そもそもこれは何の話?

 cakesのホームレス取材の記事がなんかすごい批難と否定受けてたんで読んでみました。そういえばnoteとcakesって同じところだったな…。



 内容を精査すれば「取材対象探すのググって速攻とかダメだろ」とか「まあ結局自分がならないという確信があるから書ける記事だよね」とか色々あるし、正直最初に思ったのは「これ映画だったらこの記事と非難がきっかけで記事も書けなくなって全て失ってホームレスになった時ついにまた記事が書けるようになるやつだ…」(こんなこと付け足したくもないけど別にそうなれってことでもないですよ)なんですけど、一番思ったのは

「当事者のホームレスの方があまり描かれていないな」

ってことだったんですよね。それは単純に描写が少ないというより、なんというかこれはホームレスの話ではないよな?ってことです。もちろん当事者の方とのやりとりを基に書かれた交流や思索記事であることは間違いないんですが、それをかみ砕いて編集して自分の言葉として、あくまでホームレスの方ではなく自分のことを語っているように見受けられて、多分もうそれが違うんだろうなって思います。他の記事に「ホームレスのおじさんから豊かさを考える」というタイトルがあるのが象徴的だなぁと感じます。
 現代とはおそらく当事者性の時代です。とりわけマイノリティについてはマイノリティ当事者本人がマイノリティ当事者のために語るべきであるという時代になりつつあります(余談ですがヒップホップで「リアル」が求められるのも、そのヒップホップがポップミュージックの頂点に世界中でなるつつあるのもそういう傾向の一つなのかもしれませんね)もし、マジョリティが「取材」ということをするなら、多分マイノリティの言葉をどう伝えるかみたいなことが求められるんだと思うんですよね。極端な言い方をすれば自分を殺す場面も求められうるはずなんですよ。そういう時代に、それこそ「ホームレスとやりとりして学んじゃってる自分」が常に前面に出てるような表現と言うのが、もう内容どうこう以前にあれなんじゃないかなって。
 「ホームレスという存在をポジティブに描いてはだめなのか」という声も見たんですが、そのポジティブさは当事者の姿そのものからこちらに見えてほしいもので、外から来てる恵まれた人間がジャッジしてほんわかするようなものではないのだろうなと。それこそ「ホームレス人生ゲーム」だって当事者の言葉として出てきたなら全然違う文脈を持つと思います。今は誰が語ったかが内容と同等、へたすればそれ以上に大事にされる時代です。言葉の価値に「語り手の正当性」が含まれているでしょうから、それのよしあしは別として。ただ、当事者主義はとても大切な考えだと思うと同時にやはり桐野夏生「日没」で作家を収容する側が「自伝的作品」をほめたたえていたことを思い出すところもあり、アンビバレントな思いもありますね。
 ところで僕はこれを書きながらあいりん地区・釜ヶ崎の日雇い労働者の姿を描いたマンガである「カマやん」のことを思い出していたのですが、ちょっと検索してみたら今回僕が書いたような理由でカマやんの作者にブチ切れている記事を見つけて「ああ…」ってなりました。その方は日雇礼子さん(元日雇い労働者で、今もあいりん地区に住みながらウーバーイーツとかやりながら生活されている方がやっているドヤ街の姿やそこでの生活を撮影し動画にするVtuber)のことはどう思うんだろうなぁなんて思ったり。

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p.s.今回の件への抗議としてnoteを引き上げるという動きもあるようですが、僕はそれはしませんとだけは申し上げておきます。

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