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ゲームでアニメは作れるか?

作れる.

そう,ファイプロならば.(※1)

これを,あなたが「アニメではない」と断じるのは構わない.
なにしろ,この作品を作った私自身,セル画アニメの作品(※2)の数々にこそ,アニメ的な芸術性の到達点を感じる人種だ.
だから,その気持ちは,解る.

セルアニメ最終期の芸術性

その一つの例を上げる.

これは新世紀GPサイバーフォーミュラSINというOVAを元にして作られた4分4秒のMADムービーである.

劇中に登場するメカがほぼ全てCGモデル(※3)化された現在では,このような,ダイナミックな構図,流麗な変形,そして絵そのものが持つ迫力...は目に出来なくなってしまった,失われた芸術と言える.
映像技術の進化は年々凄まじいが,この種の映像美をCGモデルで再現するのは,まだあと10年は必要だろう.

モルカーは「アニメ」か?

「アニメの定義」というものは曖昧で,ジャンルとしての「アニメ」にくくられる範囲はとても広い.

近年の作品で言えば,
キャラ動画もほぼ全面的にCGモデルで作られた『BEASTARS』,
「クレイアニメ」の新機軸である『PUI PUIモルカー』(※4)

どちらも,所謂「アニメ絵」は,劇中ではほぼ使われては居ない.
それでも「アニメ枠」で放送された,というのは,「アニメ的な雰囲気」(※5)
が作品から感じられるからだ,と私は考える...そう,

セル画でも無く,CGでも無く,たとえフェルトのぬいぐるみの劇映像であっても,「アニメ的な雰囲気」が有れば,人はそれを「アニメ」だと感じる.
作られた手法そのものを,視聴者は問わない.
その「雰囲気」を構成するのに必要なものを用意すればいい.

必要なものは,ストーリー・音・キャラクター

その3つである.
それらが用意されているゲーム動画であれば,観る人は,それを「ゲーム映像」でなく,「アニメ」だと感じてくれるだろう.

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例えば,冒頭の動画1分過ぎに流れる,この一連の4枚の画像を見れば,古参の全日本プロレスファンは,映っている3人のプロレスラーの名前と,再現されたストーリーの元ネタが解り,「ある曲」(※6)が脳内に流れる.

要は,私が作ったのはオリジナルアニメではなく,キャラクターも,音楽も,ストーリーも,借り物のプロレスアニメということになるだろう.(※7)

この場合,私が想定している視聴者の胸の中には,「思い返したい」キャラクター,音楽,ストーリーは,「既に存在している」ので,それらを「喚起」するアニメーションを作れば良い,ということになる.
それならば,アニメ制作に何のツテも,特殊な才能も持たない,自分のような個人でも,作ることが可能だ.

必要なのは「喚起」するフック.贅沢な映像は要らない.

『ディアボロの大冒険』
というゲームを知っている方はいらっしゃるだろうか.
このゲームは,『ジョジョの奇妙な冒険』を題材として作られた同人ゲームで,かれこれ13年くらい前に配布終了したものである.

ロークライクゲーム...要は風来のシレンをモチーフにし,キャラや装備をジョジョに置き換えたゲームだが,その元ネタへの「拘り」...が尋常ではないのだ.

例えば,第4部,音石明のスタンド,チリペッパーのDISCを,このゲームでの主人公ディアボロが装備すると,そのスタンドを武器として使える.(※8)
攻撃に付随する能力も,原作設定に忠実なものだが,更にご丁寧に,このディスクを装備している時,水場の上を歩くとダメージを受ける.(※9)
そのダメージでやられた場合,死因は「電気が水に散って死亡」となる...
そんな,原作ファンにはたまらなく嬉しい要素が満載なので,自然と製作者KMQ SOFT(※10)に強いシンパシーを感じてしまう.

当時でもそんなに解像度の高くないドット絵であり,音楽に至ってはMIDI音源である.とてもリッチなゲーム体験とは言い難い.
が,そんなことは関係ないのだ.
第6部フー・ファイターズのディスクを装備すると,彼らの曲[ Everlong ]が流れる.その時,思い入れがある人間は,グッと来るのである.(※11)
感動の種は,既に我々の心中にある.それをこのゲームは引き出しているのだ.
要は,感情を「喚起」出来れば良い,という好例である.(※12)

「愛」と「拘り」と,もうひとつ

ディズニーやサンライズなどの,大資本に負けないコンテンツを作るには,
深い「愛」と「拘り」...それらで戦うしか無い.
それらこそが,相手の心中の感動を掘り起こす鍵だからだ.

しかし,それだけでは足りない.
注意すべきは,それらへの「価値観の統一性」(※13)である.
大資本,大集団より個人が優れているのは価値観が統一されている点だ.
その点に真摯に寄り添った時に,はじめて個人は巨大コンテンツと勝負するチャンスを得る.

私は三沢さんの「受けて勝つ」姿勢が大好きだった.
だから冒頭の三沢さんのトリビュート動画では「その」三沢さんが一貫して描かれている.
そして多彩な「美しい技」が好きだった.
だからあの動画内の三沢さんは数々の技を受け,同じ技を殆ど使っていない.
それが価値観が統一されている,という事である.
これが分業で作られていた場合,違う価値観が衝突してしまうだろう(それが良い結果を産む場合も,勿論あるが)

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しかし,その一貫性に於いて,一つお詫びしたい箇所がある.
これは全日時代の三沢選手が,ジョニー・エース選手(※14)にフライング・ラリアットを決めたシーンだが,申し訳ない....
「三沢のエルボー」は,右も,左も,有る.
しかし,「三沢のフライング・ラリアット」で相手の首に打ち込むのは,常に左手である.故にこの場面は間違いだ.
このシーンは,自分の拘りの統一性が崩れている箇所であり,今でも観るたびに後悔している.

その「推し」は,自由か?

今のゲームや,コンテンツでは「愛」は「金」としてしか注げなくなっている.
その事実は,重い.それは次の世代が大人になった頃に,影響が有るだろう.
もちろん,今作のファイプロ・ワールドにも課金追加コンテンツはあり,無料ゲームではない,有料コンテンツである.
資金が無ければ,生活も,開発も,製造も出来ないのだから,課金要素自体は,当然の行為で,悪いことではない.

のだが,しかし...
「推し」という言葉だ.それは,「応援」の意味合いだったはずのに,徐々に「貢ぐ」の言葉のマイナスイメージを取り払った言葉として使わ「さ」れるようになっていったと私は感じる.(※15)
「応援」そのものは尊い行為だ.この世界は応援し合う,支援し合う事で回っている,それは世界の真実だ.

が,「推す」方法や,手段が「課金」しか無いのなら,その人間や,キャラがいくら素晴らしくても,その「コンテンツ」は間違っている.

「愛を注ぐ」のにお金は要らない

ファイプロがそれらのコンテンツと決定的に違うところ.
それは「愛を注ぐ状況を整える時に」お金がかかり,それ以降「愛を注ぐ」時には,お金はかからない.それが,素晴らしい.

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「エディットモード」というものが有る.(※16)
これが...今作は物凄いことになっている.
上のsteamワークショップの画像を良く見て欲しい.
Pro Wrestling Style(46,402) ...とある.
これは,皆が作ったエディットレスラーが,4万6402体(※17)居て,ダウンロード可能,ということだ.

更に今作は,技エディットとリングエディット,身体パーツエディットが搭載されていて,無限に創作可能性が広がっている...
なので,こんなことが可能である.

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この画像で,ピン!と来た方は相当なマニアだ.
2004年SMACDOWN!日本武道館公演2日目,アンダーテイカーのマイク再現である.(※18)
が,強烈なマニアの方は,違和感を感じたかもしれない...
その違和感は,正しい.(答えは※19にて)

愛と拘りで上回るしか,無い

三沢さんの動画を作り終わって,何度も見返していると,これは三沢さんをよく知る人限定だけど,確かにアニメであり,エンタメになっているなぁ...と感じた.
結構な量のアニメや他のコンテンツを経験した筈の自分が,何回見ても飽きなかった.

その手応えから,もう1人の大好きなプロレスラーの動画を作ろうと,決めた.

エディ・ゲレロ.
新日本プロレス,AAA,ECW,WWE...世界中の団体で活躍し,亡くなった偉大なプロレスラーだ.
三沢さんとはタイプが違うように思えるかもしれないが,自分の中では共通している.どちらも,リングに,プロレスに,情熱と矜持を捧げた,スキルフルな天才と言う点だ.

この先,一介の素人に,アニメ(のようなもの)を作れるチャンスなんて,訪れることは無いだろう...と思い,丁寧に,丁寧に作り込んだ.
三沢さんの動画の時には出来なかった技クラフトやゲーム撮影,動画編集の技術を注ぎ込んだ.

たかがゲームで,ここまで出来る...
たった一人でもここまで作れる...という事を示すために.
そして,エディと,未だにエディを好きな人のために,
やれることは全てやろう,と決めた.
昨今は,あまり時間を濃縮しないで提供する雑談系のコンテンツが流行っているが,この30分の動画を作る為に使われた私の時間は,500時間を超えた.
ファンというのは,暖かくも,厳しい存在で,中途半端で失礼なものを作っても通用はしない,というのは,エディの大ファンである自分には,何より解っていたからだ.

その結果,長めの動画になってしまったが,エディ・ゲレロという選手のリング上の歴史を(ラダーマッチ以外は)再現出来たかな,と思う.
こういう事が可能な,「ファイプロ」というゲームと,そのコミュニティの素晴らしさを強く感じた.

メタバースは,誰のものか

「メタバース」(※20)
まだ定義が曖昧な言葉ではあるが,
経済的にも,エンタメ的にも,非常に熱いジャンルである.
我こそは「メタバース」である...と,マイクラやフォートナイト,ロブロックス,VRチャット界隈などが主張する訳だが,私は「ファイプロ」こそが,最もメタバースに相応しいと,考えている.

セカンドライフが何故コケたか...それは,ただ単に,新しい不動産を作って,それを売りつけようとしたからである.
ウルティマ・オンライン(UO)が何故廃れたか...確かに新しい空間は作れた.しかしそこで暮らす時間は,現実物質世界の自分の時間から捻出しなければならなかったからである.

フォートナイト...いや,「アンリアルエンジン」(※21)は,確かにメタバースに近い.その地位を獲得する可能性は,高い.
しかし,彼らも自分たちが作った,デジタル空間内の物理法則を売り,配っているという域を出ていない.それはセカンドライフやUOがやろうとしたことの焼き直しだと,私は感じてしまう.
理想とする,新しい空間を作り,「王」になるのは,悪いことではない.
そこが良い国,空間であれば,人はそこに来るだろう.

しかし,そこに,どれだけの「自由」があるかどうか,が重要なのだ.

プロレスとは,何か?

その答えは難しく,まだ出ていないと言えるだろう.
そしてその答えがなかなか出ないのは,人々の考える理想の「プロレス」が,
個人個人により,時代により異なっているからだ.

プロレスに「王」は居ない.(神様,と呼ばれたプロレスラーは居たが)
幾多の偉大なプロレスラーが居た.力道山,アントニオ猪木,ジャイアント馬場,三沢光晴...彼らは自分の理想とする団体を作り,社長...となった.
が,彼らの中で「王者であり続けた」人は居ない.

例え自分の作った団体であっても,自分が選手としてそこに出場しても,
自分の,観客の,相手の満足の行くファイト(※22)が出来なければ,負ける.
そしてチャンピオンベルトにも絡めなくなって行く.
それは冷酷な,しかし素晴らしい事実だ,と私は思う.

幾多の異なる理想が掲げられ,幾多の団体が作られ,消え,
その幾多の団体に参戦,所属し,自分の「理想」を体現しようとする選手たちが居る.そしてファンもまた,自分の「理想」のプロレスが見れる団体,選手を選び,応援する.

プロレスは1人では出来ない.
誰しもが自分の理想のプロレスを目指している.しかし,誰しもがその為に「相手」を必要とする.その理想...は自分と少しだけ...または大きくズレていて,全く同じ...と言うことがない.

プロレスは1人では出来ない故に,1人では王者になれない.
これが決定的に重要だ.
なので必然,そこに勝者と敗者が産まれる.永遠に勝ち続ける人も居なければ,永遠に負け続ける人も(殆ど)居ない.

では,いつか順番が回ってくるのか...いや,プロレスラー(※23)の中には,王座に手が届かず,引退した選手だって数多く居る.これは何を意味するか?

決して「政治力の欠如」なんて話では無い.
自分の,観客の,相手の,満足の行く王者にならなければ,意味が無い.
多くのプロレスラーはきっとそう思っているのだろう.
自分の理想を汚してまで王者になりたい...と考えるような選手は,
少なくとも,私が見てきて,応援して来たプロレスラーには居なかった.
八百長に命を削る,身を捧げる人間など,居ない.
彼彼女らが,命を削り,身を捧げているのは,「自分の理想」に対してである.(※24)

異なる理想が,協調したり,競い合うのが,世界

ファイプロというゲームも,各々が自分の理想の楽しみ方をする世界である.
そして,ファンが別方向で多様に遊ぶことによって,このゲームは完成する.
いや,進化し続ける.

ある人はひたすら試合を繰り返す.
ある人はCPUロジックを組んで,CPU同士の試合観戦に楽しみを見出す.
ある人はひたすら技を作る.
ある人はキン肉マンを再現しようとする.
ある人は実在のレスラーモデルを再現することに喜びを見出し,
ある人は自分の再現したい漫画世界を再現しょうとする.
ある人はMODを作り,ゲーム世界を拡張する.

そして私はプロレスアニメを作った.
皆が情熱が込めて作った幾多の技のモーションと,40000を超えるゲーム内キャラクターの豊富さ,そして種々のmodを使用し,自分の動画スキルを合わせれば,アニメのようなものが作れるのではないか?と考え,偉大な二人のレスラーの,トリビュートビデオを作った.
単なるアニメファンで,何のツテも作画スキルもない人間が,1人だけで30分を超えるストーリーテリングを超えるムービーを作る事が出来る...
しかし独力ではない.優れたコミュニティがあってこそ,それが可能だった.

ゲームメーカーではなく,ゲームファンたち各々が,愛と拘りを持って,自由に遊び,作り,それらが相互作用して,ゲーム世界そのものを拡張していく...
自分はその現実を目の当たりにした.

2021年の現在,素晴らしいゲームは他にも様々あるが,これ程「ファン・コミュニティ」自体が主役になれるゲームが,他にあるだろうか.

MOD(※25)を持たせれば,ファンはゲーム世界を破壊する...とパブリッシャーが感じているとしたら,それは自らがそういうファンを育ててしまった,ということである.
ファンと共に正しく進化したゲームシリーズでは,そういう事は起こらない.
むしろ,素晴らしいゲームの土台から,素晴らしい新たな作品が出来る.

エディット・モードの有る「スパロボ」

最後に,余談ではあるが,私はロボット・アニメーションのファンでも有る.
もし,『エディットモードのあるスパロボ』が出来たら,その時,ゲームの歴史がまた変わるだろう.
例えば,今,素人が,アムロ・レイの声優,古谷徹氏をブッキングする事は難しい....が,「アムロに似た声」の人をブッキングする事は可能である.(※26)
更に,ロボットの絵を描いたり,モデリング出来るクリエイターが,その道のプロ以外にも存在する.
これらを考慮した上で,もし,スパロボにエディットモードが出来たなら...と夢想すると,とても凄いことが起こるだろう.
もし,その時がきたら,自分は『亜空大作戦スラングル』を参戦させることは決めている.(※27)
きっとマジンガーZの敵機械獣はコンプされるだろうし,レオパルドンの参入も待ったなしであろう...
自分はそういうゲーム体験をしたい.

ファンとクリエイターは...上下関係では,無い,と私は考えている.
この世界は,チューズンピープルだけが作る事を許されてる訳では,既に無いのだ.与える側と享受する側が,隔てられる世界ではなく,
互いに,推し推されるコミュニティこそ,目指すべき社会の姿だと,私は思う.


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以下は,相当に長い注釈なので,薀蓄好きな方のみ読んで頂ければと思います.

・ファイプロ(※1)
ファイヤープロレスリング(Fire Pro Wrestling)の略称.
PCエンジンの時代から,30年以上もプロレスファン,ゲームファンに愛され続けたゲーム・シリーズ.
このゲームがきっかけで,プロレスファンになった人も多いことだろう.
そのような他ジャンル同士のクロスオーバーというのが,日本コンテンツの大きな活力であったと私は考えている.
最新作はPS4・STEAM(PC)でプレイ可能な,ファイヤープロレスリング・ワールドで,豊富なMODがある,という理由で,自分はPC版(STEAM版)をおすすめする.
・セルアニメ最終期の作品(※2)
アニメスタジオによって,セル画撮影からデジタル撮影に移行した時期は違い,また1アニメの中でも混在しているものであるが,概ね90年代中期が移行期である.
ただ,セルアニメ最終期に,贅沢な予算や期間を持ち作られたOVAなどには,漫画的な迫力のある絵がそのまま動くという贅沢な作品がいくつかある.
現在の計算されたモデルを動かす撮影手法では,遠近法を無視した作画や配置的におかしい構図などは逆に難しくなっている.
最終期より少し前になるが,伝説的なアニメーター,金田 伊功氏が描き動かしたような,嘘や誇張に溢れた,迫力を優先した映像が,セルアニメーションとしての芸術性に大きく貢献していたと言えるだろう.
現代アニメでも,その系譜を持つ作画を,時折観ることは出来るが,2021年現在,やはりそれらは人の手により作画されている.
・CGモデル(※3)
2021年現在,アニメ内の映像に使われている機械の多くは,コンピュータ上で3Dモデルを作ってから撮影される事が多い.
その3Dモデルのアニメ使用と言うと,『機動戦士ガンダムSEED』の主人公たちが乗る空中戦艦アークエンジェルを思い出す人も多いだろう.
当時(2002)はアニメ絵と馴染まず,画面から浮いてしまうことも多かったが,近年の技術向上により,『閃光のハサウェイ』での夜間シーンなどでは,どこまでが人間が描いた絵で,どこまでがCGモデルかが解らない程進化している.
CGモデルの利点は数多い.作るのに膨大な手間はかかるが,一旦その作られたCGモデルは,勿論プラモデルを作る時にも,ゲームを作る時にも応用できるし,そのまま使わなくても作画の参考として使うことも可能だ.
キャラをCGモデルで描き出せば,Vtuberとして転用することも可能である.
これは声優さんの雑談素養なども必要だが,新型のメディアミックスと言えるだろう.
しかしながら,先も書いたが,弱点が無いわけでもなく,デジタルCGモデルは嘘や誇張が苦手分野となる.
例えば初代ゲッターロボの3体合体シーン...このようなデザイン上無理があるものを流暢に誤魔化す事で得られていた「カタルシス」のようなもの.
それらをデジタルモデルで再現するのは近年の技術発展スピードを考慮しても,まだ時間がかかるだろう.
・クレイアニメ(※4)
クレイ.つまり,粘土で作られたキャラクターをコマ撮りする手法により作られたアニメーションである.
歴史は古く『ガンビー』という作品が,1956年に放映開始されている.
他には,可愛らしくとぼけたペンギンたちが活躍する『ピングー』
羊牧場を舞台としたドタバタ劇『ひつじのショーン』などが有名である.
欠点は手描きアニメ以上に撮影・造形に物凄く時間がかかることである.
しかし,利点も多い.元来アニメキャラクターは無国籍性が強いが,クレイアニメになると,更にその傾向が強くなり,上手く作られたクレイアニメはワールドワイドな人気を博する事が出来る.
他にもグッズ化の容易さが上げられる.
例えば,アニメフィギュアは,3次元ではあるのだが,逆に2次元ではなくなってしまう.微妙な話だが,これは重要な問題である.
しかし,クレイアニメの撮影現場は3次元であり,故にガンビーもピングーもモルカーも,本物そのもののようなグッズを販売する事が可能であり,所謂「ブンドド」も本編さながらにリアルに行う事が可能であり,モルカー幻の13話...なんて話題も記憶に新しいところだ.
・アニメ的な雰囲気(※5)
何をもって「広義のアニメ」と「広義のドラマ」を区切るか,というのは難しく,境目も曖昧である.
自分は,その撮影手法より,作品が表現しようとしている雰囲気で決まっている部分が強いと感じる.
『人形劇三国志』というテレビ番組が,昔あったのだが,その作品がアニメと言われることは殆ど無い.
パペットアニメという言い方もあるのだが,やはり「劇」と名乗っているのが大きいのだろう.
ちなみにこの作品の劉備は二刀流でやたらと強い.
ちなみ私が好きなのは陸遜....
対し,2.5次元俳優たちが舞台上で行う「ヒプノシスマイク」は,実在の人間たちがアニメ的な雰囲気を再現するという手法であり,それ故に新機軸を開発していると言えるのだが,こちらはやはりアニメからの派生として語るのがふさわしいと思う.
どう見ても「映像」としては,『人形劇三国志』の方が「アニメ」のイメージに近いのだが,視聴者の捉え方はそうなっていないのが面白いところだ.
ちなみに私の推しは入間銃兎...
・「ある曲」(※6)
三沢光晴選手の入場曲,スパルタンXを指している.
元々はジャッキー・チェンの映画『スパルタンX』のタイトル曲であり,上田馬之助選手が入場曲に使用したことも有る.
年代や会社的な事情によって入場曲を変える選手も多いのだが,三沢選手はアレンジは変えつつ,この入場曲を使い続けたので,三沢ファンはこの曲を聞くと条件反射で三沢コールをしたくなってしまう...
ちなみにこのシーンは,1990年5月14日
谷津嘉章・サムソン冬木vsタイガーマスク・川田利明で,2代目タイガーマスクこと三沢が,試合途中タッグパートナー川田に自分のマスクを外してもらい,そのマスクを投げ捨て,今後はタイガーマスクではなく,『三沢光晴』として戦っていくという宣言を行動で示したプロレス史に残る名場面である.
辿々しげな「三沢...と,なったー!」という実況,解説に困るグレート・カブキ,そして場内の「三沢コール」...が印象的なシーンである.
(2代目タイガーマスクは正体が三沢であると,1988年に本人が記者会見にて公言していた)
この時期,全日本プロレスは天龍源一郎の移籍により窮地にあったが,この試合の後,三沢は川田,小橋,田上,菊地らと,若手中心の「超世代軍」を結成し,完全無欠のエースことジャンボ鶴田に挑んでいく...と言う試合を行い,それが全日本プロレスの何度目かの黄金期を築くことになる.
会社の用意してくれた栄光への道を,自ら降り,三沢光晴という自分の道を歩いていく覚悟を示した,プロレス史に残る名場面である.
・借り物(※7)
JASRACに登録されている音源を動画内で使った場合,その音源権利を持つ,著作権者は,その動画に削除依頼を出すか,その動画に表示される広告収入を受け取るか,の2つを選択をする事が出来る.(もし,削除依頼が出された場合,製作者はその音楽を差し替えるか,削除するか...というどちらかの方法を取るしか無い)
なので,他者が著作権を持ち,JASRACが関している音源を使った場合,動画製作者はその動画から収益を得ることは,基本的に出来ない...というのが,現状,2021年7月時点の,日本におけるYOUTUBE著作権レギュレーションである.
・DISCを主人公ディアボロが装備する(※8)
このゲームでは装備はDISCである.これは第6部のプッチ神父が,相手のスタンド能力(特殊能力)をCDやDVDのような光学ディスクとして奪い取り,使うことが出来る,という元ネタを下地としている.
武器DISCと防具DISCに別れてる訳ではなく,攻撃に適さないスタンドであっても,武器として装備出来て,ちゃんとスタンドのグラフィックが表示されるという拘りようだ.
(レッド・ホット)チリペッパーのDISCの攻撃時特殊能力は,2回連続空振りすると,「反省」して,次の攻撃が必中&会心の一撃となる...という,とても原作を解っている能力だ.
そして主人公ディアボロであるが,このキャラは第5部のラスボスであり,それが自分を倒したジョルノに復讐する,という設定である.
とは言え,人気キャラ総出演のファンゲームなので,そこまで細かいストーリーラインは無い.
・水場の上を歩ける(※9)
このゲームでは,基本水の上は歩けないが,第3部,ダークブルームーンのスタンドと,第5部,ホワイトアルバムのスタンドを装備した場合と,第1部ジョナサン・ジョースターの記憶のディスクを読んだ場合,歩ける.
ちなみに第5部クラッシュのディスクは,水上を歩けはしないが,水場に向かって攻撃すると,水に隣接した敵を攻撃出来るという能力がある.
このような異常な(過剰な)拘りが,このゲームの面白さの肝である.

ちなみに第3部初期は,スタンド名はタロットから引用しているので,キャラクター名の方にミュージシャンもじりがある.
ダーク・ブルー・ムーンのスタンドを使うのは「シブイねぇ...」でお馴染みの(偽)キャプテン・テニールだ.
・KMQ SOFT(※10)
ムニエルさんがかつて率いた同人ゲーム開発者集団.
営利目的ではないとは言え,様々な著作権問題を抱えたゲームであった為,製作者の詳しい経歴,メンバー構成などは不明である.
KMQ...は恐らく,かつてファミコンゲームを多く出していたケムコというゲームメーカーをオマージュしている.
代表作は『スパイvsスパイ』『時空(とき)の旅人』『真田十勇士』『ノース&サウス わくわく南北戦争』など.
ちなみに筆者は『時空の旅人』は持ってなかったが,同級生の河合くんが持ってたので良くやらせてもらっていた.
タイムマシンが微妙に左右に動くので,油断してると主人公クタジマ・トシトは乗り遅れてゲームオーバーになるのが厳しいゲームである.
・Foo Fighters (※11)
90年代初頭の伝説的なグランジバンド,Nirvanaのヴォーカル,カート・コバーンが亡くなった後,その残りのメンバーで結成されたバンドである.
勿論,音楽的にも彼らは素晴らしい.しかし,カリスマ的なヴォーカルを失っても尚,音楽的に戦い続ける残された彼らの姿勢こそが,魅力の本質なのは間違いないだろう.
ジョジョのスタンド名は,ロックバンドの名前から取られる事が多い(能力や性格とはそこまで関連性が無い事が多い)
ジョジョファンとロックファンを兼ねている人は,知ってるバンドがスタンドとして登場すると,ニヤッ出来るという利点がある.
感情を「喚起」出来れば良い.(※12)
この「喚起」というのがポイントで,それこそが弱者の戦略である.
ドット絵や,8bitピコピコサウンドが,絶対的にリッチな映像や音響に劣るか...と言えば,そうでは無い.
例えばこのLEGOっぽいアートを作るiyan.ha.の作品を見て頂きたい.
これをグレンダイザー(goldrake)と見ているのは,むしろ我々の心である.
そして,人間は,「努力して得たもの」をより評価する動物である.
その「努力」の程度は人により変わるのだが,例えば全然並ばない穴場のラーメン屋より,少し並んで,食べる前に友人と期待感を高めて入ったラーメン屋の方が,味が同じであっても,美味しく感じる,ということはないだろうか.
同じものでも,「若干の困難」を克服して得られるものの方が,価値を感じるという事は日常の事実なのだ.
確かに,見たこともないような美しい映像や音で相手の感情を凌駕するやり方も有る.しかし,それが可能なのは大企業や大監督だけに許された手法で,個人クリエイターが取れる手法では無い.
そういった意味で,ドット絵や8bit soundには,とても丁度いい「困難」があるように,私は感じる.
私のファイプロ動画内の三沢さんは,ドット絵であって,実物ではない.それを実物のように自らの思い出と重ね合わせて補完する時,それは視聴者にとって非常に心地よい「主体的な映像体験」となる.
・「統一性」(※13)
勿論,ディズニーやサンライズ,バンダイに居る方々の愛と拘りが,自分より弱い訳ではない.
しかし,こと価値観の「統一性」という観点では,個人の方が有利である.

例えば同じガンダムファンでも,人により,人間ドラマの部分が一番好きな人もいれば,戦記物の雰囲気が好きな人も居る.
しかし,有る種の価値観の人が喜ぶ要素に対して,同時に他の人が不満を持つ可能性というのことが有る.

『機動戦士Zガンダム』では初代ガンダムでプラモデルが爆発的に売れた経験から,プラモデル用メカデザイン界隈の要素が強いアニメとなっている.
要は,プラモデルを沢山売るために,様々なデザインの敵モビルスーツを出す必要がり,そのため,主人公カミーユのライバル役であるジェリド・メサは,自分の機体を「壊される」必要が出来てしまった...
なので,彼は猛烈に負け続けた.しかも負け続ける割に新機体を続々と与えられる謎の軍人となってしまい,それ故Zガンダムのストーリーが持つドラマ性は大きく損なわれてしまった.
これは,初代機動戦士ガンダムが持っていた重厚な戦記物としての雰囲気を愛していた人にとっては,大きな不満であっただろう.

このように多くの人や多くの思惑が絡めば絡むほど,そのコンテンツの魅力の「統一性」は失われることになる.
(ちなみに自分の推しはハンブラビ・ギャプラン・アッシマーである)
一方「価値観の統一性」でなく,"「愛」と「拘り」と「個人の親近感」"で戦おうとする方法も効果的ではある.しかしながら,私はそれは勧めない.
視聴者の大切な時間を,尊重する行為だとは思わないからだ.
・ジョニー・エース(※14)
全日90年代後半を代表する「強豪ガイジン」プロレスラーである.
今や技のジャンルの一つになった「カッター」「スタナー」という技は,彼が開発した必殺技「エースクラッシャー」が起源である.
全日本プロレスが三沢らを中心にいわゆる四天王プロレスに移行して行った時期,派手な大技やパワーに頼るガイジン選手は,徐々に対応しきれなくなっていった.その中で,新技の開発力,技の美しさ,そして受け身の巧みさ...という要素でも四天王と秋山と劣らぬレベルでついて行ったのはガイジンでは彼だけである.
(ベイダー,ウィリアムス,オブライトもトップ戦線に居たが,彼らは別路線であろう)
・使わされる(※15)
言葉というのは重要だ.
例えば,日本では”Olympic Flame"の事を「聖火」と呼んでいる.
当時の広告担当者は天才だな...と思う反面,一回大流行して根付いてしまった言葉と,そのイメージは,簡単には覆せない.
マーケティングに都合が良く,便利な言葉だからと言って,流行らせてしまうのは,50年くらいの期間で影響が出てしまうので,節度を持ち,程々にして頂きたい,というのが私の偽らざる本音だ.
・エディットモード(※16)
スーファミ版3の頃からあるモードで,文字通り自分の好きなプロレスラーを作り,セーブし,ゲーム内で使える機能である.
実在レスラーを再現したり,過去の名レスラーを復活させたり,ネタレスラーを作ったり,アニメキャラを再現したり,自分を投影したレスラーを作ったり...可能性は無限である.
ドリームキャストのファイプロDから,ネットワークダウンロードはあり,丸藤を模したキャラ,角辻尚道と,不知火をダウンロードすることなどはできたが,それだけで高価なビジュアルメモリの容量を沢山使ってしまい,沢山ダウンロードする事は出来ない...という難点が当時はあった.
氷川光秀とかグレート司馬とか...そういう実在人物のもじりネームはスーパーファミコン世代ではお馴染みの慣習で,懐かしい話である.
・4万6402体(※17)
(2021年7月14日現在)とあるが,人気レスラーは複数体作られることも多い,三沢選手だけで50体以上登録されている.
今作はコスチュームを4種登録出来るが,カミカゼ・ミサワを再現しようとすれば,当然エメラルド・フロウジョンやタイガードライバーなどの技を外し,ジュニア体重にして,サマーソルトキックなどを入れなければならない...なんてのを考えれば,50体以上の三沢選手が登録されているのも当然と言える.

なのでざっくり1/5くらいとしても,9000人くらいのレスラーやキャラが登録されていると考えられる.
ちなみにこの文章を仕上げている7月20日現在では46475体.1日で10体くらい増えてるペースだ.(発売から4年も経つのに)
ちなみにこんなキャラまで居る.足りないドット絵を,今作では追加すれば良いので,愛と元気さえあればなんでも出来る.
・アンダーテイカーのマイク(※18)
ジ・アンダーテイカーとは,アメリカン・プロレスを代表するような選手で,「墓掘り人」ギミックで知られている.
ギミックとは,リング上...いや,会場に入った瞬間...いやレスラーである常日頃から演じる役柄...いや,演じるのでは足りない.
常日頃から,そうなり切り,振る舞う必要があるのだが,それを完璧にこなせるのは本当に一握りの人間だけである.
(勿論色んなタイプが居て,一歩会場の外に出ればON/OFFを切り替えるタイプ,マスクを被る事で切り替えるタイプ,常在戦場的なタイプ...なプロレスラーが居る)
彼は死人である(らしい)ので,痛みを感じない(らしい)のであるが,それ故に,どんなに大技を食らっても,ムクッと平然と起き上がる...というムーブを持つ.
...が,当然,これは人間の肉体摂理には反している.
ジ・アンダーテイカーこと,マーク・ウィリアム・キャラウェイは人間である(筈で),苦痛の無いプロレス技なんてものは,ごく一部を除き,無い.大技であれば尚更...痛くない筈は,無い.
しかし,彼とギミックは,リング上では,ほぼ一体化しており,だからこそ,彼はその平然と起き上がるムーブが可能である.そこまで出来る人間は,数千人のスーパースターの中でも彼くらいである.(WWEでは,プロレスラーの事を,スーパースターと呼称する)
それほどまでにギミックを大事にしている彼は,マイクパフォーマンスが基本と言えるアメプロにおいて,(死人なので)喋らないことで価値を作って行ったスーパースターである.
その彼は,日本公演で,アメリカですら殆ど握ったことのないマイクを握り,日本のファンに感謝を述べ,それに日本のファンは感動した...というシーンである.
ちなみにこの時の日本公演は,テレビショーではなく,テレビ中継のないハウスショー(収録はする)であり,ジ・アンダーテイカーが(ジ・アンダーテイカーとして)喋った事を知らない,アメリカのファンも数多い.
ちなみに,自分の肉体摂理や,単なる試合結果よりも,自分のレスラーとしてのギミックを大事にする...というのは多くのプロレスラーが持つ,矜持のようなものであり,そこからプロレスの面白さが生まれていると,私は考える.
・違和感(※19)
そうおかしい部分が有る.違和感を感じた人は正しい.
一つ大きなのは花道である.WWEでは花道(レスラーが入退場する一段高い通路)とリングは接続されない.花道は斜面で,リングと同じ高さでは続かないのが通常である.しかし,それはこのスパイク・チュンソフトが作った,この東京ドーム風の会場モデルがそうなっているので,やむを得ないところでは有る(マディソンスクエアガーデンの会場モデルは,WWEライクな会場となっている)
しかし...間違いはもう2つ有る.
1つには,コーナーマットのWWの傾きが違う.
2004年時点では傾きの有るロゴが仕様されていた.
2つ目は右下のエプロン...これが盛大な間違いだ.2004時点ではWWEとなっているのに,WWFと記載されているエプロンになってしまっている...
このリングをエディットしたのは私なので,これを発見した時は結構ショックだった.大抵こういう間違いは動画をアップした後に見つかるものなのである.
・メタバース(※20)
詳しくはリンク先のoff topicさんのnoteを読んで頂きたいのだが,要はインターネット上の仮想世界である.
しかし,ただ「仮想世界」であるなら,別にtwitterも世界と言えるし,スプラトゥーンだって世界と言える.何を「世界」と言うかが焦点になる.
現在盛んに試され,議論されているのは,そこで経済活動が行われること,である.確かに,その仮想世界でお金を稼ぐことが出来れば,むしろそっちをメインに生活しても良いことになるだろう.
フォートナイト,ロブロックスなどは,ゲーム内ゲームなどがユーザー主導で開発され,そのメタバースの座を争っている.が,私はもう一つの世界が作られた瞬間から,予め誰かが管理者である事に違和感を感じる.
その点,ファイプロで,各プレイヤーが各々のゲーム機の中に作っている個別の世界は,共通点も有るが,皆違う理想を求めて構築している.
その共通項はありつつも,理想が多様化していて,自由であること...それこそが,私が『ファイプロ』こそが,メタバースであると主張する理由である.

下のような,ロブロックスのゲーム内ゲーム制作も面白そうではある.
しかし,自分はファン・シーンの自立健全性がキーポイントだと考えている.
ただ環境を与えるだけでは,野放図なものが出来るだけだと,私は思う.
サスティナブルに,積み上げ,味わい尽くすように楽しむプレイヤーが重要なのだ.
ミーハーに騒いで,飽きたら去るようなプレイヤーも必要ではある.
しかし,「健全に建設的に遊んでいる勢」がミーハー勢より,ずっと楽しく遊んでいること...そしてミーハー勢を優しく受け入れること.
コンテンツやプラットフォームそのものより,ファン・コミュニティの健全性が問われてくる時代が,今,既に来ていると思う.
・アンリアルエンジン(※21)
フォートナイトの開発元,EPIC GAMESが配布,販売している,ゲーム(デジタルワールド)制作支援キット.
単純化すれば,『RPGツクール』と『2D格闘ゲームツクール』を足したやつの超すごい版,と捉えて良い.

ここで重要なのは,その用途が「ゲーム」に留まらない,ということだ.
例えば,医療分野...遠隔手術で必要なのは動画処理,およびコントローラー,アクチュエーターなどであるが,そのうち,コントロール遠隔処理の部分などは,まさにゲームメイカー,ゲームエンジンが培ってきたジャンルである.

そしてドライビングゲームの技術を,現実物質世界の車両走行に応用したり,フライトシュミレイターをリアルパイロットの訓練に使ったり,デジタル内に世界を構築する手法そのものを抑えようとEPIC GAMESは動ている...と観るべきである.
・自分の,観客の,相手の満足の行くファイト(※22)
ここにプロレスの一つの答えが有ると私は考える.
三沢選手の理想としたプロレスは「相手の技を受けきって勝つプロレス」であった.
要は相手の技を全て出させて,その全てに受け身を取って(もしくは切り返して),その上で自分の必殺技(ときには新必殺技)で決める...のが三沢選手の理想としたプロレスだったと,私は思う.

そのスタイルが,過去のプロレスと比べ,特殊だった点は,「相手」...すなわち「敗者」がとても清々しい顔をしていることだった.自分の技を全て(ベテランほど技が多くなるので,厳密には全てではない)出したのに,返されたから,まぁ仕方ないな...負けを認めるしか無い...そんな顔を,自分は何度も見た.
私はそういう清々しいプロレスが好きだったし,きっと三沢選手もそうだったろう.
しかし,これは決して四天王時代の全日本,ノアのレスラーの総意だった訳ではない,と言うことだ.同じ団体に居ても,選手により,考えが違う.それがプロレスの面白いところだ.
小橋選手は殆ど切り返し技は使わなかったし,秋山選手は隙があったら何時でも試合を決めに行くファイトスタイルであった.(勿論UWF的な関節技至上主義では無いが,ノア系統のプロレスで絞め技を復権させたのは秋山選手である)
そして,同じ団体を好きなファンでも,「理想」は,やはり少しづつ異なっているのである.
その若干違う考え,スタイルの人々が,同じ環境で覇を競う姿が,自分は好きだったし,今でもそうだ.
そんな三沢選手も,コンディションの低下により,勝つには勝つが,エルボーに頼る試合が増えていった.それは三沢選手にとって,「自分の」満足の行くファイトとは,徐々に離れていってしまったように思っていたのでは,と私は推測する.それでも相手の技をガンガンに受けるスタイルは最後まで崩れなかったのは流石としか言いようが無い.
・プロレスラー(※23)
一時期はプロレスラーと名乗れば誰でもプロレスラー...のような時代が有った.「サバイバル飛田」とか...まぁ今となっては懐かしい話である.
それはそれとして,ノアの影響が,三沢さんの影響が強い人は「レスラー」と略さない事が多い.
「プロレス」というのがそもそも造語であって,その単語が使われる際,比較のために「レスリング」が「アマレス」「アマチュア・レスリング」と称される場合が有った.
が,そのような言葉は,三沢選手や本田多聞選手などの,「レスリング」出身である「プロレスラー」にとっては,やはりレスリングを軽蔑するような言葉に聞こえるらしく,彼彼女らは「アマレス」という言葉を殆ど使わない.
自分もたまに「レスラー」と使ってしまうことも有るが,なるべく「プロレス」や「プロレスラー」という単語を使うように心がけている.
しかし,前述の「サバイバル飛田」に縁の深いDDTとノアが,今やグループ会社なわけだから,プロレスの歴史とは奇異なものである.
・命を削り,身を捧げる(※24)
命を捧げてしまった人のことは,ここでは書かない.
ある一人のレスラーの話をしよう.
その男の名前は,ジョージ・ハインズ.1990年代の全日本プロレスで,活躍した陽気なガイジンファイターだ.
そんな彼は,ある試合中,自分の不注意で足に裂傷を負ってしまう.
観戦した人の話だと,「骨が見えていた」という話だ.
言うて,そんなに重要な試合ではない.タイトルマッチでも無ければ,シングルマッチでもない,単に地方の6人タッグだったはずだ.
ただ,彼はそれでも試合を続けた.
ショーの為に?八百長の為に?契約の為に?
どれも違うだろう.そのような事で人間がそんな選択を出来る筈が無い.
私が勝手に想像するに,相手の技ではなく,自分のアクシデントで途中棄権するなど,彼のプロレスラーとしての矜持に反する事だったのでは無いだろうか.
ジ・アンダーテイカーの話を(※18)でしたが,プロレスラーにとって,矜持とは自分の身体や感情などより,よっぽど大事なものなのでは無いだろうか.

プロレスファンを長く続けていると,解ったような事を口にする観客によく出会うのだが,彼彼女らは,一体プロレスの何を見てきたのだ...と私は感じる.

どう考えても勝ち目が無いような試合で,一つでも多く技を返そうとする若手の姿を,私は見てきた.
繋ぎに使うヘッドロック一つでも決して手を抜かず,全腕力で締めるベテランの姿を,私は見てきた.
だから,自分は20年プロレスを見ても,そんな短絡的な事を口にする気にはならない.まだ解らない事だらけだし,きっと何時までも解らない.
それは私の理解力や観察力の不足ではなく,プロレスが...いや,彼らの理想のプロレスが進化し続けているからだ.
ちなみに現在のプロレスリングNOAHでは,垂直落下などの超危険技は無くなった訳ではないが,垂直落下合戦と言うような頻度では行われない,その代わり試合後半の打撃合戦が増えた.
勿論,打撃技が垂直落下技より安全...という訳ではないが,レフェリーが選手の意識を確認出来るポイントは増えた,と感じる.
他にも,twitterなどで,昨日のダメージの状況を見せる,ことなどもとても良いと思う.実際に身を削ってるのだから,それを伝えることまでが,格闘表現としてのプロレスだと私は考える.

ちなみにジョージ・ハインズは元ジ・イーグル.
しかし仮面を脱いだ方が彼の持つ陽気さは良く出ていたと感じる.
全日本プロレスのゲームは結構出来が良いのが多かったのだが,
何故かマイナーガイジンは出演するのに菊地が入らないとか(ジュニアだから?)本田多聞とか泉田とか居るやろがい...とか,人選が謎きわまりない.
ジャイアントグラム2に大森が居ないのは正直どうかと思う...とか言ってたらようやくジャイアントグラム2000には参戦した.
が,それが出た当時,ノアが旗揚げされて...
・MOD(※25)
主にPCゲームで利用できる,ゲームを拡張,改造出来る,ファンが作ったプログラムのこと.PCに悪影響を及ぼすこともあるので,当然利用は自己責任である.
自分が初めてMODの力を思い知ったのは,中世騎士の戦いをテーマにした3Dアクションゲーム『Mount & Blade』だった.
このゲームには,恐ろしいほどのMOD拡張性が有り,沢山のMODが出た.(現在 Mount & Blade 2が出ているが,ここでは1の話をしている)
本編には出ない,日本の足軽,鎧武者は言うに及ばず,銃や大砲の追加,顔の美麗化,外交モードの追加,クリーチャーの追加など...
とても様々な素晴らしい事が起こり続け,ファンコミュニティを確認するのが,毎日の楽しみだった.

当時の自分はただ,それを享受して遊んでいただけの1プレイヤーだったが,またファイプロというゲームで,あのときの興奮を超えるようなことに,今度は参加できているのを,とても嬉しく感じている.
日本のゲームメーカーは,コンシューマーハードで育った会社やクリエイターが多く,あまりMODを好ましく思わない傾向がある.
しかし,正しいプレイヤーコミュニティが作られていれば,それは杞憂だと,私は考える.
AIが,無限にランダムでフラクタルな荒野,建物を構築し,そのデジタルワールドを拡張しても,それは人間のフロンティア精神を刺激はしない.
熱い情熱を持つ人間が拡張した世界でなければ,人がわざわざ足を伸ばす事は無い,と私は感じる.
「アムロに似た声」の人をブッキングする事は可能である.(※26)
Skebというサービスでは,絵やムービーだけでなく,ボイスの依頼も可能である.
18禁的な絵やボイスの依頼も多いサービスであるが,別にそのような用途だけに限るのは勿体ないサービスである.
商業ベースに載せようとすると,アムロ役を他の人に代理でやって貰う...と言うことは,大変に議論を伴う行為だろう.しかし,ファンメイドの作品ならば,話は別だ.文句を言われる筋合いは無い.
が,それがどの規模までなら構わないか...というのは答えの出し辛い,千差万別の議論になるだろう.ファンメイドであれば何でも許される筈も無いし,また2ndクリエイトを単純に全否定する態度も古い,と私は考えている.
しかし,個人クリエイターが生きる道として,著作権者とファンコミュニティが共に支持してくれるような作品を作るのが重要だと,私は感じている.
・亜空大作戦スラングル(※27)
国際映画社制作の,珍妙な歌と癖のあるロボットが異常に長い決めポーズを取る名オープニングが最大の特徴のアニメ
国際映画社のアニメは,最高のオープニングと,最初っから中だるみしたような本編が特徴だが,スラングルの本編はそこそこ面白い.(そこそこ,である)
だがオープニングはいつも最高で,低予算,低労力でアニメを作るための教科書のような作品ばかりである.

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