見出し画像

僕の不安、あなたの畏れ、あの人の恐怖:桐野夏生「日没」

・はじめに

桐野夏生さんの新作「日没」を読みました。
https://www.iwanami.co.jp/sunset/

 ある女性小説家が政府の「文化文芸倫理向上委員会」なる謎の組織から「療養所」と言う名の強制収容所へ呼びだされ、そこで軟禁生活を送りながら作家としての「矯正」を求められていく…というあらすじになっています。
 帯に『ポリコレ、ネット中傷、出版不況、国家の圧力。海崖に聳える収容所を舞台に「表現の不自由」の近未来を描く、戦慄の警世小説』とある通り、現代の表現への抑圧を戯画化した長編小説になっています。この作品の中で求められている「矯正」について、「あ!これニュースやSNSで見たやつだ!」となることも必ず一つ以上あるのではないかと思います。

・強烈な「矯正」の表現

 読んでみて、とにかく療養所の描写が、おそらく色々な収容所を研究されたのだと思いますが劣悪かつ狡猾でした。収容者間のつながりを作らせないように収容者をあの手この手で分断したり(この構造自体も現代のメタファーなのかもしれません)、飴と鞭を使って矯正を促したり、あと食事が本当においしくなさそうで、それも真に迫る表現でした。その食事のまずそうな姿があるからこそ、コカ・コーラゼロで懐柔を謀るといった飴と鞭のシーンにリアルさがでています。また、その中で逆らおうとしつつも少しずつその収容生活に慣れ始めて、その中で楽しみさえ見出そうとする主人公の様子は「わぁ、人間だぁ」と思わされ、当たり前ですが作者の描写力と観察眼のすごさを感じさせられました。。
 一番自分にとって白眉だったのは四章構成のうちの第三章で、ネタバレになるので具体的な表現は避けますが、私たちの実社会に実際にある、ある「収容」「拘束」の形を描いていて、それをされる側の恐怖と揺らぎ、そしてそれにより人間性が奪われていく様を共有することができて、一番ここが引き込まれる表現でした。

・「作家収容所」という設定と現実におけるジレンマ

 さて、この作品のメインの設定であり、僕が読みたいというきっかけになった「作家収容所」という設定について話したいと思います。これは「文化文芸倫理向上委員会」という組織が、その施設のトップである多田によると「作家の表現に少しコンプライアンスを求める」ためにホームページで公募した読者の「ニーズ」を基に作家を呼び出すというものになっています。おそらくこの設定自体が「個人のクレームが直接的・あるいは歪めて使われて作家を縛る」ということを表現しているんだと自分は思いました。そして、多田のセリフや収容されている作家の描写からここではこういう作家や描写を矯正しようとしているのだろうことが透けて見えます。

・青少年にとってふさわしくない内容の作家
・差別的な言葉や呼称を文脈でどうであれ使用すること
・性犯罪を肯定的に描く・性犯罪を受けることを喜んでいるかのような描写
・異常な性癖の描写
・反社会的な内容
・作家が政治的な表現や言動をすること
・原発・慰安婦などの「反日」的な内容

 他にもあるのですが、ここで、今これを読んでいるあなたにお聞きします。

 この中に「作家を収容しろとは言わないけど、確かにそういうものはなくなったほうがいいと思う」というものが、一つはありませんでしたか?

 おそらく、多くの方にとって、一つぐらいは「気持ちはわかる」っていうものがあるんじゃないかなと。そして、あなたが「これはいいだろう」って思うものにも、必ず「いやこれはどうかと思うよ」って人がいるんですね。で、そのような一人一人の、一つ一つはさりげない心が集まって「文化文芸倫理向上委員会」ができあがるっていうイメージが読んでいる間浮かんできました。おそらく、一つ一つのそういった意見を切り分けて見てみると全てそれなりに正当性を持っていて、でもその正当なものが合わさった結果とんでもないものが生まれてしまうというのがこの寓話の恐ろしさなのではないかなと思います。
 この小説の感想を読んでいて面白かったのは、この作品はかなり網羅的に現代の創作への抑制・抑圧が戯画化されているわけですが、ここで提示される作家への抑圧に対して何を描いた話と見るかが読者によって違うということでした。そしておそらくそれは普段自分が何に問題を抱いているかと同じであるであろうこともわかります。おそらくこれをここまで読んでいる人は、今の創作とか表現において何らかの不安なり恐怖を抱いているのではないと思いますが、おそらく必ずその思いにひっかかるような描写がこの作品の中で見つけられると思います。
 ポリティカリー・コレクトネスがダメだと思っている人がこの作品はポリコレがいかに創作を貶めるかを描いていると、昨今のハリウッド映画やいわゆる萌え系の絵に対する議論を引き合いに言いますし、国による弾圧が現代の問題だと思う人は国による弾圧の問題を描いているといい、例えば今であれば日本学術会議の任命拒否問題と絡めて語るなどします。自分は「私的な声を歪んで利用する公」という構造から「はだしのゲン」の学校図書館閉架問題を思い出しました。もっといえば先ほどの自分の「個人のクレームが直接的・あるいは歪めて使われて作家を縛る」という批評も自分にひきつけて話していると言えますね。あとこの収容所の所長が「自伝的作品」を褒めるところに、昨今の自伝的作品と、集団創作的な大作への二極化が進んでいる傾向を思い出したりしました。
 自分も含め、この作品を通してむしろ多くの人が自分の話をするというところが非常に面白く感じられましたし、この小説の巧みさであると思います。一方で、この作品が自分の考えを補強する機能ほど、自分と違う考えに思いを至らせる役割は果たしていないのかもなとも思わされます。もちろん、このように物語の「機能」のような語り方自体この作品が批判するような対象なのだろうなとも思いますが。
 更に難しいのは、かといってではどんな小さな表現への抑制もこういう邪悪なものにつながるから控えるべきというのもまた違うだろうということです。表現によって害を受ける人がいるのもまた事実でしょう。たとえばここで主人公は「作品とコンテンツは違う」と、小説の「コンテンツ化」への拒否を示していますが、これだけメディアミックスが基本になっている時代にもうそういうことは言えない、いわゆる文芸作品にもコンテンツ的な品質保障が求められる時代なのかもなとも思えます。おそらく多田の言うような作品の方が「誰もが楽しめる」作品になる可能性は高いと思うんですよね。もちろん、それでいいのかというのはあるわけですが。
 あと多分僕らが思っているよりもすでに表現は規制されていて、本当の意味でのなんでもありに耐えれる人なんてほとんどいないだろうと思いますし。こういう抑制・抑圧の声をつっぱねるのも受け入れるのもそれなりに正しくて、それなりに間違っている。そのジレンマの中で私達は一つ一つをけんけんがくがくとやっていくしかないんだろうなぁ、なんてことを考えさせられました。僕自身は表現や創作と言うのはきっとこれからいろいろな形で規制とか委縮せざるを得ないんだろうなぁという思いを持っているのですが、何かそれとは違うものを見つけられるかもしれない、という思いも少しは抱くこともできる作品でした。
 他にも、あえてここまで感想の中で使わなかったのですが、こちらが全く知らない「文化文芸倫理向上委員会」がすでに「ブンリン」という略称が確立されているという描写に略称の持つ「その存在を自明視し、使っていくにその価値観を内包化させる」力を感じさせられたり、オチをどう思うかなど語りたいことはいっぱいあります。個人的には主人公のあの葛藤が急速にあの一点に収束するというのはちょっとわからなかったのですが(作者の意思表明だという意味であればわかります)、とにかく読み終わったあと語りたくなる作品だと思いますのでよろしければぜひ読んでいただきたいです。

・最後に宣伝だよ!

 手前味噌ですが僕も創作に関するテーマの記事と小説をあげてますので、よろしければお読みいただければと思います…!


https://note.com/hyuugahikage/n/n1d7fe09d7e07


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?