いてからぽーんと投げる。
近いと受け取る率が下がるが、あえて遠くから軽く、「受け取るのは君の自由だよ」の気持ちを乗せて投げるとわりと受け取ってくれる。

この経験を活かして、僕は色んな大人を「群れ」に引き入れ、自分の子の面倒を見てもらおうと画策している。
でないとあの夫婦みたく、サンタクロースに突然子どもを預け、外に出ることになるだろう(それはそれで経験してみたいが)。

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#育児 #質問攻撃  #でもお母さんお父さんには絶対勝てない
#クリスマス #55日目

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