ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』

少尉とはすでにしばしば、いろんなことを話した。とても気持ちのいい人間だ。名うての悪党とつきあって仲良くしても、自分の対面を傷つけることがないというタイプ。中国人がしゃべっているのを聞くと、われわれは普通それを、分節化されていないうがいの音だと思ってしまう。だが中国語のわかる人間が聞いたら、言葉だとわかるだろう。というわけで私には、人間が人間だとわからない……などということがしばしばある。すこし仕事をしたが成果なし。
MS 101 7 c: 21.8.1914
メタファーの誤用がもっとも罪深いのは、どんな宗派においてよりも数学においてである。
MS 106 58: 1929
人間の視線には事物を価値あるものにするという性質がある。ただしそうなると事物の値段も高くなるが。
MS 106 247: 1929
私の哲学のやり方は、あいかわらず私自身にとってはつねに新しい。だから何度もくり返すことになる。次の世代にとっては、それが血となり肉となっているだろうから、くり返しが退屈だと感じられるだろう。だが私にとってそれは不可欠なのだ。──要するに方法が変わったのである。真理ではなく意味を問うようになったのだ。
MS 105 46 c: 1929
影響をうけないということは、私にとってはいいことである。
MS 105 67 c: 1929
すぐれた比喩は知性を新鮮にする。
MS 105 73 c: 1929
近視の人に道を教えるのはむずかしい。「ここから十マイル先に、ほら、教会の塔が見えるでしょう。その方向に行くんです」とは言えないのだから。
MS 105 85 c: 1929
自然にだけ語らせよ。自然の上位にあるものとして認められるのは、ただひとつ。それは、人間が考えられるようなものではない。
MS 107 70 c: 1929
木が曲がるのではなく、木が折れるとき、悲劇が生じる。悲劇は非ユダヤ的なものである。メンデルスゾーンはもっとも悲劇から遠い作曲家だろう。恋愛で悲劇的な状況にかたくなにしがみついていること、悲劇的にしがみついていることは、私の理想とはいつもかけ離れているように思える。だから私の理想は弱弱しいのだろうか。私には判断がつかない。判断するべきでもない。弱弱しい理想であるなら、まずい理想だ。私の理想は基本的に、やわらかくて穏やかなものだと思う。だが神よ、私の理想が弱く甘いものにならぬよう、守りたまえ。
MS 107 72 c: 1929
新しい言葉というものは、議論の地面に蒔いた新鮮な種のようだ。
MS 107 82: 1929
毎朝、死んだボタ山を掘り進んで、生きた暖かい中心部に達しなくてはならない。
MS 107 82 c: 1929
哲学をリュックサックにぎっしり詰めこんでいると、数学の山はゆっくりとしか登れない。
MS 107 97 c: 1929
メンデルスゾーンは峰ではなく、高原である。彼における英国性。
MS 107 98 c: 1929
私の頭に帽子をかぶることができるのは私だけであるように、誰も私のかわりに考えることができない。
MS 107 100 c: 1929
子どもが叫んでいるのを聞いて、それが理解できる人は、子どもの叫びのなかに、普通に考えられているのとはちがう心的な力が、恐ろしい力が、まどろんでいることがわかるだろう。深い怒りや、痛みや、破壊欲などが。
MS 107 116 c: 1929
メンデルスゾーンは、周囲のすべてが陽気なときにだけ、陽気である人間に似ている。あるいは、周囲のみんなが善良であるときにだけ、善良である人間に似ている。周囲でなにが起ころうとも、凛と立っている木とは似ても似つかない。私自身もメンデルスゾーンに似ており、そういう傾向がある。
MS 107 120 c: 1929
私の理想はある種の冷たさである。情熱に口をはさむことなく、情熱をとりかこむ寺院。
MS 107 130 c: 1929
世界の未来を考えるとき、いつもわれわれが考えるのは、世界がいま見えているまま運動をつづけるとしたら、世界はどこにあるのだろうか、ということだ。そして直線的な運動ではなく、曲線を描いて、たえず方向を変えるとは、考えないのだ。
MS 107 176 c: 24.10.1929
なにかが善であるとすれば、それは神的である。奇妙な話だがこれが、私の倫理学の要点である。

超自然的なものだけが超自然を表現することができる。
MS 107 192 c: 10.11.1929
人びとを善に導くことはできない。人びとは、どこかある場所へ導かれるだけである。善は、事実の空間の外側にある。
MS 107 196 c: 15.11.1929
先日私は、アルヴィドと映画館で大昔の映画をみたあと、こんなことを言った。今の映画と昔の映画の関係は、今日のクルマと二十五年前のクルマの関係だ。昔の映画は昔のクルマと同様に、おかしくて、ぎこちない。映画の改良はクルマの改良とおなじく、技術の改良だ。言ってよければ、芸術的なスタイルの改良ではない。今日のダンス音楽でも、まったくおなじことが言えるはずだ。ジャズのダンスは映画とおなじく改良できるはずだ。だがその場合、スタイルができるわけではない。なぜか。発達に精神 (ガイスト) がかかわっていないからである。

すぐれた建築家とだめな建築家は、今日、どのように区別されるか。だめな建築家はどんな誘惑にも負けてしまうが、まともな建築家は誘惑に負けない。

かつて私がこう言ったことは、正しいかもしれない。「以前の文化は瓦礫の山となり、最後は灰の山となるだろう。だが灰のうえには精神 (ガイスト) がただよっているだろう」。
MS 107 229: 10.-11.1.1930
生きた芸術作品[芸術作品という有機体]に裂け目ができたら、われわれは藁を詰めようとする。もっとも、良心の呵責から逃れるため、極上の藁を使うのだが。
MS 107 242: 16.1.1930
人生の問題の解決策を見つけたと思い、「さあ、これで楽になったぞ」とつぶやきたくなったとしよう。そのとき、それがまちがいであると証明するには、「解決策」が見つかっていなかった時代があったことを考えればいい。その時代にだって生きることができたはずであり、その時代のことを考えれば、発見した解決策など偶然にすぎないと思えるのだ。論理学の場合も事情はおなじである。「論理学の(哲学の)問題を解決」したとしても、これだけは肝に銘じておくべきだろう。その問題はかつては未解決だった(が、そのときだって、生きることも、考えることもできたはずだ)─ ─ ─
MS 108 207: 29.6.1930
エンゲルマンがこんなことを言った。「家でさ、ぼくの原稿がぎっしり詰まった引き出しをひっかきまわしているうちに、じつにすばらしい原稿に思えてきた。で、これは人に見せる価値があるんじゃないかと考えたわけさ (亡くなった親戚の手紙に目を通しているときも、エンゲルマンはおなじような気持ちになったらしい)。そこで、いい原稿を選んで出版したところを想像してみると、なんの魅力も価値も感じられなくなり、興奮した気持ちもペッチャンコになっちゃった」。私は「似たようなケースがあるんだ」と言った。「ごくありきたりな日常的な行動をしている人をだよ、その人が誰にも見られていないと思っているときに、見ることほど、注目すべきことはないんじゃないかな。芝居を考えてみよう。幕が上がると、誰かがひとりで部屋を歩きまわっている。タバコに火をつけたり、腰をおろしたりしている。すると観客のほうは突然、普段ならけっして見ることのできない自分の姿を見るように、ひとりの人間を外から見ていることになる。いわば伝記の一章を自分の目で見るようなもので、──それは無気味であると同時に、不思議でもあるにちがいない。役者が舞台で演じたり語ったりすることよりも、それは不思議であるにちがいない。観客は、生そのものを見るわけだからね。──だが考えてみれば、そんなことは毎日、目にしているんだが、なんの印象もうけない。そう、われわれはそういうパースペクティブでは見てないわけだね」。というわけで、エンゲルマンが自分の書いた原稿を見て、すばらしいと思うとき (もっとも彼は、原稿をバラバラのかたちで出版したくはないのだが)、彼は自分の人生を、神の手になる芸術作品とみなしているのだ。もちろんどんな人生でも、どんなものでも、そういうものとみなすなら、観察にあたいするわけだが。しかし、バラバラのものを芸術作品として描き出せるのは、ひとり芸術家だけである。だから、エンゲル ンの原稿をバラバラで観察するなら、つまり、偏見なしに、いいかえれば熱狂しないで冷静に観察するなら、原稿の価値が消えるのは当然の話なのだ。芸術作品はわれわれに──いわば──適切なパースペクティブを強制する。しかし芸術がなければ、作品は、ほかのものと同様にひとかけらの自然にすぎない。われわれは熱狂してそれを価値あるものと考えてもいいが、だからといって、人目にさらす権利はないのである。 (いつも私は、例の味気ない風景写真のことを思い出してしまう。本人はその場所に行って、なにか経験をしたので、おもしろいと思って撮ったのだろうが、第三者からは当然、冷ややかにながめられる風景写真のことだ。もっとも、ものごとを冷ややかにながめることが、正当であるとしての話だが。)
 ところで、芸術家の仕事のほかにも、世界を永遠ノ相ノモトニとらえる、もうひとつの仕事があるのではないだろうか。思想の方法がそれであると思うのだ。思想は、いわば世界の上空を飛び、世界には指一本ふれないまま、上空から高速で世界を観察するのである。
MS 109 28: 22.8.1930
 ルナンの『イスラエルの民』を読む。「誕生、病気、死、カタレプシー、夢、眠り。これらは無限の印象をあたえた。そして、これらの現象がわれわれの体質に帰因するものである、ということがはっきり見えている人間は、今日でも少数にすぎない」。いや、これは逆だ。これらはきわめて日常的なものだから、不思議がる理由はどこにもないのだ。未開人がこれらのことを不思議がるにちがいないなら、犬や猿はその何倍も不思議がるにちがいない。それとも、いわば突然に目覚めた人たちが、ずっと以前からあったものに突然気づいて、当然のことながら驚いた、とでも考えるべきなのだろうか。──たしかに、そんなふうに考えられなくもない。ただし、それらの現象にはじめて気づいた、というのではなくて、突然それらの現象を不思議がりはじめた、ということだが。しかしこれもまた未開性とは関係がない。ただし、事柄や現象を不思議がらないことを未開と呼ぶなら、話は別である。その場合は、現代人やルナンのほうこそが未開ということになる。ルナンは、科学的な説明によって驚きが取り除かれる、と思っているのだから。
 まるで今日の稲妻のほうが、二〇〇〇年前の稲妻より、日常的であり、驚くにあたいしないかのようだ。
 驚くために、人間は──そして、もしかすると諸民族も──目覚める必要がある。科学は、人間を眠り込ませるための手段である。

つまり要するに、「もちろん、これらの未開民族はあらゆる現象に驚いたにちがいない」と言うのはまちがっている。しかし、「これらの民族は身の回りのあらゆることに驚いた」と言うのは正しいかもしれない。「驚いたにちがいない」ということこそ、未開の迷信だ。 (ちょうどそれは、「未開民族はあらゆる自然の力を怖れたにちがいないが、われわれのほうは、もちろん怖れる必要はない」という迷信に似ている。だが一方では、自然現象をとても怖れる傾向をもつ未開部族もいる、という報告があるかもしれない。──しかし次のようなことも考えられる。高度の文明をもつ民族も、まさにそういうことを怖れる傾向にあって、彼らの文明や科学的知識なるものをもってしても、怖れから身を守れないのではないか。今日の科学を動かしている精神は、もちろん明らかに、このような怖れとは折り合いがつかないのである。)

ルナンはセム人種の早熟な良識 (ポン・サンス・プレコス) を問題にしている。 (私もそのことは、ずっと前から思っていたのだが)、それは、具体的なものに直接かかわる、詩的ではない精神である。それは、私の哲学の特徴でもある。
 ものごとは直接われわれの目の前にある。どんなべールもかかっていない。──この点において宗教と芸術がわかれる。
MS 109 200: 5.11.1930
序のスケッチ
 この本は、この本を書いた精神に共感をしめす人たちのために、書かれている。私の考えではこの本の精神は、欧米の大文明の精神とは別の精神である。欧米の文明の精神は、今日の工業、建築、音楽、ファシズム、社会主義にその姿を見せているが、この本の著者にとっては、見知らぬ精神であり、共感できない精神なのである。これは価値判断ではない。つまり私は今日、建築だと申し立てられているものが、建築ではないことがわからないかのような顔をしているわけでもないし、現代音楽と呼ばれているものにたいして、(その語法を理解しないまま) かぎりない不信感をいだいていないかのような顔をしているわけでもない。だが諸芸術が姿を消したからといって、人類に死亡宣告をくだせるわけでもない。というのも、本物のすぐれた能力をもった人は、まさにこの時代、芸術の領域を見限って、他のことに目を向けているからである。個人の価値は、なんらかの方法で表現されているのだ。もちろん、偉大なる文化の時代のような具合にはいかないけれども。文化というのは、いわば大きな組織である。この組織は、そのメンバーのひとりひとりに、全体の精神にもとづいて仕事ができるような場所をわりあてる。そしてメンバーの力は、ある意味では当然のことながら、全体にたいする貢献度によって測ることができるのだ。ところが文化のない時代には、カが分散する。そして個人の力は、対立する力や摩擦抵抗のせいで消費されてしまう。というわけで、個人が走った道のりの長さではなく、もしかすると、摩擦抵抗の克服のさいに生じた熱量においてでしか、個人の力は表現されないのかもしれない。だがエネルギーはエネルギーである。だから、現代の見せるスペクタクルが、偉大な文化作品をつくりあげることではないとしても──偉大な文化作品では、上等な人たちは、おなじひとつの大きな目標にむかって協力しあうのだが──、そして現代の見せるスペクタクルが、見映えのしない、群衆のスペクタクルであるとしても──その群衆のうちの、上等な人たちは個人的な目標しか追いかけていないのだが──、私たちが忘れてはならないのは、スペクタクルは問題ではないということである。
 あるひとつの文化が消えることは、人間の価値が消えることではなく、人間の価値を表現する手段が消えるということにすぎない。それは痛いほどよくわかっているのだが、どうしても消えない事実がある。つまり私は、ヨーロツパ文明になんらかの目標があるとしても、ヨーロッパ文明の流れを、共感をもってながめることができないのである。だから本来この本は、世界の隅にちらばっている友にこそ読んでもらいたい。

典型的な西洋の学者に理解されたり評価されたりすることは、私にはどうでもいい。どのような精神で私が書いているのか、いずれにしても理解されていないのだから。

われわれの文明の特徴は、「進歩」という言葉で言いあらわすことができる。進歩はわれわれの文明の形式であって、「進歩する」という文明の特性ではない。われわれの文明の典型は、建設である。その活動とは、ますます複雑なものを建てること。しかも明晰さですら、建築の目的に奉仕するだけで、自己目的となっていない。
 ところが私にとっては、明晰さ、透明さこそが自己目的なのだ。
 私が興味をもつのは、建築物を建てることではない。考えられうるかぎりさまざまな建築物の、基礎を透視することである。
 だから私の目標は、学者たちとは別のものであり、私の思考は、学者たちとはちがったふうに動く。

私の書くどの文章も、意味するところは、いつも全体である。つまり、おなじことをくり返し言っている。いわば、ひとつの対象をさまざまな角度からながめたものにすぎない。

こう言えるかもしれない。私がたどり着きたいと思っている場所が、ハシゴを使わなければ上れないような場所なら、私はたどり着くのをあきらめるだろう。実際たどり着くべき地点には、すでにいなければならないのだから。
 ハシゴを使わなければ手に入らないものに、私は興味がない。

ある運動は、ひとつの考えを別の考えに結びつける。もうひとつの連動は、くり返しおなじ場所めざす

ある運動は、建設的で、石をつぎつぎに(手に)取る。もうひとつの運動は、くり返しおなじものをつかむ。

長い序は危険だ。本の精神は序のなかにあらわれてしまうが、本の精神を述べて説明することはできないからだ。もしも、ある本が少数の人のためにだけ書かれているのなら、そのことが明らかになるのは、まさに、少数の人しかその本を理解しないという事実によってである。本というものは、それを理解する者と、理解しない者とを、自動的に区別してしまう。序もまた、まさに、その本を理解する人のために書かれるものである。
 ある人にむかって、その人の理解できないことを言うのは、ナンセンスである。「あなたにはわからないだろうが」とつけ加えるとしても。 (大好きな人にたいして、こういうことはよくあるが。)
 特定の人に部屋に入られたくなければ、その人が鍵をもっていない錠をつるせばよい。だが、そのことをその人と話すのは無意味である。ただし、外から部屋をほめてもらいたい場合は別だけれど。
 行儀よくありたいなら、錠を工夫することだ。つまり、開けることのできる人の注意だけを引いて、そのほかの人の注意を引かないような錠を、扉の前につるせばいい。
 しかし念のため言っておくなら、私の考えではこの本は、進歩する欧米の文明とは無関係である。
 ことによると欧米の文明は、私の本の精神にとっては不可欠の環境なのかもしれない。いいかえれば、両者にはちがった目標があるということだ。
 儀礼的なもの (いわば司祭長的なもの) は、すべて、きびしく避けるべきである。その種のものはたちまち腐るからだ。
 キスももちろん儀礼だが、腐らない。儀礼が許されるのは、キスのように、偽物でない場合にかぎられる。

精神というものをはっきりさせたいと思う。これは大きな誘惑だ。
MS 109 204: 6.-7.11.1930
自分自身の行儀のよさの限界に突き当たったとき、いわば思想の渦巻きができる。(そして)無限の後退がはじまる。言いたいことを言えばいいが、先には進めない。
MS 109 212: 8.11.1930
どんなふうに本を書きはじめたらいいのか、よくわからないのは、まだ明晰でないものが残っているからだ。なにしろ私としては、哲学関係の文章で、書かれ話された文章で、いわば、さまざまな書物でもって、はじめたいと思っているのだから。
 するとここで、「万物流転」という困難に出会う。とすれば、この困難からこそはじめるべきかもしれない。
MS 100 10: 13.12.1930
時代に先行しているだけの人間は、いつかは時代に追いつかれる。
MS 100 11: 25.12.1930
音楽は、わずかな音とリズムしかもっていない未開技術だ、と思われることがある。だが単純なのはその表面だけのことである。音楽の身体には、その明確な内容を解釈させる力があるので、あの無限の複雑さがそっくり秘められてもいるのだ。つまり他の芸術では、複雑さが外部にほのめかされているのがわかるが、音楽のほうは、複雑さを黙秘しているのである。ある意味で音楽は、もっとも洗練された芸術なのだ。

私がけっして近づかない問題、私の世界や私のルートにはない問題がある。西洋の思想界の問題だ。ベートーヴェンが(そして、もしかしたら部分的にはゲーテが)近づいて、格闘した問題だが、これまでどの哲学者も取り組んだことのない問題である。(もしかしたらニーチェがそばを通りすぎたかもしれないが。)
 もしかしたらこの問題は、西洋の哲学から失われてしまったのかもしれない。つまり、西洋文化のなりゆきを叙事詩として感じとり、したがってそれを叙事詩として記述できるような人はいないのではないか。もっと精確にいえば、西洋文化はもはや叙事詩などではない。いや、そう思えるのは、外からながめる者だけだ。もしかしたら(シュペングラーが暗示しているように)ベートーヴェンが先見の明をもって、そうしたのかもしれない。文明はみずからの叙事詩人をまえもってもっていなくてはならない、と言えるかもしれない。ちょうど、自分の死については、予測して先取りして書くことができるだけで、自分の死を同時進行形で報告することはできないように。だから、こう言えるかもしれない。ひとつの文化の全体が叙事詩として書かれているのを見たいなら、その文化の終わりが予見できた時代において、その文化の大物の作品のなかに、それを探すしかない。その時代の後では、それを記述する人はいないのだから。というわけで、そういう叙事詩が、予見にみちた暗い言葉でしか書かれておらず、少数の人にしか理解されないというのも、不思議ではない。

さて私は、この種の問題をまるで考えない。私が「世界というものを片づけてしまった」なら、私はアモルフな(透明な)マスを生んでいるだろう。世界はその多様性をそっくり残したまま、うっちゃられたままである。がらくたをぶち込む無味乾燥な納屋みたいに。
 あるいは、こう言うほうが精確かもしれない。完全な仕事の完全な結果とは、世界をそのままうっちゃっておくこと。(世界全体を納屋に投げこむこと。)

この世界(私の世界)に悲劇は存在しない。だから、(結果として)まさに悲劇を生み出す無限も、いっさい存在しない。
 いわばすべては、世界をつつむエーテルのなかで溶けてしまうのだ。かたいものは、なにもない。
 つまり、かたいものや衝突は、すばらしいものになるのではなく、欠陥となるのだ。

衝突が消えるのは、メカニズムを解消したら(あるいはメカニズムを硝酸で溶かしたら)バネの緊張が消えるのに似ている。このように溶けて消えれば、緊張は存在しない。
MS 100 12: 12.-16.1.1931
私の本は小さなサークル──サークルと呼べればの話だが──のためにだけ書かれている。そう言ったからといって、私はそのサークルを人類のエリートだとは思っていない。だが彼らは、私が顔をむけている人たちなのだ。それは彼らが、 (ほかの人たちより優れていたり、劣っていたりするからではなく)、私の文化圏の住人だからである。ほかの人たちが私にとって異邦人であるのにたいして、彼らはいわば祖国の同胞なのだ。
MS 110 18: 18.1.1931
言語の限界があらわれるのは、命題に対応する(命題の翻訳である)事実を記述する場合、まさにその命題をくり返さざるをえないときだ。

(これは、哲学の問題のカント的解決と関係している。)
MS 110 61: 10.2.1931
「ドラマには独自の時間がある。それは歴史の時間の一部ではない」と言えるだろうか。つまりドラマにおいて私は、それ以前とかそれ以後を問題にすることはできる。しかし、「事件が起きたのは、たとえばカエサルの死の前なのか後なのか」と問うことは、ナンセンスなのだ。
MS 110 67: 12.2.1931
人間のからだは部位によって温度がチャーミングにちがう。
MS 153a 4v: 10.5.1931
自分を、精神だけでふくらんだからっぽのチューブとして見せなければならないのは、恥ずかしい。
MS 153a 12v: 1931
誰も、傷ついた他人を見たくはない。だから、他人が傷ついていないなら、誰もが気持ちいい。誰も、くだらないことでむくれた人の顔など見たくない。このことを覚えておこう。侮辱されて傷ついた人に優しく接するより、その人をじっと──黙って──避けるほうが、はるかに簡単である。優しく接するには、勇気までが必要だ。
MS 153a 18v: 1931
君のことが好きでない人にたいして、親切であるためには、気立てのよさだけでなく、思いやりも必要である。
MS 153a 29v: 1931
われわれは言語と戦っている。

われわれは言語と戦争中だ。
MS 153a 35r: 1931
哲学の問題の解決は、メールヘンに登場する贈り物に似ている。それは、魔法の城のなかでは魔法のようにすばらしいものに思えるのだが、白日のもとでながめてみると、ありふれた鉄の塊(のようなもの)にすぎない。
MS 153a 35v: 1931
思想家は、製図をする人によく似ている。彼は、ありとあらゆる連関を模写しようとするのだ。
MS 153a 90v: 1931
ピアノにむかって作った曲。ペンで考えながら作った曲。内なる耳だけで作った曲。これらはそれぞれ、まったく異なったものであるにちがいない。そして、まったく異なった印象をあたえるにちがいない。
 ブルックナーは内なる耳だけで、演奏するオーケストラを想像しながら作曲し、ブラームスはペンで作曲したのだろう、きっと。もちろんこれは、実際よりも単純化した言い方である。だがひとつの特徴は言い当てている。
MS 153a 127v: 1931
悲劇というものは、いつもあの言葉ではじめることができるだろう。「もしも、……でなかったなら、なにも起きなかっただろう」。

(もしも彼の服の端が機械に巻き込まれなかったら?)

だがそれは、あまりにも一面的な見方ではないだろうか。そういう悲劇の見方は、あるひとつの出会いが人生全体を決めてしまう、と教えているにすぎない。

仮面劇を上演するような劇場があってもいいのではないか。登場人物は類型化された人間にして。カール・クラウスの著作では、このことがはっきりとわかる。彼の戯曲は仮面劇として上演できるのではないか。いや、そうする必要があるのではないか。つまり当然それは、彼の作品がもつ、ある種の抽象性と関係しているわけだ。私の考えている仮面劇というのは、そもそも、スピリチュアリズム的キャラクターの表現なのである。だから (実際)、もしかするとユダヤ人だけが仮面劇に惹かれるのかもしれない。
MS 153a 128v: 1931
君がやった仕事は、ほかの人には、君自身にとってほどは重要ではない。

君が払ったコスト(だけ)は、払ってもらえるだろう。
MS 153a 141r: 1931
 ユダヤ人は荒れた地帯である。だが、その薄い岩石層のしたは、精神的なものがマグマのように横たわっている。
MS 153a 160v: 1931
グリルパルツァー──「大きなものや遠くのもののなかでは、じつに動きやすいが、近くにある個々のものは、なんとつかみにくいことか……」。
MS 153b 3r: 1931
キリストの話を聞いたことがなければ、私たちはどんな気持ちなのだろうか。
 闇のなかに見捨てられた気分になるのだろうか。
 子どもは、自分が誰かといっしょに部屋にいることがわかっているときには、見捨てられたという気持ちにはならない。私たちが見捨てられたという気持ちにならないのも、それとおなじことではないか。
 宗教的な狂気は、無信仰から生まれた狂気である。
MS 153b 29r: 1931
コルシカ人の追い剝ぎの写真を見て、思った。彼らの顔は厳しすぎ、私の顔は柔和すぎるので、どちらの顔にもキリスト教を書きつけることはできない。追い剝ぎたちの顔は、見た目には恐ろしいが、たしかに彼らは、私より「よい人生」から離れているわけではない。ただ、私とはちがう面から「よい人生」をながめているにすぎない。
MS 153b 39v: 1931
懺悔は、新しい生活の一部であるにちがいない。
MS 154 1r: 1931
自分の表現したいことを、せいぜいのところ、いつも「半分」しか表現できない。いや、実際は半分どころか、たかだか十分の一でしかないのかもしれない。だがそれでもなにかを言おうとはしているのだ。書くということは、しばしば私の場合、「どもる」ということにすぎない。
MS 154 1v: 1931
ユダヤの「天才」は、聖人だけだ。ユダヤの最高の思想家は、才人にすぎない。(たとえば私。)

私の思考は、じつは複製・再生でしかない。そう考えるとしたら、一面の真理があるのではないだろうか。私は思想の運動をつくりだしたことなど一度もなかったのではないか。いつも誰かからあたえられては、すぐに情熱的にそれに飛びつき、それを明晰にしようとしたのである。こうして私は、ボルツマン、ヘルツ、ショーペンハウアー、フレーゲ、ラッセル、クラウス、ロース、ヴァイニンガー、シュペングラー、スラッファから影響をうけた。ユダヤ的複製・再生の一例として、ブロイアーとフロイトの名前をあげることができるだろうか。──私のつくるもの、それは新しい比喩・たとえ話である。

以前、ドロービルのかわりに頭像をつくったときも、基本的にはドロービルの作品から刺激をうけたわけで、私が実際にやったことは、またもや明晰化ということだった。明晰にする作業は勇気をもって行なわれなければならない。このことが大切ではないだろうか。勇気のない作業は、利ロなゲームにすぎなくなるだろうから。

ユダヤ人は、本来、「なにも当てにしない」でいるしかない。だがそれは、まさにユダヤ人にとっては至難の業である。なにしろなにももっていないのだから。自分からすすんで貧乏になるのは、金持ちにもなれるときより、貧乏でしかありえないときのほうが、はるかにむずかしい。

(当否のほどは別として)こう言えるかもしれない。ユダヤの精神は、ごく小さな草花すら生み出すことができない。しかし、他の精神のなかで育った草花を模写して、その全体像を描くのは得意である。こう言ったからといって、難癖をつけているわけではない。その作業がじゅうぶんに明晰であるかぎり、なにも問題はない。だが、ユダヤの流儀と非ユダヤの作品の流儀とが混同されたときに、そしてとくに──よくあるケースだが──ユダヤ人のつくり手がそういう混同をするときに、はじめて危険なことになる。(「彼は自分で乳を出したかのように誇らしげではありませんか」。)
 他人の作品を、そのつくり手自身よりも、よく理解する。これが、ユダヤ精神の特徴である。

絵を額縁にうまい具合に納めたり、ビッタリの場所にかけたりすると、しばしば私は、その絵を自分で描いたような、誇らしい気持ちになることがある。だがそもそもこれは適切な言い方ではない。「自分で描いたような、誇らしい気持ち」ではなく、描くのを手伝ったような誇らしさ、いわば、ごく一部を描いたような誇らしさ、なのである。ちょうどそれは、フラワー・アレンジメントの名人が花をアレンジし終わったときに、すくなくとも小さな草一本は自分が生み出したのだ、と思うことに似ている。名人の仕事がまったく別の領域にあることは、名人自身よくわかっているはずなのだが。
 どんなにみすばらしく小さな草でさえ、その生成のプロセスは、フラワー・アレンジメントの名人にはまったく縁がなく未知である。

一本のリンゴの木をきわめて精密に描いたとする。その絵とリンゴの木との類似性は、ある意味で、ごく小さなヒナギクとリンゴの木との類似性の、足もとにも及ばない。その意味で、マーラーの交,響曲などお話にならないくらいブルックナーの交響曲は、英雄時代の交響曲にじつによく似ている。マーラーのを芸術作品というのなら、それはまったく種類のちがうものだ。 (こういう見方そのものが、そもそもシュペングラー的である。)

ところで、一九一三年から一四年にかけてノルウェーにいたとき、私には独自の思想があったように、すくなくとも現在の私には思える。つまり当時は、新しい考えがうごめきはじめていたようだった、と思えるのだ (が、それは勘違いかもしれない)。ところが現在の私は、古い思想しか使っていないみたいだ。
MS 154 15v: 1931
ルソーの性質には、ユダヤ的なところがある。
MS 154 15v: 1931
「(ある人間の) 哲学は気質の問題である」と、ときどき言われるが、これには一面の真理がある。ある種の比喩・たとえ話を好むことは、気質の問題であると言えるだろう。そして意見の対立は、見かけよりももはるかに多くの場合、この気質の問題に左右されているのだ。

「このコブを、君の身体の正常な部分とみなしたまえ」。そう命令されて、命令どおりにみなすことができるだろうか。
 私の身体の理想の姿を、好きなように考えること、あるいは考えないことは、私に許されているのだろうか。
 ユダヤ人の歴史は、ヨーロッパ民族の歴史において扱いが詳細ではない。ユダヤ人はヨーロッパの出来事にかかわってきたのだから、詳細に扱われて当然なのに、なぜそうなのか。ユダヤ人がヨーロッパの歴史において、一種の病気、異常と感じられるからである。そして誰も病気を、正常なものと同列にみなしたがらないからである。
 こう言うことができる。このコブを身体の一部とみなすことができるのは、身体にかんする感じ方がそっくり変化したときだけである。 (身体にかんする全国民の感じ方が変化したときだけである)。そうでなければ、せいぜいコブを我慢できるぐらいだ。
 個人の場合、そういう我慢を期待できるし、コブのようなものが無視されることを期待できる。だが国民の場合は、期待できない。国民とは、その種のものを無視しないからこそ、国民なのだから。つまり、「あなたの身体にかんしてはこれまでの美的感覚をたもちながら、しかも、コブを歓迎する」ことを人に期待するのは、矛盾しているわけだ。

権力と所有はおなじものではない。所有によって権力が生じるにもかかわらず。「ユダヤ人には所有の感覚がない」と言われるなら、その発言は、ユダヤ人が金持ちになりたがることとは矛盾しないだろう。ユダヤ人にとってお金というのは、一種の権力であって、所有ではないのだから。(たとえば私は、仲間が貧乏になることを好まない。仲間にはある種の権力をもつことを望むからだ。もちろん、その権力が正しく使われることも、願っているが。)

ブラームスとメンデルスゾーンは、明らかに一種の親戚である。親戚といっても、プラームスの作品のこれこれの箇所が、メンデルスゾーンのこれこれの箇所を思い出させる、という意味ではない。私の言っている親戚とは、こんなふうに表現できるのではないか。ブラームスは、メンデルスゾーンが中途半端な厳しさでやったことを、手抜きしないで厳しくやっている。あるいは、しばしばブラームスは、欠点のないメンデルスゾーンになる。

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手を焼いていた主題の終わりとして、これはどうだろう。今日、哲学の仕事をしていて、「壊す、壊す、壊す──」とつぶやいていたとき、ひらめいたものだ。
MS 154 21v: 1931
「人目を忍び、身を隠すというユダヤ人の性格は、長年の迫害の結果、身についたものである」。ときどきこのように言われてきたが、きっと本当ではない。逆に確実に言えるのは、こういうことだ。迫害にもかかわらず、ユダヤ人がまだ存在しているのは、人目を忍ぶ傾向をもっているからこそなのである。似たような例がある。これこれの動物がまだ絶滅していないのは、身を隠す能力があるからこそなのである。だからといって私は、そういう能力をほめるべきだなどと、言っているのではもちろんない。断じてちがう。

ブルックナーの音楽には、ネストロイ、グリルパルツァー、ハイドンなどの細長い(北方の?)顔はどこにも見えず、どこからながめてもまるぽちゃの(アルプスの)顔が見える。それは、シューベルトの顔よりもさらに純粋なタイプである。

すべてをおなじにしてしまう言語の暴力。それがもっとも荒々しいかたちで出ているのが、辞書である。またそのおかげで、時間が擬人化(人格化)されてしまったが、このことは、論理定項の神格化に負けないほど奇妙なことである。
MS 154 25v: 1931
きれいな服を着ている人が、鏡をのぞきこみ自分の姿にうっとりしているとき、きれいな服は、虫や蛇に変身(いわば凝固)してしまう。
MS 155 29r: 1931
私の思想をたのしむことは、私自身の風変わりな生活をたのしむこと。これが、生きるよろこびなのだろうか。
MS 155 46r: 1931
ところで、これまでの考えでは──たとえば西洋の()哲学者たちの考えでは──、学問には二種類の問題があったという。本質的で、普遍的な大問題と、本質的でない、いわば偶然の問題である。だが、われわれの考えはちがう。学問には、本質的な問題など存在しないのだ。
MS 110 200: 22.6.1931
音楽における構造と感情。感情は、人生航路を伴走するように、作品理解の伴奏をする。
MS 110 226: 25.6.1931
ラボーアのまじめさは、とても遅いまじめさである。
MS 110 231 c: 29.6.1931
才能とは、新しい水がくり返し湧き出る泉である。だが正しいやり方で使われなければ、価値のない泉となる。
MS 110 238: 30.6.1931
「利口な人の知っていることを、知るのはむずかしい」。ゲーテは、実験室での実験を軽蔑し、野外に出て、そこで学ぶように勧めたが、そのことは、「(不適切に立てられた) 仮説は、すでにそれだけで真理をゆがめている」という考えと関係があるのだろうか。またそのことは、いま私の本のために考えている書き出しと、関係があるのだろうか。私は自然描写で書きはじめようと思っているのだが。
MS 110 257: 2.7.1931
花や木が醜いと思われるときは、いつも、それが人工物であるという印象がある。「……のように見える」と言われるわけだ。このことは、「醜い」と「美しい」という言葉の意味を照らしだす。
MS 100 260 c: 2.7.1931
ラボーアは、いい音楽を書いているとき、どう転んでもロマンチックではない。これは、きわめて注目すべき重要なしるしである。
MS 111 2 c: 7.7.1931
ソクラテスの対話を読むと、こんな気持ちになる。なんと恐るべき時間の無駄! なにも証明せず、なにも明晰にしない、これらの議論は、なんの役に立つのか。
MS 111 55: 30.7.1931
キリスト教では、神様が人間にむかって、いわばこう言っている。「悲劇を、つまり天国と地獄を、地上で演じるでないぞ。天国と地獄は、私の仕事なのだ」。
MS 111 115: 19.8.1931
次のようにシュペングラーが言っていたなら、彼はもっとよく理解されるのではないだろうか。「私は、さまざまな文化期を、家族の生活にくらべているのである。一家族のなかには、家族的類似というものがある。他方、さまざまな家族を観察してみると、メンバー間にも、ある種の類似が見られる。家族的類似は、これこれの点などで、他の類似とはちがっている」。
つまり私が言いたいのは、こういうことだ。比較の対象、つまり、この観察方法をひきださせた対象が、提示される必要がある。でないと、議論がどんどんゆがんでしまうからだ。なにしろ、観察の原型に当てはまることがすべて、私たちの観察の対象にも、いやおうなしに当てはまるのである、と主張されることになり、そうなると、「いつも……にちがいない」と主張されてしまうからである。
 さて、なぜそうなるのかといえば、観察するとき、原型の特徴にこだわろうとするからだ。しかもそのときには原型と対象を混同し、原型だけの性格であるはずのものを、対象に独断的にくっつけてしまうことになる。他方、観察が、たったの一例だけにしか当てはまらない場合、観察には、私たちのほしがっている一般性が欠けていると思われる。だが原型は、まさに原型としてすえるべきである。つまり、観察全体の性格であり、観察のかたちを決めるものとして。したがって原型は支配者なのである。そして原型が一般に妥当するのは、原型が観察のかたちを決めるからであって、原型にしか当てはまらないものが、すべての観察対象について述べられるからではない。
 というわけで、誇張と独断にあふれた意見にたいしては、いつもかならず、こう質問してもらいたい。「これにかんして本当に正しいのは、どういうことか」。あるいはまた、「いったいどんな場合に、そうなのか」。
MS 111 119: 19.8.1931
『ジンプリツィシムス (阿呆物語)』から。技術の謎。
(建築中の端の前に立っている二人の教授の絵)。上のほうから声が聞こえる。「そりゃ、こっち──ふやぁ──そりゃ、こっち、だって──あとで、すぐ、いっしょに、へっくりけえすんだ!」。「同僚教授殿、わからんものですな。こんなに複雑で精密な仕事が、こんな言葉で、進行されておるとは」。
MS 111 132: 23.8.1931
「哲学って、ぜんぜん進歩しないんですね」とか、「哲学って、その昔、ギリシャ人が頭を悩ませていたのとおなじ問題で、いまも頭を悩ませているんでしょう」とか。何度も何度も聞かされてきたセリフである。ところで、そういうセリフを口にする人は、なぜそうなのか、理由がわかっていないのだ。その理由とは、われわれの言語があいかわらずおなじでありつづけているからであり、われわれの言語が何度も何度もわれわれをおなじ問題へと誘惑するからである。「sein (存在する、……である)」という動詞は「食べる」とか「飲む」と似た働きをするようだが、この「存在する、……である」という動詞があるかぎり、また、「同一の」とか「真の」とか「偽の」とか「可能な」という形容詞があるかぎり、また、時間の流れとか、空間のひろがりとかが語られるかぎり……、何度も何度も、おなじような謎めいた困難にぶつかることになるだろう。そして、どんな説明によっても解決できない問題を、見つめることになるだろう。
 ちなみに、こういう堂々めぐりは、この世ならざるものへの望みを満足させてくれる。というのも、「人間の知性の限界」を見ているのだと思うことによって、当然、限界のむこうまで見えているのだと思うからである。
「……哲学者たちは、プラトンが近づいた以上には『実在』の意味に近づいてはいない……」という英語を読む。なんと奇妙な事態だろう。それでは、プラトンがずいぶん遠くまで行けた、ということになってしまう。あるいは、私たちがプラトンより遠くに行けなかった、ということになってしまう。どちらにしても、なんと奇妙な話だろう。プラトンがそんなに利口だったから、ということだろうか。
MS 111 133: 24.8.1931
クライストがこんなことを書いている。「思想をそのまま言葉なしに伝えることができれば、詩人にとってはいちばん好ましいことでしょう」。(なんと風変わりな告白だろう。)
MS 111 173: 13.9.1931
よく言われることだが、新しい宗教は、古い宗教の神々に、悪魔の烙印を押す。だが実際のところ神々は、烙印を押される前に、悪魔になってしまっているだろう
MS 111 180: 13.9.1931
巨匠の作品は、星である。私たちのまわりを昇ったり沈んだりする。だから、いまは沈んでしまっている偉大な作品にも、かならず時がめぐってくるだろう。
MS 111 194: 13.9.1931
(メンデルスゾーンの音楽は、完全なとき、音楽のアラベスクである。だから私たちは、メンデルスゾーンには厳しさがすっぽりと抜け落ちていることを痛感するのだ。)

ユダヤ人は、西洋文明のなかではいつも、自分にあわない尺度で測られる。多くの人にとっては明らかに、ギリシャの思想家は、西洋的な意味での哲学者でもなければ、西洋的な意味での学者・科学者でもなかったし、また、古代オリンピックの参加者は、スポーツマンでもなかったし、西洋的な分類にはなじま<ない>。ところでユダヤ人の場合も、それとおなじことが言える。
 そしてわれわれの<言語の>単語が尺度そのものだと思われるために、いつもユダヤ人を不当に扱ってしまう。そしてユダヤ人が、あるときは過大評価され、あるときは過小評価される。この場合、シュペングラーがヴァイニンガーを西洋の哲学者に分類していないのは、適切なことだ。

人間の行為を最終的なかたちで弁護することはできない。確定している別の事柄との関連においてのみ、弁護できるのだ。
 いいかえれば、どうしてそういう行動をするべきなのか (するべきだったのか)、の理由としては、「そういう行動によって、こういう事態が生み出されるのだ」と言うことしかできない。とすると他方では、その事態を、目標として受けいれなければならなくなる。
MS 111 195: 13.9.1931
私が言い表せたことに意味があるのは、言い表わせないものが (つまり、私には秘密にみちたものに思え、私には言い表わすことができないものが)、背景にあるからかもしれない。
MS 112 1: 5.10.1931
哲学の仕事は──建築の仕事のように多くの局面にわたるものだが──本来はむしろ、自分自身にかんする仕事である。自分をどうとらえるか。ものをどう見るか。(ものにどんなことを期待しているか。)
MS 112 46: 14.10.1931
えてして哲学者は、不器用なマネージャーになりがちだ。自分では仕事をせず、ただ部下が仕事をきちんとやっているかどうかを見張っているだけでいいのに、部下から仕事を取り上げ、ある日、気がつくと、部下たちの仕事の山にうずもれてしまっているのである。部下たちのほうは批判的な目で、それを傍観しているのだが。
MS 112 60: 14.10.1931
思想がもう着古されていて、使いものにならない。(似たようなことをラボーアが、楽想について言っているのを聞いたことがある)。クシャクシャになってしまった銀紙は、二度とスベスベにはならない。私の考えのほとんどすべてが、ちょっとクシャクシャになっている。
MS 112 76: 24.10.1931
実際に私はペンで考えている。手がなにを書いているのか、頭が知らないことが、よくあるのだから。

(哲学者は、しばしば幼児のようだ。幼児はまず鉛筆で、好き勝手な線を書きなぐってから、大人に「これ、なあに?」とたずねる。──こんなことがあった。大人が子どもに何度か、絵を描いてみせて、「これは男の人」、「これは家」などと言ったのである。すると子どもも線を何本か引いて、「じゃ、これ、なあに?」とたずねたのだ。)
MS 112 114: 27.10.1931
ラムゼイはブルジョワ思想家だった。つまり彼の思想の目的は、所定の地区の問題を整理することだった。国家の本質について考察することはなかった。すくなくとも、好んで考察することはなかった。彼が考察したのは、この国家をどうやって理性的な組織にできるか、だった。「この国家が唯一可能な国家ではない」などと考えたときは、不安になったり、退屈したりした。できるかぎり速く彼は、この国家の基礎について考察できる場所にたどり着きたかった。その場所こそ、能力が発揮できるところであり、本来の関心があるところだった。本来()哲学的な考察となると、彼は不安になり、(考察に成果があったとしても)その成果をつまらぬものとして、脇に押しのけてしまった。
MS 112 139: 1.11.1931
どんなに巨大な望遠鏡であっても、接眼レンズは、人間の眼より大きなものであってはならない。ここから生まれるアナロジーは、奇妙なアナロジーではないだろうか。
MS 112 153: 11.11.1931
トルストイによると、「ある対象をみんなが理解できることが、その対象の意味(重要性)である」。これは正しくもあり、まちがってもいる。ある対象が重要な意味をもっている場合、なぜ、その対象は理解しにくいのか。対象の理解のためには、わかりにくい事柄にかんしてなにか特別の指導が必要だからではない。対象の理解と、大部分の人が見ようとするものとが、対立しているからだ。というわけで、じつに明白なものが、きわめて理解しにくいものとなる。克服すべき困難は、知性ではなく、意思のほうにある。
MS 112 221: 22.11.1931
今日の哲学教師が、教え子に料理を出すのは、教え子の気に入る味だからではなく、教え子の味覚を変えるためである。
MS 112 223: 22.11.1931
私はもっぱら鏡であるべきだ。鏡のなかで私の読者は、彼自身の思考をゆがんだままの姿でながめることによって、思考のゆがみを直すことができる。
MS 112 225: 22.11.1931
言葉はすべての人に、おなじような罠をしかけている。よく保存された、まちがった道の巨大なネットワークが、その罠だ。というわけで私たちは、おなじような道を歩いていく人を、つぎつぎに見かけることになるわけだが、その人がこんどはどこで曲がるのか、そしてまたどこでその人が、分かれ道になっていることに気づかないまま、まっすぐ歩いていくのか、などなどは私たちにはお見通しである。だから私としては、まちがった道が分岐しているすべての場所に標識を立てて、危険な地点を回避させるべきなのだ。

エディントンが「時間の方向」やエントロピーの法則について言っていることは、結局、こういうことになる。「もしも人間がある日、後ろ向きに歩きはじめるなら、時間もその方向を変えるだろう」。お望みなら、もちろんそう言ってもかまわない。ただし、ひとつだけ、はっきりさせておかなくてはならない。つまり、そのように言うとは、人間が歩く方向を変えた、と言うことにほかならないのだ。
MS 112 231: 22.11.1931
ある人が、人間を買い手と売り手にわけた。だが、買い手が売り手にもなる、ということを忘れていた。そのことを注意してあげれば、その人の文法は変わるだろうか。
MS 112 232: 22.11.1931
コペルニクスやダーウィンの本当の功績とは、真の理論を発見したことではなく、実り豊かな新しい見方を発見したことである。
MS 112 233: 22.11.1931
ゲーテが本当に見つけたかったのは、生理学的な色彩理論ではなく、心理学的な色彩理論だったのではないだろうか。
MS 112 255: 26.11.1931
「死後には、時間のない状態がはじまる」とか、「死とともに、時間のない状態がはじまる」と言う哲学者がいる。だが彼は、「後」や「とともに」や「はじまる」を時間的な意味で言ったのだ、ということに気づいていない。また、時間というものが彼の文法に依存している、ということにも気づいていない。
MS 113 80: 29.2.1932
よい建築から受ける印象は、それがなにかの思想を表現している、ということだ。それを忘れないように。また、よい建築にたいしてはジェスチャーで反応したくなる。
MS 156a 25r: ca. 1932-1934
他人の深層をもてあそぶな。
MS 156a 30v: ca. 1932-1934
顔は、からだの魂である。
MS 156a 49r: ca. 1932-1934
自分の性格を外からながめることは、ほとんどできない。自分の書いたものについても同様である。
 私は、自分の書いたものを、一面的にながめてしまうので、他人の書いたものとおなじ土俵で見たり、比較したりすることができない。
MS 156a 49v: ca. 1932-1934
なにも言わないのに匹敵するほど、すばらしいことを言うのは、芸術ではむずかしい。
MS 156a 57r: ca. 1932-1934
私の思考には、すべての人の思考と同様、以前の私の(死んでしまった)思想のひからびた衣服が、ぶらさがっている。
MS 156a 58v: ca. 1932-1934
ブラームスの音楽における思想のつよさ
MS 156b 14v: ca. 1932-1934
さまざまな植物。人間のようなその性格。バラ、アイビー、草、オーク、リンゴの木、穀物、ヤシ。言葉のもっているさまざまな性格との比較。
MS 156b 23v: ca. 1932-1934
メンデルスゾーンの音楽の特徴を述べたいなら、こう言えばいいのではないか。メンデルスゾーンは難解な音楽を書かなかったのかもしれません。
MS 156b 24v: ca. 1932-1934
どんな芸術家でも、ほかの人から影響をうけており、その影響の跡(というもの)を作品のなかに示している。だが私たちが問題にするのは、芸術家その人の人格だけなのだ。ほかの人から受け継いだものは、卵の殻でしかない。卵の殻だから私たちは注意深く扱うだろうが、私たちの精神の栄養にはならないだろう。

ときどき)こんなふうに思えることがある。すでに私は、歯のない口で哲学をしているのではないか。そして、歯のない口でしゃべるほうが、本来の、価値あるものではないか、と。私はクラウスに、これに似たものを感じる。それを堕落とは考えないが。
MS 156b 32r: ca. 1932-1934
たとえば誰かが「Aの目はBの目より表情が美しい」と言うなら、私はこう言いたい。「彼が『美しい』という言葉で意味しているのは、『美しい』と呼ばれるすべてのものに共通するものとは、たしかにちがうものだ」。むしろ彼は、ごくささやかな土俵のうえで、「美しい」という言葉でゲームをしているのである。だがそれはどこに表われているのか。ふと説明を思いついて私は、「美しい」という言葉の意味を狭く特定できるようになったのだろうか。いや、ちがう。──だが私は、目の表情の美しさを、鼻の形の美しさと、比較する気にすらならないかもしれない。
 もちろんこんなふうに言うこともできるだろう。二つの単語からなりたっている言語があるとれば、この場合、共通項を指摘することはできないだろう。そうすると私としては安心して、特別なその二つの単語のうちから一つを選んだとしても、私の言いたかった意味がそこなわれてしまうことにはならないだろう。
 こう言うこともできる。では私は個別のケースで、「規則」とか「植物」といった言葉を、どのように説明すればいいのだろうか。この質問によって、「私の言いたいこと」がはっきりするだろう。
「庭師がこのガラスの温室でとても美しい植物を育てている」。たとえば私は、そう言ったことによって、ある人になにかを伝えようと思っているわけだが、そのためには、「植物」と呼ばれているものに共通するものを、その人が知っている必要があるのか、という問題がある。その必要はない。この場合は、いくつかの具体例や二、三枚の絵によって、ちゃんと説明することができただろう。
 同様の問題。「これからこのゲームの規則を説明しよう」と言うとき、私は相手に期待しているのだろうか。「規則」と呼ばれているものに共通なものを知っていることを。
MS 145 14r: Herbst 1933
「Aは目が美しい」と私が言うと、「彼の目のどこが美しいのかね」とたずねられるだろう。そこで私は、「アーモンドの形、長いまつげ、デリケートなまぶた」などと答えることになる。
 その彼の目と、これまた私が美しいと思うゴシック教会とに、共通するものはなにか。「目からも、教会からも、似たような印象をうけることだ」と言うべきだろうか。では、「どっちを見ても、手がスケッチしたがるのが、共通点だよ」と言ったとしたら、どうだろう。いずれにしても、美というものの狭い定義にはなるだろう。
 しばしばこんなふうに言うことかできるだろう。「なにかが『よい』とか『悪い』と言うとき、その理由を考えてみなさい。その場合、『よい』という言葉の、特別な文法がはっきりするだろう」。
MS 145 17v: 1933
哲学にたいする私の態度は、「そもそも哲学は、詩のように作ることしかできない」という言葉に要約できるだろう。この言葉から、私の思考がどこまで現在の、未来の、あるいは過去のものであるかが、わかるような気がする。この言葉によって私は、自分のやりたいことを完全にはできない者だと告白しているわけだから。
MS 146 25v: 1933-1934
論理でトリックを使うとき、自分以外の誰をトリックにかけることができるのだろうか。
MS 146 35v: 1933-1934
作曲家の名前。ときどき私たちは、投射方法のほうを既定事実とみなすことがある。たとえば「どんな名前がこの人の性格にふさわしいのだろうか」と考える場合。しかし私たちはときどき、性格を名前に投射して、名前のほうを既成事実とみなすことがある。というわけで、私たちがよく知っている大巨匠たちには、まさしく、彼らの作品にふさわしい名前がついているような気がするのだ。
MS 146 44v: 1933-1934
「次の世代がこの問題に取り組んで、解決してくれるだろう」。ある人がそう言うとき、たいていそれは、一種の願望夢にほかならない。自分がやりとげるべきだったのに、やりとげられなかったことの弁解をしているのだ。父は、自分が達成できなかったことを、息子に達成してもらいたいと願う。そうなれば、自分に解決できなかった問題が、解決されるからだ。だが息子のほうは、また新しい課題を背負うことになる。つまり、「課題が未解決のままであってほしくない」という願いが、「その課題は次の世代にひきつがれるだろう」という見通しのなかに身を隠すのである。
MS 147 16r: 1934
プラームスの圧倒的な能力
MS147 22r:1934
「これが、実際に見えたものだ」と言うとき、私は自分の前を指す。ところが私が横とか後ろを──つまり私が見ていないものを──意味しているのなら、そうやって指すことは、私にとってなんの意味もなくなってしまうだろう。つまり私は、なにも指していないのではなく、前を指しているのだから。
(急いでいるときは、クルマのなかで思わずクルマを押しているだろう。そんなことをしてもクルマを押したことにはならない、とわかっているのに。)
MS 157a 2r: 1934
芸術のまねごとをするとき、私がもちあわせているのは実際、よい作法くらいである。
MS 157a 22v: 1934

無声映画時代、すべてのクラシックが映画に動員された。ただしプラームスとワーグナーを別として。
 ブラームスが映画に合わないのは、あまりにも抽象的だからだ。興奮する場面でべートーヴェンやシューベルトの音楽が鳴っているのは考えられることだし、場合によっては映画をとおして、ある意味で音楽を理解することもできるだろう。だがプラームスの音楽は理解できない。逆にプルックナーは映画に合っている。
MS 157a 44v: 1934 oder 1937
(ことによるととくに数学における)哲学的な研究と、美学的な研究とは奇妙に似ている。(たとえば、この服のどこがまずいか、どういうのがふさわしいか、など。)
MS 116 56: 1937
おまえの誇りという建物は取り壊されるべきだ。それは恐るべき大仕事である。
MS 157a 57r: 1937
一日のうちに地獄の恐怖を味わうかもしれない。そのための時間はたっぷりある。
MS 157a 57r: 1937
簡単にスラスラ読めるスクリプト。書くことはできても簡単には解読できないスクリプト。両者の作用は大きくちがう。スクリプトは宝石箱に似ていて、そのなかに思想がしまいこまれる。
MS 157a 58r: 1937
感覚にはたらきかけないもの、たとえば数、のほうが、「純粋」である。
MS 157a 62v: 1937
捧げ物を用意して、それを自慢するなら、おまえは、おまえの捧げ物といっしょに地獄堕ちだ。
MS 157a 66v c: 1937
仕事の光は美しい。だがそれがほんとうに美しく輝くのは、別の光に照らされたときだけである。
MS 157a 67v c: 1937
「うん、そういうことだ。そうにちがいないんだから」と、君は言う。

(人間はほんらい百歳まで生きる──ショーペンハウアー)
「もちろん、そうにちがいない」。まるで、創造主の意図がわかったかのようなセリフ。システムを理解したというわけだ。
「では人びとは実際、何歳まで生きるのか」は、問題にしない。皮相な質問のように思えてしまうからである。もっと深く理解したというわけだ。
MS 157b 9v: 1937
なぜならわれわれの主張が公平を欠いたり、空転しないようにするには、われわれの考察においては、理想を、あるがままの現実として、すなわち比較の対象として、──いわば物差しとして──差し出すしかないのである。つまり理想といっても、あらゆるものが合致しなくてはならないような先入観ではないのだ。まさにこの点にこそ、哲学がじつに陥りやすい教条主義があるのである。

さて、そのときシュペングラー風の考察と私の考察との関係はどういうものなのだろうか。
 シュペングラーが公平でないのは、理想が、考察のかたちを決める原理として差し出されたとき、その理想の尊厳がなにひとつ失われないことである。結構な尺度の単位だ。─ ─
MS 157b 15v: 1937
ちょっとましな睡眠。はっきりした夢。抑うつ気味。天気と健康状態。
 人生の問題を解決するには、問題を消してしまうという方法がある。
 人生に問題があるということは、君の人生が、人生のかたちに合っていないということだ。とすれば、君の人生を変えるしかない。そして君の人生がかたちに合えば、問題が消える。
 ところでわれわれは、こう思ってはいないだろうか。人生に問題を感じない者は、なにか大切なこと、いや、いちばん大切なことに盲目だ、と。
 私は、こう言いたいのだろうか。惰性で生きている者は、いわばモグラのように、まさに盲目であるのだが、見ることさえできれば、問題が見えるのだが、と。
 あるいは私は、こう言うべきではないだろうか。正しく生きている者は、問題を悲しいものとは感じず、つまり、厄介な難問とは感じないで、むしろ楽しいものだと感じる。したがって問題を、いわば人生をとりかこんでいる明るいエーテルと感じるのであって、疑わしい背景とは感じないのである、と。
MS 118 17r c: 27.8.1937
以前、年配の物理学者たちは、自分が物理学をやっていくには、あまりにも数学がわかっていないということに突然気づいたそうである。ほとんど似たような話が、今日の若者にも当てはまるだろう。人生の奇妙な要求にたいして、まともな常識がもう役立たずだという状況に彼らは、突然、投げ出されているのだ。なにもかもが錯綜しているので、その克服のためには特別の分別が必要なのである。つまり、ゲームが上手にできるだけは十分ではない。これからどんなゲームをやるべきなのか、という問題かたえず生じているのだから。
MS 118 20r: 27.8.1937
マコーレーのエッセイには、すばらしい点がたくさんある。ただし人間にかんする価値判断だけは、わずらわしくて余計だ。「大げさな身ぶりはやめて、言わなければならないことだけ言いたまえ」と言いたくなる。
MS 118 21v: 27.8.1937
思想もまた、熟してもいないのに木から落ちることがある。
MS 118 35r c: 29.8.1937

哲学をするとき、たえず姿勢を変えることが私には大切である。あまり長時間、片方の足でだけ立っていると、しびれてしまう。
 それは長時間、山登りをするときに似ている。疲労を回復し、ほかの筋肉を使うために、すこしの距離、後ろむきに歩く。
MS 118 45r c: 1.9.1937
すこし冷えてきて、考えられなくなる。気味の悪い天気。
 キリスト教というのは、人間の魂に起きたこと、起きるだろうことについての、教義でもなければ、理論でもないと思う。キリスト教は、人間の生涯で実際にあったことの記録なのだ。「罪の意識」は実際にあったことだし、絶望も、信仰による救いも、実際にあったことだ。(バニヤンのように)そういうことについて語る人は、自分の身に起きたことを書いているだけなのである。誰がなんと言おうとも。
MS 118 56r c: 4.9.1937
毎日のように、そしてしばしば私は音楽を思い浮かべるのだが、そのさい──いつもと思うが──上の前歯と下の前歯をリズミカルにこすりあわせている。ずっと以前から気づいていたが、たいていは無意識にそうやっている。それどころか、こういうふうに歯を動かすことによって、私は音を思い浮かべているかのようだ。
 こうやって頭のなかで音楽を聴くことは、じつによくあることかもしれない。もちろん私は歯を動かさずに、音楽を思い浮かべることはできるが、そのとき音は、ずっとおぼろげで、もっとぼんやりし、的確でなくなる。
MS 118 71v c: 9.9.1937
たとえば、絵のような文章(命題)を、人びとにとって思考を縛るドグマとして固定したとする。しかもそれが、意見を決定するのではなく、意見の表現を完全に支配するドグマであるとしよう。するとそれは独特の効果をもつだろう。人びとは絶対的な圧制のもとで暮らしていることを肌で感じるだろう。だからといって、自分たちは自由ではない、と声をあげることはできない。これと似たようなことをカトリック教会がやっているのではないか。なにしろドグマには、表現の形を決定する力があるので、どんな主張がなされようと、ドグマが揺らぐことはない。どのような実際的な意見でも、ドグマに調和させることができるのだ。もちろんそれが、簡単な場合もあれば、むずかしい場合もある。ドグマは、意見を制限する壁ではなく、実際には壁とおなじような働きをするプレーキに似ている。いわば、君の運動の自由を制限するために、君の足に重りをつけるようなものだ。おかげでドグマは、反論も攻撃もされないのである。
MS 118 86v: 11.9.1937
思考にも、耕す時と収穫の時がある。
 毎日たくさん書くのは、うれしい。子どもじみた話だが、ともかくうれしい。
MS 118 87r c: 11.9.1937
本を書こうなどと思わず、勝手にものを考えているとき、私はテーマのまわりを跳びはねている。私には自然で、唯一の思考スタイルだ。無理に一本の線にそって考えつづけることは、私には苦痛である。なのに、それをやってみろと言うのか??
 思想を整理するなんて、まるで意味がないことかもしれないのに、そのために私は、言いようのない徒労を重ねている。
MS 118 94v: 15.9.1937
ときどきこんなふうに言う人がいた。「あれやこれの判断ができません。哲学の勉強をしたことがないので」。こんなナンセンスな発言を聞くと、いらいらする。というのも、「哲学は科学です」と申し立てられているわけだから。しかも哲学が医学かなんかのように思われているのだ。──だが、次のようなことは言える。たとえば、たいていの数学者のように、哲学的な研究を一度もしたことがない人には、その種の研究や検査に必要な適切な視覚器官がそなわっていないのである。ほぼそれは、森でべリーを探しなれていない人が、べリーを見つけられないのに似ている。その人の目がそういうものに敏感でないし、とくにどんな場所で目をこらさなければならないか、わかっていないからである。同様に、哲学の練習をしたことのない人は、難問が草むらにひそんでいる場所を、ことごとく通りすぎてしまう。哲学の練習をしたことのある人なら、そこに立ちどまり、まだ難問を発見していないにもかかわらず、「ここにあるぞ」と感じるのだ。──だが、練習をつんだ人ですら、「ここに難問があるぞ」とちゃんと気がついても、それを発見するまでには、ずいぶん長いあいだ探さなくてはならない。とはいえ、それは驚くにはあたらない。
 うまく隠されているものを発見するのは、むずかしい。
MS 118 113r: 24.9.1937
宗教のたとえ話は奈落の崖っぷちを歩いている、と言うことができる。たとえば、B〈バニヤン〉のアレゴリー。もしもそれに追加して、「そしてこれらの罠、泥沼、脇道は、すべて道の神様が用意されたもので、怪物、泥棒、強盗も、神様がお造りになったものです」と言われたとしたら、どうなるかを考えればいい。
 もちろん、追加された言葉は、たとえ話の意味なんかではなく、誰にでもすぐに思い浮かぶものだ。そんな言葉を追加されれば、多くの人にとっても私にとっても、たとえ話からカがそぎ落とされてしまう。
 だが、追加の言葉が──いわば──黙秘される場合、たとえ話の力は格別である。ところが、どこでもかしこでも「私はこれをたとえ話として言っているのです。でも、ほら、ここのたとえ話はしっくりしてません」などとオープンに言われたなら、事情はちがってくるだろう。騙されたとか、不正な手段で説得されようとしているとは、感じないだろうからだ。誰かにたとえばこう言うことができる。「いいことがあったら、神に感謝しなさい。だが、悪いことがあったからといって、不平を言ってはなりません。もちろんそれは、あなたがある人から、いいことと悪いことをかわりばんこに味わわされたとき、やっていることでしょうが」。処世訓が比喩で語られることがある。それらの比喩は、われわれのなすべきことを述べるだけで、その理由を語ることはできない。理由までを語るには、ほかの点でもびったりした比喩でなくてはならないだろう。「このミツパチにハチミツのお礼を言いなさい。親切な人がハチミツを用意してくれたみたいじゃないですか」と、私は言うことができる。これは、理解できる発言であり、私があなたにどんなふうな行動を望んでいるのか、を述べている。だが私は、「ミツバチにお礼を言いなさい。ほら、彼らは親切なんだから」とは言えない。そう言った瞬間に、あなたがミツバチに刺されるかもしれないのだから。
 宗教は、「こうせよ」とか「そう考えよ」と言う。しかし、その理由を説明することはできない。もしも説明をこころみようものなら、反感を買うだけだ。宗教がどんな理由をあげようとも、それとは逆の理由があるものである。ハチに刺されてもビクともしない確固たる反対理由が。
 次のように言うほうが説得力がある。「そう考えなさい。とても奇妙に思えるかもしれないが」とか、「そうしてみませんか。とても嫌なことでしょうが」。

恩恵の選び (至福をえる人間を神が選びだすこと)。そう書いてもいいのは、じつに恐ろしく苦しんでいるときだけである。だが、そのときには、まったく別の意味になるが。というわけで、恩恵の選びを真理として引用してはならない。もっとも、本人が激しい苦悩にさいなまされている場合は、かまわないが。──要するに、恩恵の選びは、理論などではないのだ。──あるいは、こうも言える。それが真理であるとしても、それは、一見してストレートに言い表わされているような真理ではない。むしろ理論というよりは、ため息とか、叫びなのだ。
MS 118 117v: 24.9.1937
ラッセルと話をしているとき、しばしば彼は「論理地獄!」という言葉を口にした。──その言葉は、私たちが論理の問題を考えるときに感じたことを、完全に言い表わしているつまり、論理というものは、とてつもなくむずかしい。論理は、かたい──論理は、かたくてツルツルしているのだ。
 そういうふうに感じるのは、主として次のような事実のせいではないか。つまり、あとで考えたくなるような言葉が新しく姿をあらわすたびに、以前の説明が不必要だと証明されてしまうのだ。──ところでこれは、ソクラテスが概念を定義しようとしたときに、陥った困難である。たえず単語の新しい用法があらわれては、これまでの用法から導かれていた概念とは両立できないように思えるのだ。「いや、そうじゃないぞ」と言えば、「だが、そうなんだけど」と言う。こういう対立をつねにくり返すことしかできないのである。
MS 119 59: 1.10.1937
福音書では穏やかに清らかに湧きだしている泉が、パウロの手紙では、ブクブク泡を立てているみたいだ。すくなくとも私にはそう思える。ことによると私自身が不純であるからこそ、パウロの手紙が濁って見えるだけなのかもしれない。しかし、こういう不純さが清らかなものを不純にしてはならない理由はあるのだろうか。どうも私には、パウロの手紙には、人間の情念が見えるような気がするのである。それは、誇りや怒りといったものであり、福音書の謙虚さとは矛盾するものだ。なにしろパウロの手紙では、自分というものが強調されている──それも宗教的な行為として──ように思えるのだが、それは福音書には見られないことである。私としては、これが冒瀆とならないことを願いながら、「キリストなら、パウロにどう言っただろうか」と質問したい。
 だがその質問には、当然、このような答が返ってくるかもしれない。「それは、あなたにどんな関係があるのかね。あなたのほうこそ、もっと行儀よくするべきじゃないか。いまのままじゃ、パウロの手紙にどういう真理があるのか、見当もつかないだろう」。

福音書のほうが──これも私の感じだが──すべてが質素で、謙虚で、単純である。福音書が小屋なら、パウロの手紙は教会である。福音書では、人間はみな平等で、神みずからが人だが、パウロの手紙ではすでに、位階とか官職といったヒエラルキーのようなものがある。──と言っているのは、いわば私の嗅覚である。
MS 119 71: 4.10.1937
私たちを人間らしくあらせたまえ。──

紙袋に入れっぱなしにしていたリンゴを、たったいま取り出した。多くのリンゴは、半分に切って捨てなければならなかった。それから、私が書いたセンテンスをひとつ書き写したのだが、その後半がまずく、半分腐ったリンゴのように思えた。こういうことがよくあるのだ。私が経験することは、どんなことでも、思案中の事柄のイメージやモデルになる。(これは、ある意味では女性的な態度だろうか。)
MS 119 83:: 7.10.1937
仕事のとき私は、多くの人と似たようなことをしている。なにか名前を思出そうとするのだが、どうしても思い出せない。そういう場合、こんなふうに言われる。「ほかのことを考えなさい。そうすれば思い出すよ」──というわけで私は、いつもほかのことを考えざるをえなかった。長いあいだ探していたものを、思い出せるように。
MS 119 108: 14.10.1937
言語ゲームの起源であり、そのプリミティプな形式とは、リアクションである。リアクションがあってはじめて、さらに複雑な形式が育つのだ。
 私は言いたい。言語とは、精密にし洗練することである。〈はじめに行為ありき〉。
MS 119 146: 21.10.1937

「もしもキリスト教がわかりやすくて気持ちのいいものであるのなら、どうして神は聖書のなかで、天地を動かし、永劫の罰をちらつかせて脅かしたのだろうか」と、キルケゴールが書いている。ここで質問。「ではなぜ、聖書はそんなにあいまいなのか。もしも恐ろしい危険を警告するつもりなら、謎を出したりするだろうか。その答が警告となるような謎を」──だが、聖書はほんとうにあいまいだ、と誰が言うだろうか。謎を出すことが聖書の本質だ、とは考えられないか。にもかかわらず、もっとストレートな警告なら、まちがった効果をもたらしたにちがいない、とでも? 神は、神の子の生涯を、四人の福音書家に報告させているが、報告はそれぞれ食い違っている。だが、こうは言えないだろうか。重要なのは、その報告には、ごくありふれた「歴史の確からしさ」以上のものがないことである。というのもそれは、その報告が本質的で決定的なものとみなされないための配慮なのだ。それは、文字が分不相応に信じられないための配慮であり、精神・霊 (ガイスト) が分相応に認められるための配慮なのである。つまり、君が見なければならないものは、きわめて精確な最高の歴史家によってすら伝えられないものである。だから、平凡な記述で十分なのだ。いや、平凡な記述のほうが好ましい。というのも、君に伝えられるべきものは、平凡な記述でも伝えることができるのだから。(ちょうどそれは、平凡な舞台装置のほうが、洗練された舞台装置よりもよく、絵に描いた木のほうが、実物の木よりもいいのに似ている。──平凡なほうが、肝腎な点から観客の注意をそらせないからだ。)
 大切なこと、君の人生にとって大切なことは、精神・霊 (ガイスト) が、聖書の言葉に吹きこんでいる。君はただ、聖書の記述によってはっきり示されているものを、はっきり見るだけでよいのだ。(ここに書いたことが、どれくらい精確にキルケゴールの精神に即しているのか、私にはわからない。)
MS 119 151: 22.10.1937
宗教では、こういう具合になっているはずだろう。つまり、信仰の深さの段階におうじて、それぞれにふさわしい表現があるので、ある表現は、ワン・ステップ低い段階では無意味である。高い段階で意味をもつ教義は、いま低い段階にいる者にとって、ゼロに等しく意味がない。その教義は、まちがってしか理解できない。だからその教義の言葉は、低い段階にいる者には当てはまらない
 たとえば、パウロの「恩恵の選び」の教義は、私の段階では、無信仰の、醜いナンセンスである。その教義は私には向いていない。そこで差し出されているモデルを、私は、まちがって使うことしかできないのだから。それが敬虔ですぐれたモデルであるとしても、まったく別の段階のためのものである。私が使えるモデルとはまったく別なふうに、使われる必要がある。
MS 120 8: 20.11.1937
キリスト教は、歴史上の真理にもとづいているのではない。われわれに(歴史上の)レポートをあたえて、「さあ、信じろ」と言うのである。「ただし、歴史のレポートに接するときのように信じるのではない」。──そうではなくて、なにがなんでも信じるのだ。それができるのは、ある人生の結果であるとみなすときだけだが。さあ、ここにレポートがある。──だが、ほかの歴史のレポートのように、これを扱ってはならない。君の人生の、まったく特別な場所に置いてやるのだ。──そうしても、どこにも逆説はない」

もしも私が、いかに自分が矮小な人間であるか、ということに思い至ったなら、もっと謙虚な人間になるだろう。
 誰も自分自身についてまちがいなく、「おれは糞みたいな奴だ」と言うことはできない。なにしろ私がそう言うとしたら、ある意味でそれは正しいかもしれないが、自分ではその正しさに浸ることができない。そんなことができるなら、私は狂人になるか、自分を変えるしかないだろう。
 A・R とコーヒーを飲む。以前とはちがうが、悪くはなかった。
 とても奇妙に聞こえるかもしれないが、福音書に書かれている歴史的な報告は、歴史的な意味では、まちがっているかもしれないと証明することができる。しかし、だからといってそのために、信仰が揺らぐわけではない。しかもそれは、信仰がたとえば「理性による普遍的な真理」と関係しているからではない。そうではなくて、歴史上の証明 (「歴史上の証明」というゲーム) が信仰とは無関係だからである。信仰のある(つまり、愛のある)人間が、そういうレポート(福音書)に、飛びつくのである。ほかでもないこのことこそが、その正しさを保証している。
 信仰ある者はそのレポートにたいして、歴史上の真理(確からしさ)でもなければ、「理性による真理」でもないような関係をもつ。要するにそういうものが存在するのである。(さまざまな種類のフィクションにたいしてさえ、われわれは、じつにさまざまな態度をとっているではないか。)
MS 120 83 c: 8.-9.12.1937
ありのままの自分であること、よりも真実に、自分自身について書くことはできない。それが、自分について書くことと、外部の対象について書くこととのちがいだ。どんなに背の高い人でも、自分を上からながめて、自分について書く。とはいえ、竹馬やハシゴに乗っているのではなく、素足で立っているのだが。
MS 120 103 c: 12.12.1937
私にとって大いなる恵みは、今日、仕事ができること。だが私は、どんな恵みもすぐに忘れてしまうのだ。
「精霊によらなければ、誰もイエスを主と呼ぶことはできない」という文章を読む。──たしかにそうだ。私はイエスを主とは呼べない。そんな呼び方は意味をなさないからだ。「手本」とか、そう「神」となら呼べるだろう。実際、そういう呼び名なら、理解することができる。だが「主」という言葉を口にしても、意味がない。キリストが私を裁きにやってくるだろう、とは思えないからだ。私にとっては意味をなさないからだ。かりに私がまったくちがった生き方をするなら、その場合にのみ、なにか意味をもつかもしれないが。
 この私にさえ、キリストの復活を信じさせるものは、なにか。ひとつ思想でゲームのようなものをやってみよう。──キリストが復活しなかったなら、あらゆる人間と同様、墓のなかで朽ちてしまう。彼は死んで朽ちている。その場合、キリストは、ほかのみんなと同様、教師 (ラビ) であり、もうわれわれを助けることはできない。われわれはふたたび見捨てられ、孤独になり、知恵と思弁に甘んじることになる。いわば、夢を見ることしかできない地獄の住人となり、いわば屋根一枚へだてて、天国から切り離されているのだ。だが、もしも私がほんとうに救われることになっているなら、──その場合──知恵や夢や思弁ではなく──私には確実さが必要となり、その確実さこそが、信仰なのだ。そして信抑とは、私のが、私のが必要とするものを信じることであって、私の思弁する知性が必要とするものを信じることではない。というのも、救いが必要なのは、私の心と、その情念──いわば心の血と肉──のほうであって、私の抽象的な精神ではないのだ。次のように言えるかもしれない。「だけが復活を信じることができる」。あるいは、「復活を信じるものこそが、愛である」。こうも言えるのではないだろうか。「救いの愛は、復活をも信じており、復活をもしっかりつかんで離さない」。疑いと戦うものこそが、いわば救いなのである。救いへの固執が、その信仰への固執であるにちがいない。とすれば、こういうことになる。「まず救われなさい。そして救いをしっかりつかんで離さないように。──そうすれば、その信仰をしっかりもっていることがわかるだろう」。そういうことが起きるのは、君がこの地上に足で立つのをやめて、天〔国〕にぶらさがるときだけである。そうなれば、すべてが様変わりし、いま君にできないことができるようになったとしても、「なんの不思議も」ない。(天〔国〕にぶ.らさがっている者を、地上に立っている者とおなじように見ることはできるが、カの働き具合がすっかり様変わりしているわけだから、立っている者とはまったくちがうことができるのである。)
MS 120 108 c: 12.12.1937
フロイトはこう考えている。狂気の場合、錠が壊れているのではなく、変形しているだけである。これまでの鍵ではもう開けられないが、仕様のちがう鍵なら開けられるかもしれない。
MS 120 113: 2.1.1938
ブルックナーの交響曲には始まりが二つある、と言うことができる。第一の思想の始まりと、第二の思想の始まりである。この二つの思想は、血縁関係ではなく、男女関係のように向き合っている。
ブルックナーの第九は、いわばペートーヴェンの第九にたいする異議申し立てである。そのおかげで、がまんできる曲になっている。もしも模倣のようなものとして書かれていたなら、どうしようもない曲になっていただろう。ブルックナーの第九とベートーヴェンの第九の関係は、レーナウの『ファウスト』とゲーテの『ファウスト』の関係に、つまり、カトリックのファウストと啓蒙主義のファウストの関係、などなどによく似ている。
MS 120 142: 19.2.1938
自分を欺かないことほど、むずかしいことはない。
MS 120 283: 7.4.1938  

ロングフェロー──
  昔日の技芸では
  工匠たちは目に見えぬ微細な部分のすみずみまで
  細心の注意をはらって仕上げた。
  あらゆるところに神々が宿っているのだから。
(これは、私の座右の銘にできるのではないか。)
MS 120 289: 20.4.1938
音楽とか建築に見られる、言語に似た現象。意味深い不規則性──それはたとえばゴシックに見ることができる (バシリオス大聖堂のも私の目に浮かんでいる)。バッハの音楽は、モーツァルトやハイドンの音楽より、言語に似ている。べートーヴェンの第九交響曲の第四楽章のコントラバスのレチタティーヴォ。(個別のテキストにつけた普遍的な音楽についての、ショーペンハウアーの発言も参照のこと)
MS 121 26v: 25.5.1938
哲学のレースで勝つのは、いちばんゆっくり走ることのできる者。つまり、ゴールに最後に到着する者だ。
MS 121 35v: 11.6.1938
精神分析をうけるのは、どこか、知恵の木の実を食べることに似ている。そのときわれわれが手に入れた知恵は、(新しい)倫理的な問題をわれわれに突きつけるのだが、その解決にはまるで役に立たない。
MS 122 129: 30.12.1939

なにがメンデルスゾーンの音楽に欠けているのか。「大胆な」メロディー?
MS 162a 18: 1939-1940
旧約聖書を、頭のない体とみたてるなら、新約は体であり、使徒の手紙は、頭にかぶせた王冠である。
 ユダヤの聖書、つまり旧約聖書のことだけを考えるとき、こう言いたくなる。この体には(まだ)頭が欠けている。この問題には解決が欠けている。この希望には成就が欠けている。だが私は、王冠をかぶった頭を、かならずしも想像するわけではない。
MS 162b 16v: 1939-1940
嫉妬は表面的なものである。──つまり、嫉妬がもっている典型的な色には深みがない。──ずっと下のほうにある情念は、ちがった色合いをしている。(だからといって、嫉妬のほうが非現実的だというわけでは、もちろんない。)
MS 162b 21v: 1939-1940
天才をはかる物差しは、人格である。──もっとも、人格をそなえているだけで天才になるわけではないが。
 天才は、「才能人格」の合計ではなく、ある特別な才能の形において現れた人格のことなのだ。人を助けようとして、勇敢に水に飛び込む者もいれば、勇敢に交響曲を書く者もいる。(あまり出来のよくない例だが。)
MS 162b 22r c: 1939-1940
天才のほうが、天才ではない実直な人より、たくさん光をもっているわけではない。──だが天才は、ある特定のレンズによって、光を焦点にあつめるのだ。

どうして心は、むなしい考えに──どう見てもむなしい考えに──動かされるのか。だが実際に、動かされているのである。
(どのようにして風は、──どう見ても風にすぎないのだが──木を揺らすことができるのだろうか。だが実際に、風が木を揺すっているのだ。このことを忘れるな。)
MS 162b 24r: 1939-1940
真実が言ないのは、──自分で自分がコントロールできなかった場合だ。真実が言ないのは、しかし、まだじゅうぶんに利口でないからではない。

真実が言えるのは、すでに真実のなかにいる者だけだ。まだウソのなかにいて、たった一度しか、ウソから抜け出して真実に手を伸ばさなかった者には、真実は言えない。
MS 162b 37r c: 1939-1940
自分の成功の上にあぐらをかくことは、雪のなかをハイキングしている最中に休むのとおなじくらい危険である。うとうとしはじめれば、眠ったまま死んでしまうのだから。
MS 162b 42v c: 1939-1940
願いというものは、じつにむなしい虚栄にみちている。それがわかるのは、たとえば私が、きれいなノートをできるだけ早く使い切りたいと思うときだ。なんの得にもならないのに、そうしたいと思うのは、たとえば私に馬力があることを示したいからではない。やり慣れたことをともかくさっさと片づけたいだけなのだ。それを片づけてしまったら、すぐに別のことを片づけはじめ、おなじことをくり返すにちがいないのに。
MS 162b 53r: 1939-1940
ショーペンハウアーはじつに粗野な人物である、と言えるかもしれない。つまり、洗練はされているのだが、ある程度の深さに達すると、突然そうではなくなり、このうえなく粗野になるのである。ほんらいの深さがはじまる場所で、彼の深さは消えてしまう。

ショーペンハウアーは自分をけっして反省しない、と言えるかもしれない。

下手くそな乗り手が馬に乗っているように、私は人生のうえにまたがっている。いまこの瞬間、私が振り落とされないのは、ひとえに馬の気立てのよさのおかげなのだ。
MS 162b 55v: 1939-1940
「(このメロディーからうける) 印象は、まったく言葉につくせない」──つまり、言葉では(私が伝えたいような)印象をあたえることができないのである。君には、このメロディーをきいてもらうしかない。
 もしも芸術に「感情」を生み出す力があるのなら、芸術を感覚的に近くすることも、結局、芸術が生み出した感情のひとつなのだろうか。
MS 162b 59r: 1939-1940
私の独創性は (この言葉が適切なものであるとしての話だが)、土地の新しさであって、種の新しさではないと思う。 (私には自分の種がないのかもしれない)。私の父に種をまけ。すると種は、ほかのどの土地ともちがった実を結ぶだろう。
 フロイトの独創性も、おなじ種類のものではないか。ずっと私は──理由がわからないまま──思ってきたのだが、精神分析の本当の種は、ブロイアーがまいたのであって、フロイトではない。ブロイアーの種子は、もちろん、ごくちっぽけなものにすぎなかっただろう。
勇気は、いつも独創的である。)

今日では、学者や科学者からは教えてもらい、詩人や音楽家などからは楽しませてもらうものだ、と思われている。だが、詩人や音楽家などから教わることがある、とは思いつかない。

ピアノをひく。人間の指がダンスをする。
MS 162b 59v: 1939-1940
シェイクスピアは人間の情念のダンスを見せてくれる、と言えるのではないか。だから彼は客観的でなければならない。客観的でなければ、彼は人間の情念のダンスを見せたりせず、──そのダンスについて演説しているだろう。だが彼はダンスのなかで人間の情念を見せてくれている。それも、自然主義的にではなく。(これはパウル・エンゲルマンに教えてもらった考えだ。)
MS 162b 61r: 1939-1940
新約聖書のたとえ話は、解釈に、好きなだけの深さを許容する。そのたとえ話は底なしだ。

新約聖書のたとえ話のスタイルのなさときたら、はじめて言葉を話す幼児よりもひどい。最高の芸術作品にさえ、「スタイル」と呼べるものが、いやそれどころか、「手法 (マニエラ)」と呼べるものが見られるのだが。
MS 162b 63r: 1939-1940
あらゆる偉大な芸術においえては、野生の動物が飼い慣らされている。
 たとえばメンデルスゾーンの場合は、そうではないが。あらゆる偉大な芸術には、人間の原始的な衝動が、根音バスとして響いている。それは(もしかするとワーグナーの場合のような)メロディーではなく、メロディーに深さをあたえるものである。
 その意味で、メンデルスゾーンを「複製的」芸術家と呼ぶことができる。──
 おなじような意味で、私が建てたグレーテルの家は、断固たる耳ざとさの、行儀よさの結果であり、(ひとつの文化などにたいする)偉大な理解の表現である。だがそこには、存分に荒れ狂いたい根源的な生命が、野生の生命が──欠けている。したがってこうも言えるだろう。そこには、健康が欠けている (キルケゴール)。(温室植物)
MS 122 175 c: 10.1.1940
授業のあいだにすぐれた成果を、それどころか驚くべき成果をもたらす力があっても、それだけで、すぐれた先生だとは言えない。というのも生徒たちは、じかに教えてもらっているあいだ、生来そなわっている以上の能力を引き出してもらうとしても、自力をつけてその高さまで伸びたわけではないので、先生が教室からいなくなると、たちまち化けの皮が剝がれてしまうからだ。それは私のことであるかもしれない。私はあのことを考えていた。(オーケストラの非公開の演奏は、マーラーが指揮しているあいだは、申し分なかった。だがマーラーが指揮をしなくなると、たちまちオーケストラは沈没したみたいだった。)
MS 122 190 c: 13.1.1940
「音楽の目標──感情を伝えること」
 これと関連して──当然、われわれは言うだろう。「いま彼は昔とおなじ顔をしている」──現在と昔を比べてみれば、ちがいがあるにもかかわらず。
「おなじ顔つき」という言葉は、どのように使われるのか。──その言葉が正しく使われていることは、どのようにしてわかるのか。ところで私は、その言葉を私が正しく使っていることを、どのようにしてわかるのか。
MS 122 235: 1.2.1940
怖じ気ではなく、怖じ気の克服が、称讃にあたいし、人生に生きがいをもたらす。器用さではなく、ましてや霊感などでもなく、勇気こそが辛子種であり、生長して大きな木となるのだ。勇気があるなら、生死と関係するようになる。 (私は、ラボーアとメンデルスゾーンのオルガン曲のことを思った)。だが他人に勇気がないことを見抜いたからといって、自分が勇気をもてるわけではない。
MS 117 151 c: 4.2.1940
「天才とは、勇気ある才能のことだ」と言えるかもしれない。
MS 117 152 c: 4.2.1940
愛されるようにつとめるのだ。感心されるのでは - なく。
MS 117 153 c: 4.2.1940
ときどき表現を言語から取り出して、きれいにしなくてはならない。──そうすれば、その表現をまた流通させることができる。
MS 117 156: 5.2.1940
私の目のまえにあるものを見るのは、なんとむずかしいことか。
MS 117 160 c: 10.2.1940
ウソを断念しようと思ってもよい。真実を言ってもよいのだ。
MS 117 168 c: 17.2.1940
適切なスタイルで書くとは、車両をきちんと線路にのせること。
MS 117 225: 2.3.1940
ある石が根を張ったみたいに動こうとしないときは、まず、まわりの石を動かすのだ。──

君の車両がレールからずれているとき、ともかくわれわれとしては、君をちゃんと軌道にのせたいのだ。そのあとは君が勝手に走ればいい。
MS 117 237: 6.3.1940
モルタルをはがすのは、石を動かすより、はるかに簡単だ。ともかく、できることを片づければ、ほかのこともできるようになる。
MS 117 253: 11.3.1940
因果論的な見方の危ない点は、「もちろん、こうならざるをえない」と言いたくなってしまうことだ。だがその一方で、「こうなる可能性もあったが、別なふうになる可能性もいっぱいあった」と考えるべきではないか。

民俗学的な見方をすれば、哲学を民俗学だと宣言することになるのか。いや、ちがう。ものごとをもっと客観的に見ることができるよう、遠く離れた場所に立場を定めたにすきないのだ。
MS 162b 67r: 2.7.1940
私にとって、もっとも重要な方法のひとつは、われわれの思想の歴史的展開を、実際の展開とは別なふうに想像することである。そうすれば、問題がまったく新しい面を見せてくれる。
MS 162b 68v: 14.8.1940
いわばア・プリオリに存在しているかのような理想的正確さという概念こそ、私が抵抗しているものである。時代が異なれば、正確さの理想も異なり、どれがいちばん高い理想というわけではない。
MS 162b 69v: 19.8.1940
ウソをつくより、本当のことを言うほうが、しばしば、ほんのちょっと苦痛なだけである。甘いコーヒーを飲むより、苦いコーヒーを飲むほうが、ほんのちょっと苦痛なように。それなのに私は、どうしてもウソをついてしまう。
MS 162b 69v: 19.8.1940
(私のスタイルは、まずい楽章に似ている。)

なにも釈明するな。なにもぼやかすな。あるがままを見て、語れ。──だがおまえは、事実に新しい光を当てているものを見る必要がある。
MS 123 112: 1.6.1941
われわれの馬鹿ばかしい愚行が、とても賢明なことである場合がある。
MS 124 3 c: 6.6.1941
ファイリング・キャビネットの適当な場所に、新しい引き出しをひとつつけると、信じられないほど便利だ。
MS 124 25: 11.6.1941
君は新しいことを言う必要がある。だがそれは古いことばかりだ。(N.)

もちろん君は古いことを言うだけでいい。──にもかかわらずそれは新しいのだ。

「とらえ方」が異なれば、使い方も異なってくるはずである。

詩人だっていつも気にしているにちがいない。「私の書いていることは、本当にウソではないのか」──この問いはかならずしも、「これは現実に起きることなのか」という意味ではない。

(……)

もちろん君は古いものをもってくるしかない。ただし建築のために。── (W.)
MS 124 25: 11.6.1941
年をとると、若いときと同様、いろんな問題が指からすべり落ちる。問題をクルミのように割ることもできなければ、しっかりつかんでいることもできないのだ。
MS 124 31: 12.6.1941
学者や科学者がとる態度は、なんと奇妙なのだろう。──「これはまだわかりません。だが、わかるはずです。時間の問題にすぎません。そのうちわかるでしょう」。まるでそれが当たり前であるかのような発言ではないか。──
MS 124 49: 16.6.1941
過度の要求はするな。おまえの正当な要求が水泡に帰すことを恐れるな。
MS 124 82: 27.6.1941
いつもいつも「なぜ」を問題にする人は、ベーデカーのガイドブックをのぞきながら、建物のまえに立ち、その建物の成立事情などなどを読むのに忙しくて、建物を見るのを忘れてしまう旅行者に似ている。
MS 124 93: 3.7.1941
対位法は、作曲家にとって異常にむずかしい問題ではないだろうか。つまり、自分なりの傾向をかかえたこのが、対位法とどんな関係をもつべきなのか、という問題である。作曲家は、慣習的な関係ならすでに発見したことだろう。だが、それは自分のものじゃないぞ、対位法が自分にとってもつべき意味がはっきりしていないぞ、と感じているのではないか。
(わたしが考えていたのはシューベルトのことである。晩年の彼は、対位法のレッスンをうけたいと考えていた。ことによると彼の目的は、たんに対位法をもっと学びたいというよりは、むしろ対位法と自分との関係を発見することだったのかもしれないのだ。)
MS 163 25r: 4.7.1941
ワーグナーのモチーフは音楽の散文と呼べるかもしれない。「韻文」というものがあるのだから、モチーフをもちろんメロディーの形につなげることもできるが、だからといってそれがメロディーというものになるわけではない。
 ワーグナーの楽劇も、ドラマではなく、一本の糸にいくつもの場面が真珠のようにつながったものである。糸そのものは、巧妙に紡がれているだけで、モチーフや場面とちがって、インスピレーションがない。
MS 163 34r: 7.7.1941
他人を手本にするのではなく、自然を導きの星とせよ。
MS 163 39r c: 8.7.1941
哲学者たちが使う言葉は、いわば窮屈すぎる靴のせいで、すでに歪んでいる。
MS 163 47v: 11.7.1941
ドラマの登場人物に、われわれは関心をもつ。知り合いに似ているのだ。われわれが大好きな人や、嫌いな人に、しいばしば似ている。『ファウスト』第二部の登場人物には、まったく関心がもてない。知り合いのような気がしないのである。われわれの脇を通りすぎていく彼らは、思想のようではあるが、人間には似ていない。
MS 163 64v c: 6.91941
数学者(パスカル)は、数の理論の低利の美しさに感心する。いわば自然の美しさに感心しているのだ。数の性質のすばらしさは不思議だ、と数学者は言う。まるで、水晶の規則性に感心しているかのようだ。

創造主はなんとすばらしい法則を数に吹きこんだのだろう、と言えるのではないか。

霊を建設するわけにはいかない。だから、夢見られた未来は、けっして本当にはならない。

飛行機がなかった時代、人びとは飛行機を夢見、飛行機のある生活はどんなものだろうか、と夢見た。だが現実は、その夢とは似ても似つかぬものとなったので、現実がいずれ人びとの夢のようになる、とはまったく信じられなくなったのだ。われわれの夢は、ガラクタだらけ。いわば紙の帽子と仮想服のようなもの。
MS 125 2v: 4.1.1942 oder später
学者が書く通俗科学読み物は、きびしい研究の成果ではなく、成功の上にあぐらをかいたものだ。

もしも誰かに愛されているのなら、どんな犠牲を払っても、その愛より多くのものを支払うことはできない。だが、どんな犠牲も大きすぎるので、愛を買い取ることはできない。
MS 125 21r: 1942
深い眠りと浅い眠りがあるのとまったく同様に、思想にも、心の奥深くで動く思想と、表面で騒ぎまわる思想とがある。
MS 125 42r: 1942
芽を地面から引っぱり出すことはできない。熱と水と光をあたえることができるだけである。そうすれば生長するにちがいない。(芽に触れるときには、用心が必要だ。)
MS 125 44r: 1942
かわいらしいものが、美しいとはかぎらない。─ ─ ─
MS 125 58r: 1942
ドアには鍵がかかっておらず、内側に開くようになっているのに、ドアを引くことを思いつかず、押してばかりいいる人は、部屋に閉じ込められているのだ

ふさわしくない雰囲気のなかに人を置くと、なにもかもが本来の機能をはたさなくなるだろう。その人はすべての部分において不健康に見えるだろう。その人を、ふさわしい場所に戻せば、すべてが力を発揮し、健康に見えるだろう。だが、不当な場所に置かれると? そのときは、障害者のように見えることに甘んじるしかない。

白が黒になると、「あいかわらず結局おなじではないか」と言う人がいる。かと思えば、色がちょっと暗くなるだけで、「すっかり変っちゃった」と言う人もいる。
MS 125 58v: 18.5.1942
建築はジェスチャーである。人間のからだの合目的的な動きが、すべてジェスチャーというわけではない。同様に、合目的的な建物が、すべて建築というわけでもない。
MS 126 15r: 28.10.1942
いまわれわれは、ある方針に反対して戦っている。だがいずれその方針は、別の方針に押しのけられて、消えるだろう。そのときには、われわれの論証は理解されなくなってしまうだろう。なぜそんなことを言う必要があったのか、わかってもらえないだろう。
MS 126 64r: 15.12.1942
的はずれな議論での、あら探しと、指ぬき隠し。
MS 126.65v: 17.12.1942
誰かが二〇〇〇年前にこのような

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考え出し、「いつかこれが前進運動器具の形になるだろう」と言ったとしよう。
 あるいは、誰かが蒸気機関のメカニズムを完全に設計したのだが、それがエンジンとして使えるとは、夢にも考えていなかったとしたら。
MS 127 14r: 20.1.1943
プレゼントだと思っているものは、君が解くべき問題なのだ。

天才とは、名人の才能を忘れさせるものだ。

天才とは、才能(器用さ)を忘れさせるものだ。

薄っぺらな天才では、器用さが透けて見える。(『ニュルンベルクのマイスタージンガー』前奏曲。)

天才とは、名人の才能を隠すことができるものだ。

薄っぺらな天才の場合にだけ、才能が目につく。
MS 127 35v: 4.4.1943
なぜ私は言葉を、その言葉の本来の用法に反して使ってはならないのか。それは、たとえばフロイトが不安夢までも願望夢と呼ぶときに、やっていることではないのか。どこにちがいがあるのだろう。学問や科学の考察では、言葉の新しい用法は、理論によって正当化されている。もしもその理論がまちがっていれば、拡張された新しい言葉の用法も捨てなければならない。だが哲学の場合、拡張された言葉の用法をささえているのは、自然現象に関する正しい意見やまちがった意見ではない。どのような事実も、その用法を正当化しないし、(また)失脚させることもできない。

われわれはこう言う。「この表現、わかるでしょう。さて、君がいつも理解しているように、私もこの表現を使うことにしよう」。[「……この意味で……」ではない]
 あたかも意味というものは、言葉が使われるたびに、くっつけるアウラであるかのようだ。
MS 127 36v: 27.2.1944
思想の平和。これこそ、哲学する者が切望している目標だ。
MS 127 41v: 4.3.1944
哲学者とは、健康な人間の常識を手に入れるまえに、自分のなかに巣くっている、たくさんの知性の病気を治さなければならない人のことだ。
MS 127 76r: 1944
われわれの生が死に囲まれているなら、知性の健康も狂気に囲まれている。
MS 127 77v: 1944
考えようとすることと、考える才能があることとは、ちがう。
MS 127 78v: 1944
フロイトの夢判断の理論に取り柄があるとすれば、それは、人間の精神が、どんなに複雑なやり方で事実の像をつくるのか、を明らかにした点である。

写像の方法は、あまりにも複雑で、あまりにも不規則なので、ほとんど写像とは呼べなくなっている。
MS 127 84r: 1944
私の書いていることを追いかけるのは、むずかしいだろう。新しいことを言っているのだが、古い卵の殻を身にまとっているのだから。
MS 129 181: 1944 oder spätr
人間を狂気にするのは、満たされない憧れなのだろうか。(私はシューマンのこと、そして私のことを考えた。)
MS 165 200 c: ca.1941-1944
自分で自分を革命できる者が、革命的なのだろう。
MS 165 204: ca.1944
自分を不完全だと思うよりは、病気だと思う。その程度、人びとには信仰がある。

中途半端に行儀のいい人間は、自分をこのうえなく不完全だと思っている。だが信仰のある人間は、自分をあわれだと思っている。

ボロボロのものは、ボロボロのままにしておくことだ。

奇蹟とは、いわば神のジェスチャーである。人が静かに腰をおろしてから、印象深いジェスチャーをするように、神は、世界をなめらかに走りつづけさせてから、象徴的な出来事を、つまり自然のジェスチャーを、聖人の言葉に添えるのだ。もしも、聖人がしゃべったときに、周囲の木がまるで彼を敬うかのようにお辞儀したとすれば、それが、奇蹟の例証ということになるだろう。──ところで私は、そういうことが起きると思っているのか。いや、思っていない。

このような奇蹟の存在を私が信じるとすれば、その唯一の方法は、ある出来事から特定の感銘をうけることだろう。たとえば私が、「この木を見ていながら、木が言葉に返事をしていたことには気がつかない──というのは不可能だった」と言わざるをえない場合である。それは、ちょうど私が、「この犬の顔を見ていながら、この犬が主人の動作に全神経をとがらせていることには気がつかない──というのは不可能だ」と言うのに似ている。そして、聖人の生活と言葉が報告されているだけなのに、木がお辞儀したという報告を信じる人がいることは、私には想像ができる。だが私はそんなに感銘はしない。

家に帰ったら、驚くような突然のプレゼントがあるものと思っていたが、そういうプレゼントは用意されていなかったので、もちろん私は驚いた。
MS 128 46: ca.1941-1944
信じるのだ。損するわけじゃないのだから。

「信じる」ということは、権威に服従することである。いったん権威に服従してしまえば、権威に反抗することなしに、権威を問いなおし、あらためて権威を信じるにたるものと思うわけにはいかない。

苦境から救いを求める叫び声は、ひとりの人間の叫び声より大きいことはない。

あるいは、どんな苦境も、個人が陥っている苦境より大きいことはない。
 したがって、ひとりの人間の苦境は無限であるわけだから、無限の助けが必要となる。
 キリスト教という宗教は、無限の助けを必要とする者のためにだけ存在している。したがって、無限の苦境に陥っていると思う者のためにだけ存在している。

地球全体の苦境は、ひとりの人間の魂の苦境より大きくはない。

キリスト教の信仰とは、──私の考えでは──このうえないこの苦境のなかでの、避難所である。
 この苦境のなかで、心をすぼめるかわりに、心をひらくことができるなら、治療薬が心のなかに取り入れられる。
 心をひらいて神に懺悔する人は、ほかの人たちにも心をひらく。そうすることによってその人は、特別な人間としての尊厳を失なうことになり、したがって子どものようになる。つまり官職をなくし、尊厳をなくし、ほかの人たちとの距離をなくす。ほかの人たちのまえで自分をひらくことができるのは、特別な愛がある場合だけだ。それは、いわば「われわれはみんな悪い子どもだ」と認めるような愛である。

こうも言えるのではないだろうか。「人間が憎しみあうのは、自分と相手を隔てるからだ」。なぜなら、自分のなかを他人にのぞきこまれたくはないからである。なぜなら、自分のなかは美しくないからである。
 とすれば、自分の内面を恥じつづけるべきではあるが、ほかの人たちにたいして自分を恥じつづけるべきではない。

ひとりの個人が感じる苦境より、もっと大きな苦境を感じることはできない。ある人間が絶望しているとき、それこそがこのうえない苦境なのだから。
MS 128 49: ca.1944
言葉は行為である。
MS 179 20: ca.1945
他人をあわれむ資格があるのは、とても不幸な人間だけだ。
MS 179 26: ca.1945
分別をもって考えれば、われわれは、ヒトラーにたいしてすら怒ることができない。ましてや神にたいしては、なおさらのこと。
MS 179 27: ca.1945
人が死ぬと、その人の人生は宥和の光でながめられる。その一生が、靄のようなものに包まれて、まるみを帯びて見えるのだ。だが本人にとっては、まるみなど帯びておらず、ギザギザで不完全なものだった。本人には宥和などなかった。その人生は、むき出しで、みじめなものだった。
MS 180a 30: ca.1945
私は道に迷ったので、帰り道を教えてほしいと頼む。すると、案内してやろうと言った人が、平坦な道をかなりの距離、いっしょに歩いてくれる。突然、道が行き止まりになる。すると、案内してくれた人が、こう言う。「さあ、これからは、ここから帰り道をさがしなさい」──あたかもこんな具合なのだ。

自分自身を知らず、自分自身を理解していなければいないほど、どんなに偉大な才能に恵まれていようとも、その人は偉大ではなくなる。それゆえ、われわれの学者や科学者は偉大ではない。それゆえフロイト、シュペングラー、クラウス、アインシュタインは偉大ではない。
MS 130 239: 1.8.1946
シューベルトは信仰がなく、憂鬱である。
MS 130 283: 5.8.1946
すべての人間が偉大なのか。ちがう。──では、どうしておまえは、偉大な人間であることを望めるというのだ。隣人がもっていないものを、なぜおまえは、もてるというのだ。いったい、なんのために?!──「おれは金持ちだ」と思わせるものが、金持ちでありたいという願いでないとすれば、そこには観察がなければならない。おまえにそれを教える経験がなければならない。とすれば、(うぬぼれ以外の)どんな経験をおまえはしたのか。それを教えるのは、才能があるという経験だけのはずだ。「おれは並外れた人間だ」という私の高慢さは、「私には特別な才能があるぞ」という経験よりも、はるか昔からあったものではないか。
MS 130 291 c: 9.8.1946
シューベルトのメロディーには尖端 (ポワント) がいっぱいある、と言うことができるが、モーツァルトについてそれは言えない。シューベルトはバロックだ。シューベルトのメロディーの、ある箇所をさして、こう言うことができる。「ほら、これがこのメロディーの急所だよ。ここで思想がとがっている」。

さまざまな作曲家が書いたメロディーに、あの観察原理を──「どんな木の種類も別の意味では『木』だ」を──当てはめることができる。つまり、「これらはみんなメロディーだ」と言われたからといって、惑わされてはいけないということだ。メロディーと呼べないようなものから、こちらもまたメロディーと呼べないようなものまでの、一本の道に、いろんな段階がある。短いメロディーや転調にだけ注目すれば、たしかにこれらの構造はおなじレベルにあるように思える。だがそれらが置かれている場(したがってそれらの意味)に注目すれば、こう言いたくなるだろう。「ここのメロディーは、あそこのメロディーとまるでちがう (ここのは別のところから生まれたもので、別の働きをしている、など。)」。
MS 131 2: 10.8.1946
光のそばに近づこうと苦労する思想。
MS 131 19: 11.8.1946
『失なわれた笑い』のなかでユクンドゥスがこう言っている。「私の宗教っていうのは、今うまくいっていても、運が悪くなるかもしれない、と心得ておくこと」。じつはこの発言は、「主があたえたもうた。主が取り上げたもうた」という言葉と同様、似たような宗教を表現している。
MS 131 27: 12.8.1946
自分を正しく理解することはむずかしい。なにしろ、寛大さや親切からするかもしれない行為を、臆病さや無関心からすることがあるからだ。明らかに真の愛から生まれた行動が、陰謀や冷淡さから生まれることもある。かならずしもすべての思いやりが親切というわけでもないのだ。もしもかりに私が宗教に沈潜できた場合にのみ、これらの疑いが静まるのではないだろうか。なにしろ宗教だけが、むなしい思いこみを壊し、ありとあらゆる割れ目に浸透することができるのだから。
MS 131 38: 14.8.1946
つまりこう言っておこう。 "je ne sais pas" のなかの──たとえば──"pas" という言葉を「ステップ」という意味で感じることのできない人には、「この意味で言って」と言うことによって、声の表情を教えることはできない。
 朗読のさい、うまく読みたいと思うとき、言葉のイメージをふくらませる。すくなくともそういうことがしばしばある。だが、ときには[「コリントへアテネから……」の場合のように]句読法、つまり正確なイントネーションやポーズの長さが、なによりも大切なこともある。
MS 131 43: 14.8.1946
自分でもわかっていないことを信じるのは、なんとむずかしいことか。これは注目すべき事柄である。たとえば、シェイクスピアについては何世紀にもわたって著名人たちが称讃してきたが、称讃の言葉を聞くたびに私は、「シェイクスピアをほめるのは慣習なんだ」という不信感を拭いきれない。私自身、称讃が慣習でないことは認めざるをえないのだが。ほんとうに納得するためには、ミルトンのような権威が必要である。ミルトンなら買収されるような人ではない、と私は思っているからだ。──だからといって私は、「おびただしいシェイクスピア讃辞は、千人の文学科の教授の無理解やあやまった理由づけのせいである」と思っているわけではない。
MS 131 46: 15.8.1946
難問を深くとらえることは、むずかしい。
 浅くとらえると、それは難問のままなのだから。難問は根もとから引き抜かねばならない。つまり、新しいやり方で考えはじめる必要がある。それは、たとえば錬金術の思考から化学の思考への変化のように、断固たる変化なのだ。──そういう新しい思考方法こそ、じつに確立しづらい。

それが確立されたなら、それまでの問題は消えてしまう。それまでの問題をつかまえ直すのが、むずかしくなるからだ。なにしろ問題は表現の仕方のなかにひそんでいるのである。新しい装いで表現されれば、それまでの問題はそれまでの衣裳とともに脱ぎ捨てられるのだから。
MS 131 48: 15.8.1946
原子爆弾にたいして世間はいまヒステリックな不安をいだいたり、表明しているが、それは、「実際ついにここに有効なものが発明されたのだ」という合図のようなものである。その恐れからすくなくとも明らかになったのは、それが本当に効き目のある苦い薬らしいということだ。どうしても私としては、「もしもここになにもいいことがないなら、俗物たちは叫んだりしないだろう、と考えてしまう。しかしそれも子どもじみた考えかもしれない。要するに私は、「石鹸みたいにヌルヌルしていて吐き気をもよおさせる科学という醜い悪が、原子爆弾のおかげで、破壊されて終わる見通しがついた」と思っているだけなのだ。そう考えるのは、もちろん不愉快なことではない。だが、その破壊のあとがどうなるのか、は誰にもわからない。今日、原子爆弾の製造に反対する人たちは、インテリの屑ではあるが、だからといってかならずしも、彼らの忌み嫌うものを称讃すべきだと、証明されたわけではない。
MS 131 66 c: 19.8.1946
以前は修道院にはいる人たちがいた。その人たちは、愚かであったり、鈍感だったのだろうか。──だが、そういう人がそういう手段によって、生きつづけることができたとしたら、この問題は簡単であるわけがない。
MS 131 79 c: 20.8.1946
人間は、人間の心の最上の像である。
MS 131 80: 20.8.1946
シェイクスピアの比喩は、普通の意味では下手くそだ。にもかかわらず、それがすばらしい比喩であるというのなら──実際にすばらしいのかどうか、私にはわからないが──、そこには独自の法則があるにちがいない。比喩の響きが、たとえば比喩を本当らしく思わせたり、真実味をあたえているのではないだろうか。
 Sの場合、軽さや独断が本質なのかもしれない。だから、Sを本当にすごいと思えるようになるためには、自然を、たとえば景色を受けいれるように、Sを受けいれる必要があるのではないか。
 この点にかんして私が正しいなら、全作品の、つまりシェイクスビアの全作品のスタイルが、この場合、本質であって、彼の比喩を正当化している、ということになるだろう。

とすれば、シェイクスビアがわからないのは、私がシェイクスビアを軽やかに読めないからだ、と説明することができるだろう。つまり私は、すばらしい景色をながめるようには、シェイクスビアが読めないのである。
MS 131 163: 31.8.1946
人間は、自分がなにをもっているかは、よくわかるが、自分がなにであるかは、わからない。自分がなにであるかは、自分が海抜何メートルの高さにいるか、のようなものだから、たいていの場合、すぐには判断できないのである。ある作品の偉大さまたは矮小さは、作品をつくった人がどこに立っているのか、に左右される。
 またこうも言える。自分で自分を誤認し、自分で自分を煙に巻いている人は、けっして偉大ではない。
MS 131 176: 1.9.1946
しかし人生は、なんと小さな考えにおおわれているのだろう。

ちょうどそれは、一生のあいだ、たったひとつの小さな国を旅しているだけなのに、この国の外にはなにもない、と思うようなものだ。
 すべてを、奇妙なパースペクティヴ(または投影)で見ているのだ。休むことなく自分が旅をしているその国が、とてつもなく大きな国に思えるので、まわりにあるすべての国のことは、細長い辺境に見えるのである。
MS 131 180: 2.9.1946
深いところに降りていくには、遠くへ旅をする必要はない。自分の家の裏庭でできることだ。
MS 131 182: 2.9.1946
「文明──建物、道路、クルマなど──によって人間は、その根源、高いもの、無限などから引き離されるのだ」と考えてしまうのは、とても奇妙なことだ。文明化された環境が──そのなかの木や植物も含めて──安っぽく、セロファンにくるまれ、あらゆる偉大なものから、いわば神から孤立しているかのようだ。そのとき目に飛び込んでくるものは、奇妙なイメージである。
MS 131 186: 3.9.1946
私の「業績」は、ある計算法を発明した数学者の業績によく似ている。
MS 131 218: 8.9.1946
人間がときどき愚かなことをしでかさなければ、賢いことがまったく行われないことになるだろう。
MS 131 219: 8.9.1946
純粋なからだというものは無気味だろう。天使や悪魔の描かれ方を考えてみればいい。「奇蹟」と呼ばれるものは、このことと関係しているにちがいない。いわば聖なる身ぶりであるにちがいない。
MS 131 221: 8.9.1946
「神」という言葉の使い方で示されるのは、君がイメージしている、ではなく、君がイメージしているもの、なのだ。
MS 132 8: 11.9.1946
闘牛では、牛が悲劇の英雄である。まず痛みによって荒れ狂い、それからゆっくりと恐ろしい死を迎える。
MS 132 12: 12.9.1946
英雄は死を直視する。たんなる死のイメージではなく、現実の死を直視する。危機にあたって行儀よくふるまう、とは、いわば舞台で上手に英雄を演じることではない。むしろ、死そのものを直視できることである。
 役者はたくさんの役を演じることができるが、最後に自分は人間として死ぬことになる。
MS 132 46 c: 22.9.1946
音楽のフレーズを理解しながら追いかけるとは、どういうことなのか。表情を感じながら顔をながめることなのか。表情にうっとりすることなのか。

表情を理解しながら顔のスケッチをしている人の動作を、考えてみよう。スケッチしている人の顔を、そしてその人の動きを、考えてみよう。──次の三つは、どのように表現されるのだろうか。スケッチのすべての線は顔が命令したものである。スケッチにはどこにも恣意的なところがない。スケッチする人は繊細なインストルメントである。
 これは実際に体験というものなのだろうか。つまり、これによって体験が表現されている、と言うことができるのか。

もう一度考えてみよう。音楽のフレーズを理解しながら追いかけるとは、どういうことなのか。あるいは、音楽のフレーズを理解しながら演奏するとは、どういうことなのか。君の内面を問題にするのではなく、むしろ、「ほかの人がそうしている、と君に言わせるものはなにか、を問題にするのだ。そしてまた、「その人は特定の体験をしている」と君に言わせるのはなにか。そもそもわれわれはそんなことを言うのだろうか。むしろ私なら、「ほかの人はたくさんの体験をしている」と言わないだろうか。
 たぶん私は「彼はこの主題を強烈に体験している」と言うのではないか。だが、そのうちのなにが表情なのか、考えてみよう。

主題を強烈に体験する。それは、主題に伴奏してわれわれが動く動きなどを感じる点に「ある」のだ、と、やはり考えることができるかもしれない。これは(またもや安心感のある説明のように思える。だが、そうだと信じるだけの理由があるのか。たとえば、そういう経験をしたという記億が、あるのか。この理論は、やはりたんなる像にすぎないのではないか。いや、そうではない。理論というのは、「感じること」と表情の動きとをくつつける試みにすぎないのだ。

「この主題をどのように感しましたか」。そうたずねられたら、私は「問いとして」などと答えるかもしれない。または表情豊かに主題を口笛で吹いたりするだろう。

「彼はこの主題を強烈に体験している。その主題を耳にしているとき、彼の心のなかではなにかが起きている」。では、なにが

主題は、自分以外のなにも指してはいないのか。もちろん。だがそれは次のような意味である。──主題が私にあたえる印象は、主題のまわりにあるものと関係している。──たとえば、ドイツ語の存在とかイントネーションと関係している。ということは、われわれの言語ゲームの「力の場」全体と関係していることになるのだが。
 たとえば私が、「ここで結論が出たかのようだ」とか、「ここで、あることが裏付けられたみたいだ」とか、「これは、以前の問題にたいする解答であるかのようだ」と言うとき、まさに私の理解には、結論や裏付けや解答のことは承知している、ということが前提となっているのだ。

主題には、顔に負けないほどの表情がある。

「くり返しは必要不可欠である」。では、どれくらい必要不可欠なのか。歌ってみるがいい。すると、くり返すことによってはじめて、主題に法外な力が生まれることがわかるだろう。──そこには、この主題のモデルが実際に存在しているにちがいないかのようではないか。ここの部分がくり返されたときにだけ、主題がモデルに近づき、モデルに対応しているかのようではないか。あるいは私は、「くり返されるからこそ、さらに美しく聞こえるのだ」と、愚かなことを言うべきなのだろうか。 (ところで、「美しい」という言葉が美学でどんなに愚かな役割をはたしているのか、ここでよくわかる)。だが実際のところ、主題の外部にはパラダイムなど存在していないのである。だが実際のところ、主題の外部にはパラダイムが存在するようになっているのだ。つまりそれは、われわれの言語、思考、感覚がもっているリズムのことである。そして主題がわれわれの言語の新しい部分となり、そこに組み込まれることになる。こうしてわれわれは新しい身ぶりを学ぶのだ。

主題は言語と作用しあう。

ある主題は思想の畑に種をまき、またある主題は思想の畑で収穫する。

『死と乙女』 の主題の最後の二小節は、

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である。最初は、この音形が慣習的で、普通のものだと思うだろうが、そのうち、この音形の深い表現がわかるようになる。つまり、ここには普通のものに意味がいっぱい詰め込まれているのだ。
MS 132 59: 25.9.1946
「さらば!」
 「痛みの世界全体が、この言葉に含まれている」。では、それはどのようにして可能なのか。
──痛みの世界全体がこの言葉と関係しているのだ。言葉はドングリに似ている。ドングリからドングリの木が育つのだ。
 ところで、ドングリからドングリの木が育つ法則は、どこに根を張っているのか。まあ、そのイメージは、経験によって、われわれの思考に組み込まれてしまっているのだ。
MS 132 62: 25.9.1946
エスペラント。虚構の派生シラブルをもった虚構の言葉を口にすると、吐き気をもよおす。その言葉は冷たく、なんの連想も呼びおこさないくせに、「言語」のような顔をしているのだ。書かれるだけの記号システムでも、エスペラントのような吐き気は感じさせないだろう。
MS 132 69: 26.9.1946
思想に値札をつけることができるかもしれない。値段の高い思想もあれば、安い思想もある。 [ブロードの思想はみんなじつに安物だ]。さて思想の代金は、なにで支払われるのか。私の考えでは、勇気によって。
MS 132 75: 28.9.1946
人生が耐えがたくなると、改善を考える。だが、いちばん大切で、いちばん有効な改善は、自分の態度を改着することだが、そのことはほとんど思いつかない。そういう決心をすることは、このうえなくむずかしい。
MS 132 136: 7.10.1946

形式は──私のスタイルのように──独創性に欠けるが、言葉はよく選んだスタイルで、書くことができる。また、形式が独創的で、内側から新しく育ったようなスタイルで、書くこともできる。(そしてもちろん、古い家具をともかく拾い集めたようなだけのスタイルでも、書くことができる。
MS 132 145: 8.10.1946
キリスト教は、なによりも次のように教えているのではないか。どんなにすぐれた教義もなんの役にも立たない。生活を変えるしかないのだ。(あるいは、生活の方向を変えるしかないのだ。)
 どんな知恵も冷たい。冷えた鉄を鍛えることができないように、知恵によって、生活をきちんとさせることはできない。
 すぐれた教義は、われわれを感動させる必要がないからである。医者の指示に従うように、従えばよいのである。だがこの点において、われわれは、なにかに感動させられ、方向転換させられる必要がある。── (つまり、そう私は理解している)。方向転換したなら、もう方向を変更してはならない。
 知恵には情熱はない。それにたいしてキルケゴールは、信仰を情熱と呼んでいる。
MS 132 167: 11.10.1946
宗教は、いわば、最深の静かな海底である。海面でいかに波が逆巻こうと、海底は静かなままである。──
MS 132 190: 16.10.1946
「私は以前、神を信じたことがない」これは理解できる。だが、「私は以前、実際に神を信じたことがない」これは理解できない。
MS 132 191: 18.10.1946
私はしばしば狂気が恐ろしくなる。奈落でもなんでもないものを、すぐそばにある奈落だと思ってしまうのは、目の錯覚である。そして狂気にたいする恐れが、いわば目の錯覚には由来していない、と仮定するなんらかの理由が、私にはあるのたろうか。錯覚ではないことを語る経験で、私の知っている唯一のものは、レーナウの場合である。彼の『ファウスト』には、私の知っているような考えが見られるのだ。レーナウはそれをファウストにしゃべらせている。だがそれは、自分自身にかんするレーナウの考えにちがいない。ファウストが自分の孤独とか孤立について語っていることが、重要だ。

レーナウの才能もまた、私の才能に似ているようだ。もみ殻がたくさんで──美しい考えはわずか。『ファウスト』のなかの話は、どれもくだらないが、そこに示されている観察は、しばしば真実で偉大だ。
MS 132 197: 19.10 1946
レーナウの『ファウスト』で注目すべき点は、人間が悪魔としかかかわらないことだ。神はじっとしている。
MS 132 202: 20.10.1946
ベーコンは鋭い思想家ではなかったと思う。大きくて、いわば広いヴィジョンをもっていた。だがヴィジョンしかもっていない人は、約束はすばらしいのだが、実行がともなわない。
 細部を精確に詰めないで、飛行機を空想することはできる。空想された飛行機の外観は、実際の飛行機の外観と大差なく、その機能も、絵に描いたように鮮やかだ。そうした虚構など無価値だ、と断定することもできない。虚構が、ほかの人たちを別の仕事に駆り立てることがあるかもしれないからである。──実際、ほかの人たちが、現実に飛ぶ飛行機を製造しようと、いわば昔から、あれこれ準備しているあいだに、空想家のほうは、飛行機の外観のデザインとか、望ましい性能を夢見ているのだ。と言ったからといって、そういう活動の価値が、語られたわけではない。夢想家の活動には価値がないだろう。ほかの活動にもまた。
MS 132 205: 22.10.1946
狂気を病気とみなす必要はない。どうしてそれを突然の──多かれ少なかれ突然の──性格の変化とみなしてはいけないのか。
 どんな人も(あるいは、たいていの人は)人間不信である。ことによると他人よりも、むしろ血縁にたいして不信感が強い。この不信感には理由があるか。イエスであり、ノーである。いろいろ理由をあげることはできるけれど、説得力がない。どうして人は、人間にたいして突然、もっと強い不信感をいだいてはならないのか。どうしてもっと打ち解けなくなってはいけないのか。あるいは、愛をなくしてはいけないのか。普段の生活でもそうならないだろうか。──その場合、意思と可能性の境界はどこにあるのか。私は誰にも本心を打ち明けるつもりをなくしたのだろうか。それとも、そうできないのだろうか。こんなに多くのものが魅力的でなくなるのなら、どうしてすべてがそうならないのか。日常生活においても人間が狡猾であるのなら、どうして──ことによると突然──もっと狡猾になってはいけないのか。もっと近寄りがたい存在になってはいけないのか。
MS 133 2: 23.10.1946
心という上着なしで、知性の角がむきだしになると、詩の尖端 (ポワント) がとがりすぎる。
MS 133 6: 24.10.1946
ああ、錠前のマイスターが置いたまま、ずっと鍵が置き去りにされて、錠前を開けるの使われることがない、ということがある。せっかくマイスターが腕をふるって作ったのに。
MS 133 12: 24.10.1946
「いまこそ、この現象を別のものにたとえるときだ」──と言うことができる。たとえば精神病のことを私は考えているのだが。
MS 133 18: 29.10.1946
フロイトは、すばらしい説明もどき(なにしろ頭のいい説明なのだ)によって、ひどいことをしでかした。
(どんな頓馬でもフロイトの説明もどきに助けられて、病状を「説明」するのだから。)
MS 133 21: 31.10.1946
音楽におけるアイロニー。ワーグナーの、たとえば『マイスタージンガー』。比較できないくらい深いアイロニーは、第九の第一楽章のフガート。そこには、演説における、激怒のアイロニーの表現のようなものがある。

音楽におけるゆがみ、とも言えただろう。悲痛にゆがんだ表情、という意味で。「モーツァルトは音楽に『美しいもの』しか許さなかった」とグリルパルツァーが言うとき、それは、「モーツァルトは、ゆがんだもの、恐ろしいものを許さなかった。彼の音楽には、そういうものが一切、見あたらない」という意味ではないか。この見方が当たっていると主張するつもりはない。だが、そうだと仮定すれば、他のあり方は当然認められない、とするのはグリルパルツァーの偏見である。音楽は、モーツァルト以降(とくにもちろんベートーヴェンの力によって)音楽言語の領域を拡大した。このことは、ほめることでも嘆くことでもなく、要するに、そうなっただけのことなのだ。グリルパルツァーの態度には、恩知らずのところがある。さらに、もうひとりモーツァルトがほしかったのだろうか。彼には、もうひとりのモーツァルトの作曲するものが、想像できたのだろうか。モーツァルトを知らなくても、彼にはモーツァルトを想像でぎたのだろうか。ここでは、「美しいもの」という概念も、迷惑なことをしでかしている。

概念は、迷惑を少なくしたり、多くしたりする。迷惑を増長させたり、阻止したりする
MS 133 30: 1.-2.11.1946
基本的に生は安全でない。どこを見ても嘆きばかりだ。
 馬鹿がにやけた顔をしていると、連中は悩みなどとは縁がないのだ、と思ってしまうのだが、利ロとは悩む場所がちがうだけで、ちゃんと悩みがあるのだ。馬鹿には、いわば頭痛はないが、それ以外の苦しみは、人並みに味わっている。すべての苦しみが、似たような表情をもたらすわけではない。高貴な人が悩むとき、私とはちがった表情になる。
MS 133 68 c: 12.11.1946
祈るためにひざまずくことができない。いわば私の膝が硬いからである。私が柔らかくなれば、(私が)くずれてしまうのではないかと心配なのだ。
MS 133 82: 24.11.1946
弟子たちは、とてつもなく大きな風景のなかで途方に暮れているので、私は、その風景の一部を切り取って、見せてやる。
MS 133 82: 24.11.1946
この世の黙示録的光景というのは、実際、ものごとがくり返さないという光景である。たとえば次のように思うことは無意味ではない。「科学技術の時代は、人類の終わりの始まりである。真理をついに認識したと考えるのが無分別であるように、大いなる進歩という考えも無分別である。科学的認識には、いい点も望ましい点もない。科学的認識を追求する人類は、罠にはまる」。そうでははい、とは誰も断言できない。
MS 133 90: 7.1.1947
男の夢は、まず実現されない。
MS 133 118: 19.1.1947
ソクラテスは、ソフィストをいつも黙らせてしまう。──それは正当なことなのだろうか。たしかにソフィストは、自分になにがわかっているのか、わかっていない。だからといって、それがソクラテスの勝ちにはならない。つまり、「ほら、君にはわからないだろう」とは言えないし、「結局、誰もわからないんだ」と、勝ち誇ったように言うこともできないのだ。
 なにしろ私は、私自身に、いやそれどころか他人に、わからないということを認めさせるためにだけ、考えるつもりはない。私は、自分がまだ理解していないことを確認するためにだけ、なにかを理解しようとはしない。
MS 133 188: 27.2.1947
知恵は冷たいものであり、そのぶんだけ馬鹿なものである。 (信仰はその反対に、情熱である)。知恵は君に生を隠しているだけだ、とも言えるのではないか。(知恵は、灰色の冷たい灰に似ている。赤く燃える炭を隠しているのだ。)
MS 134 9: 3.3.1947
ナンセンスなことを言うのを、恐れたりする必要はない。ただし、自分の言っているナンセンスに耳をすます必要はある。
MS 134 20: 5.3.1947
自然の不思議。
 こんなふうに言えるのではないか。「芸術は自然の不思議を教えてくれる。自然の不思議という概念にもとづいているからだ」。(ちょうど花が開きつつある。そのどこがすばらしいのか?)と聞かれたら、「花が開いていく様子を、見てごらん」と答えるのである。

哲学、芸術、科学の未来について見た夢が真実であると証明されるようなことがあったとしても、それは偶然にすぎない。その人が見たのは、夢のなかでの自分の世界の延長である。したがって、その人の願いかもしれない(願いでないのかもしれない)が、現実ではない。
 だが、こんなふうに言えるのではないか。ある人の写真は、たとえば時とともに変わる。いわば、その人が写真のなかで年をとっているかのように。だが写真の変化は独自の法則にしたがっているのだが、どうしてその法則は、現実の人間の加齢とパラレルに、写真を変化させるのだろうか。
もちろん数学者でも、自然の不思議(結晶)に感心することがある。だが、自分の見ているものが疑わしくなってしまっても、感心するだろうか。驚嘆の対象が哲学の靄というべールでおおわれているかぎり、本当に感心できるのだろうか。
 こんな場合を想像することができる。誰かが木をすばらしいと思う。木の影や、鏡に映った木までを、木だと思って感心する。だが、これは木じゃないんじゃないか、と思ったり、これはなんだ、木との関係はどうなっているのだ、と疑問に君いはじめると、すばらしいと思う気持ちにひびが入る。まず修復すべきはそのひびである。
MS 134 27: 10.-15.3.1947
文章は、正しいテンボで読むときだけ、理解することができる。私の文章は、すべてゆっくりと読まれるべきだ。
MS 134 76: 28.3.1947
第二の楽想が第一の楽想につづく「必然性」。 (『フィガロの結婚』序曲)。「順番に聞くのは『心地よい』ものです」と言うことほど、馬鹿なことはない。──だが、すべてを正しく並べるパラダイムは、もちろん、わかっていない。「これは自然な展開です」と言われると、手を動かして、「もちろん」と言いたくなる。この移行を、たとえば物語や詩などでの(新しい人物が登場する)移行に、たとえることができないたろうか。そうすれば、この作品は、われわれの思想と感情の世界に、しっくりするのだが。
MS 134 78: 30.3.1947
私の胸のひだは、いつもくっつこうとする。胸を開くためには、ひだをくり返し引き離さなくてはならない。
MS 134 80: 30.3.1947
馬鹿で素朴なアメリカ映画からは、その馬鹿さゆえに、その馬鹿さを通じて教えられるところがある。素朴ではないが間の抜けたイギリス映画からは、教わるところはない。しばしば私は、馬鹿なアメリカ映画から学んできた。
MS 134 89: 2.4.1947
私のやっていることは、努力のしがいがあるのだろうか。上から光をうけとるときにかぎり、努力のしがいはある。では、努力のしがいがあるなら、──どうして私は、自分の仕事の成果が盗まれはしないかと、心配するのだろうか。私の書くものに本当に価値があるなら、どのようにして、この価値あるものが盗まれるというのか。上からの光がなければ、私は器用な人間にすぎない。
MS 134 95: 3.4.1947
自分の発明・発見の優先権に文句がつけられたら、どんなに憎悪をいだくものであるか、また、「歯をむき爪をたてて」優先権を守ろうとするものか、私にはじつによく理解できる。しかしながら、優先権は妄想にすぎない。ニュートンとライプニッツのあいだで行なわれた優先権争いを、クラウディウスが嘲笑しているが、たしかにその嘲笑は、あまりにも安易で、軽率すぎるように思える。しかしこの種の争いが、下劣な弱さから生じ、下劣な人間たちに育まれるものにすぎない、ということも真実ではないか。ニュートンがライプニッツの独創性を認めていたとしたら、ニュートンはなにを失なっただろうか。なにも失なわなかっただろう。むしろ多くを手にいれたのではないか。しかしながら相手の優先権を認めることは、なんとむずかしいことだろう。認めようとする者にとって、それは自分の無能を告白するように思えるからだ。相手を評価すると同時に相手を愛する人たちだけが、相手にそういう態度をとりやすくさせるのである。
 もちろんこれは嫉妬の問題である。そして嫉妬を感じるなら、つねに自分に「これはまずい。これはまずい──」と言って聞かせる必要があるだろう。
MS 134 100: 4.4.1947
ある考えを高い代償をはらって手に入れたなら、その結果かならず、安い代償でたくさんの考えが手にはいるものだ。そのなかには役に立つ考えも、いくつかある。

天文学者がはるかかなたの星の世界を見るように、ときどきわれわれはイデアを見ている。(すくなくとも、そう思えるのだ。)
MS 134 105: 5.4.1947
私がいい文章を書いたとしよう。たまたまその文章が、韻を踏んだ二行であるなら、失敗作ということになるだろう。

「芸術作品は『感情』を伝える」というトルストイのまちがった理論から、多くのことを学ぶことができるのではないか。──実際、われわれは芸術作品のことを、感情の表現そのものとは呼べないにしても、ある感情表現とか、感じられた表現と呼ぶことができるのではないか。だから、「そういう表現を理解する人たちは、いわばそれに『スウィング』して、それに返事をするのだ」とも言えるのではないか。「芸術作品は、なにか別のものを伝えようとしているのではなく、自分自身を伝えようとしているのだ」と言えるのではないか。ちょうどそれは、私が誰かを訪問するようなものである。私は、これこれの感情をその誰かに呼び起こしたいだけではなく、なによりもその誰かを訪問したいのだし、もちろん歓迎されたいのである。
 だから、「芸術家が書くときに感じることを、読者には、読むときに感じてもらいたい。それが芸術家の望みである」などと言うのは、ますますナンセンスなのである。これは私にもわかるが、(たとえば)詩を理解するとは、詩をつくった人が望むように理解することである。──だが、詩人が詩を書くときに感じただろうことに、私はまったく関心がない。
MS 134 106: 5.4.1947

私は韻文が書けないが、散文もこの程度しか──つまり、これ以上は──書けない。私の散文には一定の限界があり、私に詩が書けないのと同様に、その限界を超えることはできない。私はその程度の装置であり、この装置しか私の意のままにはならないのだ。ちょうどそれは、「このゲームで私にできるのは、この程度であって、そんなに完全にはできない」と言うようなものである。
MS 134 108: 5.4.1947
重要な仕事をしている人なら、自分の仕事がこの先どうなるのか、心のなかで描く、つまり夢見ることがある。だが、もしも実際、夢に見たことが現実になったとしたら、それはめずらしいことだろう。今日、自分の夢を信じないほうが、もちろん簡単である。
MS 134 120: 7.4.1947
「最高の詩人や思想家でも、凡庸なものや拙劣なものを書いた。ただし、そのなかからいいものだけを選別したのだ」とニーチェがあるところで書いている。だが、完全にそうとは言い切れない。園芸家の庭園にはバラのほかに、もちろん肥料やゴミや藁もあるのだが、それらが区別されるのは、すばらしさという点だけではなく、むしろなによりも、庭園ではたす機能においてなのである。
 拙劣な文章と思われるものが、すぐれた文章の芽であることもある。
MS 134 124: 8.4.1947
「趣味」には、新しい有機体をつくる能力はない。すでに存在している有機体を調節することができるだけである。趣味はネジをゆるめたり、締めたりするが、新しいオリジナルな仕掛けをつくることはない。

趣味は、ものごとを調節するが、生み出しはしない。

趣味は、ものごとを受けいれやすくする。

(だから、偉大な創造者には趣味が不要なのではないか。その子どもは、すぐれた姿で誕生する。)
 やすりをかけて推敲することは、趣味の仕事であるときもあるし、そうでないときもある。

には趣味がある。

どんなに洗練された趣味でも、創造力とは無関係である。

趣味とは感覚の洗練である。だが感覚はなにもない。受けいれるだけである。

自分には趣味しかないのか。それとも独創性もあるのか。私には判断がつかない。趣味のほうは、はっきり姿が見える。独創性のほうは、姿が見えないか、まるでぼんやりしている。もしかしたらそうにちがいない。われわれに見えるのは、自分がなにをもっているかだけであって、自分がなにであるかは見えないのだ。ウソをつかなければ、それだけで独創的であると言える。望ましい独創性とは、芸当のようなものではないわけだし、どんなに特徴のある個性でも、それを独創性とは呼べないわけだから。
 自分以外のものでありたいと思わないこと。それだけでもう、すぐれた独創性がはじまっているのだ。だがこんなことはすでに、ほかの人がはるかに上手に指摘していることだ。

趣味は、うっとりさせるが、感動はさせない。
MS 134 129: 9.4.1947
古いスタイルを、いわば新しい言葉で再現することができる。いってみれば現代的なやり方で、新しく上演することができる。その場合、厳密に複製や再生をしているにすぎない。それは私が建築でやったことだ。
 といってもそれは、古いスタイルを新しく仕立て直すことではない。古い形をもってきて、それを新しい趣味にあわせて仕上げるわけではないのだ。むしろ実際には、もしかしたら無意識のまま、古い言葉をしゃべっているのである。ただしそのしゃべり方は、比較的新しい世界のものではあるが、だからといってかならずしもその世界の趣味にあっているとはかぎらない。
MS 134 133: 10.4.1947
そうじゃないんだ」と言って、──それと戦う。このような反応から生じるのは、同様に耐えがたい状態かもしれない。そしてそのときには、反抗しつづける力が使い果たされているかもしれない。「あいつああいうことをしなかったら、こんなひどいことにならなかっただろう」と、われわれは言う。だが、どんな権利があって? 社会の展開の法則を、誰が知っているというのか。どんなに利ロな人にもわからないはずだ。戦うのなら、戦うがいい。希望をいだくなら、いだけばいい。
 われわれは戦い、希望をいだき、信じることもできる。科学の裏付けなしに。

科学──あるものを豊かにすれば、別のものが貧しくなる。あるひとつの方法が、他のすべての方法を脇に押しのける。その方法と比べれば、他のすべての方法が貧しく見え、せいぜい前段階だと思える。水源地に降りていって、こけにされた方法も、ひいきにされた方法も、すべてを横一列に並べてながめてみる必要がある。
MS 134 141: 13.4.1947
だけが学派をつくることができないのだろうか。それとも哲学者には学派などつくれないのだろうか。もともと真似されるのが嫌だから、私には学派がつくれないのだ。哲学雑誌に論文を書くような手合いにだけは、どんなことがあっても真似されたくない。

「運命」という言葉の使い方。未来と過去にたいするわれわれの態度。どれくらい未来に責任があると思っているのか。どれくらい未来について思案しているのか。過去と未来にかんしてどう考えているのか。不愉快なことが起きると、──われわれは「誰のせいだ」とたずねたり、「誰かのせいにちがいない」と言う。──あるいは、「あれは神の意志だった」とか、「運命だった」と言うのである。
 質問するとか、答を迫るとか、質問しないとかが、ちがう態度、ちがった生き方を表現しているように、「それは神の意志である」とか「われわれは自分の運命を支配していない」という発言も、おなじ意味で、ちがう態度、ちがった生き方を表現している。こういう文章がやっているようなことを、命令もやっている。われわれが自分にむかってする命令も、同様である。そして逆に、たとえば「ブツブツぼやくな」という命令は、真実を確定するものとして発せられることもある。
 なぜ私はこんなに几帳面に、「主張文」の使い方を区別するのだろう。そうすることが必要だからなのか。昔の人たちは、ワン・センテンスでストレートに伝えたいことを、じつは正しくは理解していなかったのではないか。現在は、必要以上にこせこせしているのだろうか。──これは、どんな用法にもその権利をとりもどしてやろうとしているだけなのだ。したがってこれは、過大評価された科学にたいする反動ではないか。「科学」という言葉を「ナンセンスに陥らないで語ることのできるものの総体」という意味で使えば、もうそれだけで、科学は過大評価されているのである。そうすることによって実際に発言が、いいクラスと悪いクラスの、二つに分けられるわけで、すでにこの点に危険があるのだから。ちょうどそれは、すべての動物、植物、岩石を、役に立つものと有害なものに分類するようなものだ。
 しかし、もちろん、「その権利をとりもどしてやる」とか、「過大評価」といった言葉によって、私の立場が表明されている。「その名声をとりもどしてやろう」とも言えたからである。もっとも私はそんなふうには考えないが。

運命と対照的なのが、自然法則である。われわれは自然法則を究明し利用しようとするが、運命についてはそんなことは思わない。

自分の仕事が他人に引き継がれることのほうが、生き方を変えて、現在かかえている問題を全部余計なものにすることより、望ましいのかどうか。私にはまったく見当がっかない。(だから私には、けっして学派がつくれないのかもしれない。)

こういうふうに見るんだ」と哲学者が言う。だがそう言われたからといって、まず第一に、人びとがそういうふうに見るようになるわけではない。第二に、哲学者の忠告が遅きに失している可能性もある。そしてまた、その忠告がなんの役にも立たないことも考えられるし、ものの見方が変化したのは、別の場所からやってきた力のせいとも考えられる。というわけで、ベーコンによって動かされたものがあるかどうかは、じつに疑わしいのである。もっとも、彼の読者の浅薄な心は別だが。

いちばん起こりそうにないことは、科学者とか数学者が、私の著作を読むことによって、仕事の方法を本気で考え直すということだ。 (その意味で私の警告は、イギリスの駅の切符売り場の掲示「あなたの旅行は本当に必要ですか」に似ている。それを読んだ人が「考えてみれば、必要ないな」とつぶやくのを期待しているかのようだ)。ここでは、私が差し出せるのとはまるで別の大砲が必要なのだ。私があたえることのできそうな影響はといえば、なによりもまず、私に刺激されて、じつにたくさんのガラクタが書かれ、もしかしたらそのガラクタが刺激となって、いいものが生まれることかもしれない。いつも私に許されている希望は、このうえなく間接的な影響をあたえることだけなのだろう。

たとえば、歴史書に書かれている因果関係のおしゃべりほど、馬鹿ばかしいものはない。これほど逆立ちした、考えの浅いものはない。しかし誰がそのことを指摘して、そのおしゃべりを止めさせることができるのだろう。(まるでそれは、私が演説して、男女のファッションを変えようと思うようなものだ。)
MS 134 143: 13.-14.4.1947
ラボーアの演奏は「話しているみたい」と評されたことがあるが、このことを考えてみよう。なんと奇妙なことだろう。彼の演奏から「話すこと」を連想させたのは、なんだったのか。そして注目すべきことは、演奏と「話すこと」の類似が副次的ではなく、重要で大きなことだという点である。音楽を──もちろん、すべての音楽をではないが──言葉だと思いたくなることがある。もちろん、そうではない音楽もあるが。(といって、なにか価値判断をしているわけではない。)
MS 134 156: 11.5.1947
本は、生命に満ちている。──人間ではなく、蟻塚のようだ。
MS 134 157: 11.5.1947
あいかわらずわれわれは、土台にまで降りることを忘れる。疑問符を打ちこむ深さが十分でないのだ。

新しい概念が生まれるときの陣痛。
MS 134 180: 27.6.1947
「知恵は灰色」。だが生と宗教はカラフルだ。
MS 134 181: 27.6.1947
こう言えるかもしれない。科学と産業、そしてそれらの進歩が、今日ではいちばん長続きするものである。科学と産業がダメになるという推測はどれも、短期的にも長期的にも、たんなる夢にすぎない。科学と産業は、かぎりない悲嘆をともない、かぎりない悲嘆のあとで、世界を統一するだろう、つまり、ひとつの帝国にまとめるだろう。もちろんそのとき、その帝国には平和などないだろうが。
 なにしろ戦争を制するものは、科学と産業なのだから。すくなくとも、そう思われるのだから。
MS 135 14: 17.7.1947
なにやら、おまえしかやってないようなことに、興味をもつな。
MS 135 23: 16.7.1947
私の思想のひろがりは、私が思っているよりはるかに狭いようだ。
MS 135 85: 24.7.1947
思想は、泡が水面に浮上するように、ゆっくりあらわれる。

思想や考えが、かなたの水平線に浮かんでいる、ぼんやりした点のように見えることが、ときどきある。そしてその点はしばしば、驚くべきスビードで近づいてくる。
MS 135 101: 26.7.1947
国の経済が悪いと、家計も悪くなるのではないか。いつもストの用意をしている労働者は、子どもに秩序というものを教えないのだろう。
MS 135 102: 27.7.1947
みんなに見えているものを、神よ、哲学者にわからせたまえ。
MS 135 103 c: 27.7.1947
人生は、尾根のうえの道に似ている。左右には、すべりやすい傾斜があるので、どちらに傾いてもズルズルすべり落ちる。すべり落ちる人を私は何度となく目撃しては、「ああ、どうしようもないな」と思った。つまりそれは、「自由意思を否定する」ことである。自由意志否定の態度が、そう「思う」ことに表わされているのだ。だがそれは科学的な考えではなく、科学的確信とは関係がない。
 責任を否定する、とは、人間に責任を問わないことである。
MS 135 110: 28.7.1947
ある人たちの趣味と、訓練された趣味との関係は、半盲の目がうける視覚的印象と、健常な目がうける視覚的印象との関係に似ている。健常な目ではクリアに解像されるものが、弱視の人には、色のぼやけた斑点に見える。
MS 135 133: 2.8.1947
知りすぎている人にとって、ウソをつかないことはむずかしい。
MS 135 191: 17.12.1947
誰かが家でビアノを弾いていると、私は不安になる。弾きおわって、たどたどしいビアノの音が聞こえなくなっているのに、まだ演奏がつづいているような気がするのだ。幻聴にすぎないとわかっているのに、はっきりと聞こえるのである。
MS 135 192: 17.12.1947
宗教の信仰とは、あるひとつの座標系を情熱的に受けいれる(ような)ことにすぎないのではないか、と思われる。つまり信仰ではあるのだが、ひとつの生き方、生の判断の仕方なのである。情熱的にそういうとらえ方をすることなのである。だから、宗教的信仰の教育は、その座標系を描写・記述する必要があり、同時に、良心に語りかける必要もあるだろう。そして最後にはこの両方の力によって、生徒が自分の意思によって、自分でその座標系を情熱的に受けいれる必要がある。あたかもそれは、一方で、誰かに私が私の絶望的な状況を見せつけられ、他方では、非常用錨を投げてもらうようなものである。最後に私は、自分の意思で、しかしどんなことがあっても先生に手を引いてもらうことはなく、それに突進して、それをつかむのである。
MS 136 16b: 21.12.1947
そのうち、この文明から文化が生じるかもしれない。
 そのとき、十八世紀、十九世紀、二十世紀の、きわめて興味深い発明の、本当の歴史が存在することになるだろう。
MS 136 18b: 21.12.1947
科学研究において、いろんなことを言う。発言が研究でどんな役割をもつのか、わからないまま、われわれはたくさん発言している。確たる目的がどの発言にもあるわけではなく、ロが勝手に動いているのだ。思想の運動は慣習的であり、われわれは身につけたテクニックにしたがって、自動的に、移行している。役に立たない、それどころか目的に反した運動をたくさんしてきたので、これからは、思想の運動を哲学によってクリアにしなければならない。
MS 136 31a: 24.12.1947
まだまだ理解にはほど遠いと思えることがある。つまり、私がしゃべる必要のあることはなにか、そして私がしゃべる必要のないことはなにか、がわかる地点からはほど遠い場所にいるのだ。あいかわらず細かいことに巻き込まれて、これらの大きなことを問題にしていいのかどうか、わからない。どうも私が大きな領域を渉猟するのは、その大きな領域を考察の対象からはずすためだけなのかもしれいない。だがそうだとしても、考察が堂々めぐりをしていなければ、考察は無価値ではないだろう。
MS 136 37a: 25.12.1947
哲学するときには、古いカオスに降りていき、そこでくつろぐ必要がある。
MS 136 51a: 3.1.1948
天才とは、人格があらわれている才能のことである。だから私は言いたい。クラウスには、才能、異常な才能はあったが、天才はなかった、と。
 もちろん天才的なひらめきというものは存在する。それは、大きな才能が使われているにもかかわらず、才能を感じさせない。たとえば、「行動することなら牛や驢馬にもできるが……」という文章。こちらのほうが、クラウスの書いたどの文章よりも、はるかに偉大であることに注目しよう。こちらのほうは、知性の骸骨などではなく、人間の全体があるのだ。
 ある人の書いたものが偉大であるかどうかは、それ以外の、その人の文章や行動によって決まるのだが、いまの話は、このことの理由の説明にもなっている。
MS 136 59a: 4.1.1948
夢のなかで、また目覚めてから長い時間がたってからでさえ、夢の言葉が、きわめて重要な意味をもっているように思えることがある。似たような錯覚は、目が覚めているときにも経験しないだろうか。ときどき私はそういう錯覚におちいっているような気がする。狂人には、しばしばそういう錯覚があるようだ。
MS 136 60b: 4.1.1948
私がここで書いていることは、虚弱なものかもしれない。とすれば私には、大きなこと、重要なことを引き出す力がないのだ。だがこの虚弱な文章には、大きな展望が隠されている。
MS 136 62a: 4.1.1948
シラーが、(ゲーテ宛だと思うが)ある手糸のなかで、「詩的な気分」ということを言っている。それがどういうことなのか、私にはわかっているつもりだし、私自身、知っているつもりである。それは、自然を受けいれる気分であり、思想が自然のように生き生きしているように思える気分である。ところで注目すべきことだが、シラーはましなものを生み出さなかった (すくなくとも私にはそう思える)。だからがそういう気分で生み出すものに、なにか価値があるなどとは、まったく思えないのだ。私の思想が輝くのは、背後にある光によって照らされるときだけではないか。自分では輝かないのではないか。

ほかの人たちが歩きつづけている場所で、私は立ち止まる。
MS 136 80a: 8.1.1948
〔序言として〕この本を公刊するのに、ためらいがないわけではない。この本を手にする人の大部分は、私が苦手とする人たちである。願わくばこの本が、すみやかに哲学雑誌の書き手たちからすっかり忘れられて、もっと高貴な読み手に保管されることを。
MS 136 81a: 8.1.1948
私がここに書きつける文章で、進歩をしめしているのは、全体の何分の一かにすぎない。残りの部分は、床屋がカットのときハサミをカシャカシャさせるようなものだ。ちょうどいい瞬間にチョキンとやるためには、ハサミをたえずカシャカシャ動かしていなくてはならない。
MS 136 81b; 8.1.1948
縁のない領域で、答のわからない問いにしよっちゅう出会うが、そのたびに私には、縁のなくはない領域でいまだに私が不案内なのはなぜなのか、ということがはっきりする。なにしろ、こちらで答を阻止しているものが、かならずしも、あちらで霧を晴らさないものではない、かもしれないのだから。
MS 136 89a: 10.1.1948
干しぶどうは、ケーキの最上の部分だろう。だが干しぶどう一袋のほうが、ケーキ一個よりいいわけではない。干しぶどうがぎっしり詰まった袋をくれる人がいても、だからといってその人にケーキが焼けるわけではない。もちろん、もっとましなことができるわけでもない。
 私の念頭にあるのは、クラウスと彼のアフォリズムのこと。と同時に、私自身と私の哲学の文章のことでもである。
 ケーキ。それは、薄くのばした干しぶどう、のようなものではないのだ。
MS 136 91b: 11.1.1948
色は、われわれに哲学する気にさせる。色彩論にたいするゲーテの情熱は、このことから説明されるかもしれない。
 色は、われわれに謎をあたえるようだ。われわれを刺激するが、苛立たせはしない謎。
MS 136 92b: 11.1.1948
自分のなかにある悪いことなら、どんなことでも人間は幻惑とみなすことができる。
MS 136 107a: 14.1.1948
マーラーの音楽が、私の思うように無価値なら、問題は、彼がその才能でなにをするべきだったか、ではないだろうか。なにしろ、こんなにますい音楽をつくるには、一連のじつに風変わりな才能が明らかに必要だからである。たとえば彼は交響曲を書いて、焼き捨てるべきではなかったか。または無理にでも我慢して、書かないでいるべきではなかったか。書いたなら、それが無価値だと見抜くべきではなかったか。しかしどうやって見抜くことができただろうか。私にそれが見抜けるのは、マーラーの音楽と大作曲家たちの音楽を比較できるからだ。だがマーラーにはできなかった。比較することを思いついたなら、作品の価値に懐疑的になっただろう。ほかの大作曲家たちの、いわば資質が自分には欠けている、ということがわかるだろうからである。──だがマーラーには、比較したあとでも、自分の作品が無価値であることが見抜けないだろう。なにしろ彼は、なるほど(尊敬している)ほかの大作曲家たちとはちがうけれど、別の意味で自分には価値があるのだ、といつも思える人間なのだから。こういうふうに言えるかもしれない。「君の尊敬する人物が、君に似ていないなら、君が自分に価値があると思うのは、ただが君であるからにすぎない」。──自惚れと戦ってはいても、自惚れを抑えきれない場合には、いつも自分の作品には価値があると勘違いしてしまうだろう。
 だが、もっとも危険なのは、自分の仕事と過去の大作を、まず自分自身で比較し、それからほかの人に比較してもらうことによって、なんとか自分の仕事の位置づけをすることだろう。そのような比較は絶対に考えるべきではない。今日と以前とでは状況がずいぶんちがっており、自分の作品と以前の作品とを流儀にかんしては比較できない場合があるからだ。その場合、自分の価値をほかのものと比較することもできない。私自身、いま問題にしたミスをいつもくり返している。
 買収されないことが、なによりも大切だ。

コングロマリット。たとえば国民感情。
MS 136 110b: 14.1.1948
動物は名前を呼ぶと、やってくる。人間とおなじだ。
MS 136 113a: 15.1.1948
私は、適切でない質問を数かぎりなくする。この質問の森を通り抜けることができますように。
MS 136 117a: 15.1.1948
じつは私は、たえす句読点を打つことによって、読むテンポを遅らせたい。ゆっくり読んでもらいたいのである。(私自身が読むみたいに。)
MS 136 128b: 18.1.1948
べーコンは自分の哲学に行き詰まっていたのではないか。そしてその危険は私にも迫っているようだ。べーコンは、巨大な建物をはっきりと想像していたが、実際にその細部にわけいろうとすると、建物が消えてしまうのだった。まるでそれは、当時の人びとが巨大な建物を基礎から建設しはじめており、べーコンもそれに似たものを、そういう建物の姿を空想のなかで見たかのようなのだ。しかも、実際に建築に従事している人たちよりも、べーコンのほうが鼻をふくらませていた。そのためには、建築方法について予感のようなものが必要だったが、建築の能力はまったく必要なかった。まずいことにべーコンは、専門の建築家にたいして攻撃的であり、おまけに自分の限界がわかっていなかった。あるいは、知ろうともしなかった。
 しかし別の面からいえば、途方もなくむずかしいのは、そういう限界を見ること、つまり限界を明確に描き出すことなのだ。いわばそれは、明確でないものを描き出すための、画法を見つけることである。なにしろ私としては、「目に見えるものだけを、描くのだ」と、つねに自分に言い聞かせたいのだから。
MS 136 129b: 19.1.1948
夢は、フロイト流の分析では、いわば分解されてしまう。最初の意味をすっかりなくしてしまうのだ。こう考えることができるだろう。夢が舞台で演じられている。芝居のストーリーは、ちょっとわかりにくいが、部分的にはよくわかる箇所もある。あるいは、そう思える。ところがフロイト流に分析されると、そのストーリーは小さな部分に引き裂かれ、そのそれぞれの部分に、まったく別の意味があたえられるのだ。あるいはまた、こう考えることもできるだろう。一枚の大きな紙に絵が描かれている。ところがフロイト流に分析されると、紙が折りたたまれてしまい、一見したところ、まるで脈絡のない断片が並んでいるように見えて、それから──意味のあるなしは別として──一枚の新しい絵が生まれるのだ。(この新しい絵が、夢に見た夢であり、最初の絵は「潜在的な夢の思想」ということになる。)
 そこで私は、こう考えることができるだろう。誰かが、折りたたまれた絵をひろげて見て、「そうだ、これでわかった。これが私の見た夢なんだ。おまけに、すき間もないし、ゆがんでもいない」と叫んだとしよう。まさにそう確認されることによって、解読されたというわけである。ちょうどそれは、文章を書いているときに、言葉を探していて、「これだ、これこそ、私の言いたかったことなんだ」と言うのに似ている。そういうふうに承認されることによって、その言葉が、発見された言葉、つまり探されていた言葉であるというお墨付きをもらうのだ。(ここで、こんなふうに言ってしまってもいいだろう。「発見してはじめて、自分がなにを探していたのか、わかるのだ」これは、願望についてラッセルが語っていることに似ている。)

夢でだまされやすい点は、夢が、私の人生の出来事などと因果関係をもっている、ということではない。むしろ夢が、物語の一部に思えることである。しかもその部分はとても生き生きしていて、残りの部分は闇のなか (なので、「この人物は、どこからやってきて、どうなったのか」と聞きたくなるだろう)。さて誰かから、「この物語は本当の物語ではなく、実際、まったく別の物語にもとづいているのさ」と言われて、失望した私が「えっ、そうなんですか」と言いたくなったとしても、やはり私としては、なにかを盗まれたような気分になるのである。もちろん、最初の物語は、紙がひろげられるとバラバラになる。私が見た男は、ここから取られ、その言葉はあそこから取られ、夢の舞台はまた別なところから取られ、といった具合なのだが、それにもかかわらず夢の物語には、独特の魅力がある。それは、われわれを惹きつけ、われわれにインスビレーションをあたえる絵のようだ。
 もちろん、こう言うことができる。われわれはインスビレーションをもって夢の絵をながめているのだ。われわれにはまさにインスビレーションがあるのだ。というのも、ほかの人に夢を語るとき、たいていの場合、夢の絵はインスピレーションをあたえないからである。夢は、仕上げの可能性をはらんだ考えに似ている。
MS 136 137a: 22.1.1948
どんな誤りでも、そこから貨幣を鋳造せよ。
MS 137 17a: 10.2.1948
音楽のフレーズの理解と説明。──ジェスチャーで説明するのが、いちばん簡単な場合がある。ダンスのステップで説明したり、ダンスを描く言葉で説明する場合もある。しかしフレーズの理解とは、フレーズを聴いているときにする体験のことではないのか。とすれば、説明とはなにをすることなのか。われわれは音楽を聴きながら、説明を考えるべきなのか。そのときにダンスとか、なにか別のものを思い浮かべるべきなのか。もしもそうするなら、──ではなぜそれが、音楽を理解して聴くことになるのか。ダンスを見ることが大切なら、音楽のかわりにダンスを踊るほうがましだろう。だがそれはすべて誤解である。
 私が誰かに「それはまるで……のよう」と言って説明すると、その人は「はい、それでわかりました」とか、「はい、どうやって弾くのかわかりました」と言う。しかしながら私の説明を真に受ける必要はなかった。私は、「この箇所はこれこれに似ている」ということを、いわば説得力のある理由をあげて説明したわけではないのだ。また、「この箇所はこれこれのことを描いている」と説明したときに、作曲者の言葉を引いたわけでもないのである。

「この主題を聴いて、理解したとき、いったい私はどんな体験をしたのか」。このことを問題にするなら、──私の頭に浮かんでくる答は、馬鹿ばかしいものばかりである。たとえばイメージとか、運動の感覚とか、考えとか……。
 もちろん私は、「いっしょに行く」と言う。──だがこれはどういうことか。身ぶりで音楽の伴奏をする、というようなことかもしれない。するとそこで、「たいていそれは、きわめて初歩的な段階で行なわれることですね」と指摘されたら、「初歩的な運動を補なうのがイメージなんです」といった答が考えられる。だが、誰かが音楽を運動によって完全に伴奏したとするなら、どの程度までそれで、音楽が理解されたことになるのだろうか。また私は、「運動や動作が理解である」とか「彼の運動の感覚が理解である」と主張するのだろうか。 (私に、彼の運動の感覚のなにがわかるのだろうか)。──確かに私は場合によっては、彼の動きを、理解のしるしとみなすだろう。

さて私は、(イメージや、運動の感覚などを説明とは認めない場合)、「理解というのは、それ以上は分析できない特定の体験なのだ」と言うべきなのだろうか。「それが特定の体験内容である」、という意味でないのなら、まあそういう発言も可能だろう。なにしろその言葉からは実際、見る、聴く、におうの区別を考えてしまうのだから。

「音楽を理解する」とはどういうことか、はどのように人に説明されるのだろうか。理解する人がいだくイメージとか、運動の感覚などを口にすることによってだろうか。いやむしろ、理解する者の表情の動きを示すことによってである。それから、こういうことも問題になる。説明にはここではどんな機能があるのか。また、音楽を理解するとはどういうことか、を理解するとはどういうことか。「それを理解するとは、自分で音楽を理解することだ」と言う人がいるかもしれない。すると、「音楽を理解することは、人に教えられるものなのか」が問題とされるだろう。そういうことを教えることだけが、音楽の説明と呼べるものなのだろうから。
 音楽を聴いたり、演奏したりしているときに、また別のときにも、音楽の理解は、なんらかの形で表現されるものだ。それは、動きである場合もあれば、理解している者の演奏とかハミングだけの場合もあるし、また、理解している者がロにする比喩とか、音楽のイラストのようなイメージの場合もある。音楽を理解する者は、理解しない者とは別な具合に(たとえば別な表情をして)聴いたり、別な具合にハミングしたり、別な具合に作品について語ったりするだろう。ある主題を理解していることは、ところで、その主題を聴いたり演奏するときの付随現象においてわかるだけでなく、音楽一般にたいする理解においてもわかるものである。

音楽の理解とは、人間の生の表われである。では、どのようにそれを描くべきか。まずなによりも、音楽を描くべきだろう。そうすれば、人間と音楽の関係を描くことができるだろう。だが必要なのは、それですべてだろうか。理解ということまでも教える必要はないのか。理解ということを教えるのは、そんなことを教えないレッスンとはちがった意味で、理解とはなにかということを教えることになるだろう。実際、詩や絵画を理解することを教えることも、音楽を理解するとはどういうことか、の説明とおなじことだろう。
MS 137 20b: 15.2.1948
子どもたちはすでに学校で、水は水素と酸素からなりたち、砂糖は炭素と水素と酸素からだ、と教えられている。それがわからない子どもは、馬鹿というわけだ。いちばん大切な問題が隠される。
MS 137 30b: 8.3.1948
星の形──たとえば六角星──を、特定の軸にかんしてシンメトリーなものとして見ると、その美しさがそこなわれる。
MS 137 34b: 10.3.1948
バッハは言った。「私のやったことは、すべて努力のたまものにすぎない」。だがそのような努力をするには、謙虚さと、とてつもない辛抱づよさ、つまりカとが必要なのだ。そうやって自分を完全に表現できる者が、われわれに、偉大な人間の言葉で語りかけてくれるのである。
MS 137 40b: 28.5.1948
今日の人間教育は、悩み苦しむ能力をへらす方向に流れているようだ。子どもたちが楽しくすごしているなら、その学校は今日では、いい学校ということになる。以前なら、そんなことが尺度にはならなかったのだが。親たちは、子どもが自分たちとおなじように(ただし自分たち以上に)なることを望んでいるくせに、自分たちが受けた教育とはまったくちがう教育を、子どもたちに受けさせている。悩み苦しむ能力など、評価されていない。悩みや苦しみはあってはならないのだ。そんなものは、時代遅れなのだから。

「物事の悪意」これは不必要な擬人化だ。世界の悪意となら言えるだろう。悪魔がこの世界を、またはその一部をつくったのだとは、簡単に想像できるだろう。だが、それそれの場合におうじて、デーモンの介入を想像する必要はない。すべては「自然の法則にしたがって」起きるのである。とすると、プラン全体が最初から悪をめざしていたわけだ。人間が住んでいるこの世界では、物事がこわれ、すべり、ありとあらゆる災いをひき起こす。そして人間は、もちろん物事のひとつなのだ。──物事の「悪意」というのは、馬鹿げた擬人化である。実際は、そういうフィクションよりも、はるかに厳粛なのだから。
MS 137 42a: 30.5.1948
なにかのスタイルで間に合わせるのは、便利だろうが、私には禁物だろう。たとえば、ショーペンハウアー流に「……としての」を使えば、表現がもっとスムーズに、明確になることもあるだろうが、それが仰々しくて古くさいと感じられるなら、使ってはならない。そういう感覚を無視すべきではない。
MS 137 43a: 30.5.1948
宗教的な信仰と迷信とは、まったく別物である。一方は恐れから生じて、疑似科学のようなものだが、他方は信頼そのものである。
MS 137 48b: 4.6.1948
もしも、植物の心をもった──つまり心のない──動物が存在しないとすれば、かなり奇妙なことだろう。
MS 137 49a: 4.6.1948
どんなものであれ、なにかが自然のなかで「機能をもち」、「目的をはたす」ことがあるとしても、そのなにかが、目的をはたさず、それどころか「目的の邪魔をする」場合もある。このことを、自然誌の基本法則とみなすことができるだろう。
 夢が眠りをささえることがあるなら、夢が眠りを乱すこともある、と考えておくべきだ。夢の幻覚が(空想上の願望実現という)納得のいく目的をはたすことがあるなら、目的の邪魔をする場合もある、と考えておくべきだ。「ダイナミックな夢理論」など存在しない。
MS 137 49b: 4.6.1948
異常を精確に描きあげることは、なぜ大切なのか。それができないなら、異常という概念がよくわかっていないことになる。
MS 137 51a: 15.6.1948
あまりにもフニャフニャで、あまりにも弱虫で、だから、あまりにも怠け者なので、私はすぐれたことができない。偉大な人間は努力家である。とくにそれは、偉大な人間に力がある証拠なのだ。その精神が豊かであることは別として。
MS 137 54b: 25.6.1948
実際もしも神が、救われるべき人間を選ぶのであれば、神は人間を、国や人種や気質によって選んでもよいことになる。神の選択が、自然法則のなかに表現されてもよいことになる。(たしかに神は、ある法則に沿うように選択することもできたのだ。)
 十字架の聖ヨハネの著作の抜粋を読んだ。「人びとが破滅したのは、不幸にも、ちょうど必要なときに賢明な宗教的指導者にめぐりあえなかったからである」
 では、「神は人間にカ以上のことをさせようとはしない」と、どうして言えるのだろう。
 ここで私は、「ゆがんだ概念のせいでたくさんの災いがもたらされた」と言いたくなるのだが、実際のところ私には、なにが祝福をもたらし、なにが災いをもたらすのか、まったくわからないのだ。
MS 137 57a: 26.6.1948
忘れてはならないことがある。どんなに洗練された、どんなに哲学的な疑いも、直観を基礎としている。たとえば、「……ということは、けっしてわからない」と言っても、もっと論証する余地が残っているのだ。それを教えてもわからない人がいると、われわれはその人の精神が劣っているように思えるだろう。ちょっとのことすら、まだ考えられないのだから。
MS 137 57b: 30.6.1948
夜の夢に、白昼夢とおなじような機能があるのなら、夜の夢の役割の一部は、人間に(最悪の可能性をも含めて)あらゆる可能性を覚悟させることだ。
MS 137 65b: 3.7.1948
神の存在を確信をもって信じることができるなら、他人の心の存在も信じることができるのではないか。
MS 137 67a: 3.7.1948
音楽のフレーズは、私にとっては身ぶりである。それは私の人生に忍び込む。私はそれを自分のものにする。

人生がかぎりなく変奏されるのは、われわれの人生にとって本質的なことである。したがって、人生の習慣にとっても本質的なことである。表現は、予測不能という点においてなりたっている。彼がどういうふうに顔をしかめ、どんなふうに動くのか、を私が精確に知っていたら、表情も、身ぶりも存在しなくなるだろう。だが、そうだろうか。──隅々まで(完全に)知っている曲に、私はくり返し耳を傾けることがある。その曲はオルゴールででも演奏できるだろう。次はどうなるか、ちゃんとわかっているにもかかわらず、その曲の身ぶりは、私にはつねに身ぶりでありつづけるだろう。(ある意味では)くり返しその曲に驚かされることだってあるのだ。
MS 137 67a: 4.7.1948
正直な宗教の思想家は、綱渡りに似ている。一見したところ空中を歩いているかのようだ。足場は、およそ考えられるかぎりもっとも細いのだが、実際にそこを歩いていくことができるのである。
MS 137 67b: 5.7.1948
(たとえば約束を)しっかり信じること。それは、数学の真理を確信することより、不確かではないか。──(だが、そのせいで、ますます言語ゲームに似てくる。)
MS 137 70b: 7.7.1948
われわれの観察にとって重要なのは、「あの人たちの心は、私にはけっしてわからないだろう」とか、「あの人たちのことはけっして理解できない」と感じさせてしまう人たちが存在していることである。(ヨーロッパ大陸の人間から見たイギリスの女性たち。)
MS 137 71a: 9.7.1948
音楽の主題が(きわめて)異なったテンポで演奏されるとき、その性格が変わるということは、大切で注目すべき事実である。量から質への移行。
MS 137 72b: 14.7.1948
人生の問題は、表面では解けない。深いところでのみ解くことができる。表面の次元では解くことはできない。
MS 137 73b: 25.7.1948
会話では、一方の人がポールを投げる。投げられた相手は、どうしたらいいかわからない。ポールを投げ返すべきか、別の人に投げるべきか、そのままポールを転がしておくべきか、拾ってポケットにつっこむべきか、など。
MS 137 75b: 23.8.1948
ひどい時代の大建築家(ファン・デル・ニュル)は、いい時代の大建築家とはまったくちがう使命をおびている。ここでも、一般的な概念によってだまされてはならない。比較が可能であることではなく、比較が不可能であることを、当然だと考えるべきだ。
MS 137 76a: 19.10.1948
虚構の概念があってはじめて、われわれの使っている概念が理解できるようになる。そういう虚構の概念をつくりあげることほど、大切なことはない。
MS 137 78b: 24.10.1948
「考えることはむずかしい」(ウォード)。これはどういうことだろう。なぜむずかしいのか。それは、「見ることはむずかしい」と言うのと、ほとんどおなじである。集中して見ることは、むずかしいからだ。集中して見ても、なにも見えないということがある。また、あるものをずっと見つめていると思っているのに、はっきり見えないことがある。なにも見ていないのに、見ることによって疲れることがある。
MS 137 81b: 27.10.1948
糸玉をほどくことができないとき、いちばん利ロな態度は、ほどけないと悟ることである。いちばん行儀がいいのは、ほどけないと認めることである。[反ユダヤ主義。]

 悪を除くために、なにをするべきか、は明らかではない。なにをしてはいけないか、は場合によって明らかである。
MS 137 88a: 4.11.1948
注目すべきことだが、ブッシュの線画はしばしば「形而上学的」と呼ばれることがある。とすると、形而上学的な描き方があるわけだ。「永遠を背景にして、見た」と言えるだろう。だが、描かれた線がそういう意味をもつのは、ある言語の全体においてだけである。しかもそれは文法のない言語だから、その規則を列挙するわけにはいかないのだ。
MS 137 89b: 4.11.1948
カール大帝は年をとってから、書き方を学ばうとしたが、できなかった。われわれも、思想の動きを身につけようとしても、うまくいかない。けっしてなめらかには動けないのだ。
MS 137 89b: 5.11.1948
拍子をとって話される言葉があるなら、その言葉は、メトロノームにあわせて話すこともできる。われわれの言葉のように、音楽も、なにかのついでにメトロノームにあわせて演奏できる、ということは自明ではない。(第八交響曲の主題を、メトロノームにあわせて精確に演奏すること。)
MS 137 97b: 14.11.1948
みんながおなじ目鼻立ちをしていると仮定してみよう。そういう人たちのところに放り込まれれば、わけがわからなくなるだろう。
MS 137 97b: 16.11.1948
まちがった思想でも、大胆明晰に表現されているなら、もうそれだけで大収穫だ。
MS 137 100a: 19.11.1948
哲学者たちよりもはるかに狂って考えたときにだけ、哲学者たちの問題を解くことができる。
MS 137 102a: 20.11.1948
誰かが振り子をながめていて、「神がこういう具合に動かしている」と思ったとしよう。しかし神にも、一度くらいは計算どおりにふるまう権利がないのだろうか。

私よりはるかに才能に恵まれた作家でさえ、ごくわずかな才能しかもっていないのではないか。
MS 137 104a: 21.11.1948
仕事中に「さあ、これで切りあげよう」と思うのは、人間のからだの欲求である。哲学のときには、からだの欲求にいつも逆らって、考えつづけなければならない。だから哲学の仕事は、じつに骨が折れる。
MS 137 104a: 22.11.1948
自分のスタイル(文体)にまずい点があったとしても、引き受けるしかない。自分の顔がまずいときだって、そうだろうが。
MS 137 106b: 23.1.1948
利ロな禿げ山から、緑なす愚かな谷間へ、いつも降りてゆけ。
MS 137 111b: 28.11.1948
私にある才能はといえば、いつも「災いを転じて福となす」式の代物でしかない。

伝統は、誰もが受容できるものではない。気に入ったからといって、たぐりよせることのできる糸ではないのだ。自分の祖先を選択できないように、伝統も選択するのはむずかしい。
 伝統をもっていなくて、伝統をもちたいと思う者は、果たせぬ恋をしている者のようだ。
幸福な恋をしている者も、不幸な恋をしている者も、それぞれそれなりの情熱をもっている。
 しかし、幸福な恋をしていて良い人間であるより、不幸な恋をしていて良い人間であるほうが、むずかしい。
MS 137 112b: 29.11.1948
ムーアは彼の逆説によって、哲学というハチの巣をつついてしまった。ところがハチたちがそれっとばかりに飛び出してこなかったのは、ハチたちが鈍重すぎたからにすぎない。
MS 137 120a: 10.12.1948
精神的なものの領域での企ては、たいていの場合、継続は不可能である。また絶対に継続すべきでもない。それまでの思想は、新しい思想のための、土地の肥やしとなる。
MS 137 122a: 11.12.1948
君の書くものは理解しにくいから、君はまずい哲学者というわけだ。もしも、ましな人間なら、むずかしいものを理解しやすく書くだろう。──ところで、そういうことができると言っているのは、誰だ?! 〔トルストイ〕
MS 137 127a: 16.12.1948
人間の最大の幸福は愛である。精神分裂病者について、次のように言うとしよう。「彼は愛さない」、「彼は愛することができない」、「彼は愛そうとしない」──区別はどこにあるのだろう?!

「彼は……しようとはしない」とは、彼の手に負えない、という意味である。では、誰がそう言おうとしているのか?!

なにについて、「それは私の手に負えない」と言われるのか。──なんらかの区別をつけたいときに、そう言われるのだ。「この目方なら、もちあげられますが、私にはその気がありません。そちらの目方は、私には無理です」

「神が命じたのだから、人にできるにちがいない」。この発言は無意味である。ここには「だから」はありえない。前半と後半は、せいぜいおなじことを意味しているだけではないか。

「神が命じた」というのは、ここではほぼ、「神は、そうしない者を罰するだろう」という意味である。とすれば、「できる」ということまで言っているわけではない。そしてそれこそが、「恩恵の選び」の意味なのだ。

しかし、だからといって、「人はそうすることしかできないにもかかわらず、神は罰する」と言うのが正しいわけではない。──しかしながら、「人が罰してはならない場所で、罰が下される」と言うことはできるだろう。するとここでは、「罰」という概念そのものが変わるわけだ。これまでの説明がここでは通用しなくなっている。あるいは、まったく別の使い方が必要なのだ。『天路歴程』のようなアレゴリーを考えてみればいい。そこでは──ー人間の視点からすればなにもかもがチグハグである。──だが、ほんとうにチグハグなのだろうか。つまり、そのアレゴリーには使い道がないのだろうか。だが、実際には使われてきたのだ。 (駅に、針が二本ついた時計の文字盤がある。次発の列車の発車時刻を知らせるものだ。時計のように見えるが、時計ではない。だが、それなりに使われているのである)。(もっとましな比喩が、ここでは考えられるだろう。)

そのアレゴリーが不快な人には、「ちがった使い方をしてくたさい」とか、「気にしないでください」と言うこともできるだろう。(だが、そのアレゴリーに助けられるというよりは、混乱させられる人もいるのだ。)
MS 137 130a: 22.12.1948
読者にもできることは、読者にまかせることだ。
MS 137 134b: 25.12.1948
ほとんどいつも私は、自分自身との対話を書いている。私自身とふたりっきりで話していることを、書いているのだ。
MS 137 134b: 26.12.1948
功名心は、思考の死。
MS 137 135a: 27.12.1948
ユーモアは、気分ではなく、世界観である。だから、もしも「ナチス・ドイツではユーモアが絶減させられてしまった」と言うことが正しいなら、その発言は、「みんなの機嫌がよくなかった」といった意味ではなく、もっと深くて重要な意味をもっているのだ。
MS 137 135a: 28.12.1948
ふたりの人間が、なにかの冗談がきっかけで、いっしょに笑っている。ひとりが、ちょっと耳慣れない言葉を口にして、ふたりが吹き出したのだ。このことは、ちがった環境からやってきたよそ者にとっては、きわめて異様なことに思われる。われわれにとっては、ごく当たり前に思えるのだが。
(こういう光景を最近私はバスで見かけ、よそ者の気持ちを味わうことができた。それがまったく非合理的なもので、なじみのない動物の反応のように思えたのである。)
MS 137 136b: 31.12.1948
夢の物語には、いろいろな記憶が混ざっている。しばしばそれは、意味があって、謎めいたものになる。いわば、ひとつの断片となり、強い印象を(ときどき)あたえるので、われわれは、説明とか関連をさぐることになる。
 しかしなぜ、今頃こういう記憶が戻ってきたのか。次のように言いたいのは誰だろう。──それは、現在の生活と、つまり願いや恐れなどとも関係があるのだ、と。──「だが君は、この現象が特定の原因と関係しているにちがいない、と言いたいのか」──私としては、こう言いたい。そのことの原因を発見しようとすることには、かならずしも意味があるわけではない、と。

シェイクスビアと夢。夢は、まるでまちがっていて、馬鹿げていて、寄せ集めだが、まったく正しいものでもある。その奇妙な寄せ集めにおいて、印象的なのだ。なぜか。私にはわからない。もしもシェイクスビアが──よく言われるように──偉大であるのなら、こう言えるにちがいない。シェイクスピアはすべてがまちがっていて、ズレている──けれども、独自の法則によれば、まったく正しいのだ、と。
 次のようにも言えるだろう。シェイクスピアが偉大であるのなら、その偉大さは彼のドラマ全体のなかにしかない。彼のドラマは独自の言語と世界をつくりあげているのだ。だから彼は、まったく非リアリズムである。(夢のように。)
MS 168 1r: 1.1949
キリスト教が真理なら、キリスト教についての哲学はすべて虚偽だ。
MS 169 58v: 1949
文化は修道会会則である。あるいは修道会会則を前提としている。
MS 169 62v: 1949
「祭り」の概念。われわれなら楽しいと思う。が、別の時代には、恐怖しか思い浮かべないかもしれない。「ウィット」とか「ユーモア」とわれわれが呼ぶものは、別の時代にはきっと存在していなかったのだ。そして両方とも、たえず変化しているのである。
MS 137 137a: 1.1.1949
「文体、それは人間である」。「文体、それは人間そのものである」。最初の表現は、安つぼい警句のように短い。二番目の表現は適切で、まったく別のパースペクティブをひらく。つまり、「文体は人間のである」と言っているのだ。

種をまく文章があれば、収護をする文章もある。
MS 137 140a: 4.1.1949
概念の状態の風景を、その個々の断片から組み立てることは、私にはむずかしすぎる。じつに不完全にしか私には組み立てられない。
MS 137 141a: 6.1.1949
私が不慮の出来事にそなえているとき、君はかなり自信をもって、「そんなこと起きないだろう」と言うかもしれない。場合によるが。

なにか知っていながら、知らないふりをするのは、むずかしい
MS 137 143a: 7.-8.1.1949
言おうとすることの意味が、言葉で言い表わせるよりもはるかにクリアに、頭に浮かんでいる場合が、現実に存在する (私にはじつによくあることだが)。まるでそれは、はっきりと夢を覚えてはいるのだが、それをうまく物語れないようなものである。実際、しばしば夢のイメージは、書き手(私)にたいしては、言葉の後ろにとどまったままなので、言葉のほうが私のかわりに夢のイメージを書いているように思えるのだ。

凡庸な物書きが気をつけるべきことは、荒削りで不正確な表現を、正確な表現に性急に置き換えないことである。そんなことをすれば、最初のひらめきが殺されてしまう。小さな植物にはまだ生命があったのに、正確さのために、枯れて、すっかり無価値となる。ゴミとして捨てられてしまいかねない。貧相でも植物のままであったなら、なにかの役には立っていたのだが。
MS 138 2a: 17.1.1949
過去には何者かであった物書きたちが、古びるのはなぜか。彼らの書いたものは、当時の状況に補強されて、当時の人びとに強く語りかけたからである。だがその補強がなくなると、色をつけていた照明が取り外されたかのように、死に絶えるのである。
 これと似たようなことは、数学の証明の美しさではないだろうか。その美しさはパスカルですら感じていたが。そういう世界の見方のなかにこそ数学の証明の美しさがあったのだ。──それは、浅薄な人たちが美と呼ぶものとはちがう。水晶もまた、どんな「状況」においても美しいわけではない。──どんなときにも魅力的かもしれないいが。──

時代全体が、ある種の概念──たとえば「美しい」とか「美しさ」という概念──にペンチのようにはさみつけられて、身動きできない。
MS 138 3a: 18.1.1949
芸術や価値についての私自身の考え方は、百年前の人たちの考え方がそうであっただろうよりは、はるかに醒めている。だからといって、私のほうが正しいわけではない。ただ私の精神の前景には、百年前の精神の前景にはなかった没落が見えているだけの話である。
MS 138 4a: 18.1.1949
心配事は病気に似ている。われわれはそれを引き受けるしかない。最悪の態度は、それに抵抗することだ。
 心配事は、内面の問題や外部の問題がきっかけで、発作的にやってくることもある。そのときは「また発作だ」と思うしかない。
MS 138 4b: 19.1.1949
科学の問題に、私は興味はあるが、虜になってしまうということはない。私が心をひかれるのは、概念美学の問題だけである。科学の問題の解決は、結局どうでもいいのだ。概念と美学の問題の解決は、ちがうが。
MS 138 5b: 21.1.1949
考えが堂々めぐりをしていない場合でも、うっそうとした問題の森のなかをまっすぐ歩いて、森から抜け出すこともあれば、ぐにゃぐにゃ曲がった道やジグザグの道を歩いて、森から抜け出せないこともある。
MS 138 8a: 22.1.1949
安息日は、たんなる休息や休養の時間ではない。自分の仕事を、内側からだけでなく、外からながめるための時間なのだ。
MS 138 8b: 23.1.1949
哲学者どうしの挨拶は、「どうそ、ごゆっくり」であるべきだろう。
MS 138 9a: 24.1.1949
永遠なもの、大切なものは、人間にとってしばしば、不透明なべールで隠されている。べールのしたになにかがあるのはわかっているが、その姿が見えない。べールが昼の光を反射しているのだ。
MS 138 9a: 24.1.1949
死ぬほど不幸になってもいいではないか。それも人間の可能性のひとつである。「コリント・ゲーム」の球のコースのように、可能なコースのひとつなのだ。しかもそれは、めずらしいコースですらないのかもしれない。
MS 138 9b: 25.1.1949
利ロな禿げ山より、愚かな谷間のほうが、哲学者にとっては、あいかわらずたくさん草が生える。
MS 138 11a: 28.1.1949
時計の等時性と音楽における等時性。両者はけっしておなじ概念ではない。拍子をとって厳密に演奏することは、メトロノームにあわせて精確に演奏することではない。しかし、ある種の音楽はメトロノームにあわせて演奏できる、ということもあるだろう。(第八交響曲の〈第二楽章の〉最初の主題は、その種の音楽ではないか。)
MS 138 12a: 30.1.1949
地獄墜ちの罰という概念を、罰の概念によらずに説明することができるだろうか。また、神の慈悲という概念を、慈悲の概念によらず説明できるだろうか。
 君が、君の言葉によって正しい効果を求めるなら、そんな説明はもちろんできない。

かりに、こんな教義が教えられたとしよう。──おまえがこれこれのことをして、かくかくのように生きるなら、死後、おまえを永遠の苦しみの場所に連れていくような「神」が存在するのだ。大部分の人間は苦しみの場所へ行くことになり、ごくわずかの人間だけが、永遠の喜びの場所へ行く。──その「神」は、いい場所へ行く予定の人を、最初から選んでいたのだ。そして、ある種の生き方をした者だけが、苦しみの場所へ行くわけなのだから、それ以外の者も最初から、ちがった生き方を定められていたわけだ。
 このような教義が、どうやって効果を発揮するのだろうか。

つまりここで語られているのは、罰ではなく、むしろ一種の自然法則なのだ。そしてその光のなかでこの教義を教えられた者は、絶望とか無信仰しか学ばないのではないだろうか。

この教義は、倫理の教育にはならないだろう。もしも、倫理の教育をするとともに、この教義も教えようと思うなら、倫理の教育のあとで、この教義を、不可解な神秘のようなものとして提示するしかないだろう。
MS 138 13b: 22.2.1949
「あの方は、慈悲をもって彼らを選ばれた。そしてあの方は、おまえを罰するだろう」。この発言は意味をなさない。前半と後半の視点は、それそれにちがう。後半は倫理的であり、前半は倫理的ではない。そして前半といっしょにすると、後半は不条理になる。
MS 138 25a: 2.2.1949 
「休息 (ラスト)」と「急ぎ (ハスト)」とが韻を踏んでいるのは偶然である。だが幸福な偶然だ。君はこの幸福な偶然に気づくだろう。
MS 138 25a: 22.2.1949
はじめてべートーヴェンの音楽で、アイロニーの表現と呼べるものが登場する。たとえば第九の第一楽章。しかもそれは彼の場合、運命のアイロニーといった、恐るべきものなのだ。──ワーグナーの場合にもアイロニーが登場するが、市民的なものになっている。
 こういうふうに言えるだろう。ワーグナーとブラームスは、それそれの流儀で、べートーヴェンの真似をした。だがべートーヴェンの場合に宇宙的であったものが、ふたりの場合は世俗的である。
 べートーヴェンにも似たような表現が登場するが、ちがった法則にしたがっている。

運命は、モーツァルトやハイドンの音楽において実際、なんの役割もはたしていない。彼らの音楽は、運命とかかわったりはしないのだ。
 あの頓馬のトーヴィが、こう言っている。「こういったことは、ある種の読書をモーツァルトがまったくしていなかったことと関係がある」。まるで本だけが、巨匠の音楽を決定した、とでも言いたげではないか。もちろん音楽と本には関係がある。だがモーツァルトが読書で大悲劇を知らなかったとしても、だからといって実生活で悲劇を味わわなかったのだろうか。そして作曲家は、いつも詩人の眼鏡をとおしてしか、ものを見ないのだろうか。
MS 138 28b: 27.2.1949
三重対位法は、まったく特定の音楽環境にしか存在しない。
MS 138 28a: 27.2.1949
音楽における心のこもった表現。それは強弱やテンボの度合いでは表わせない。心のこもった表情が、空間的な尺度で表わせないのとおなじである。実際、なにかのパラダイムをもってきて説明できるわけではないのだ。 おなじひとつの曲でも、無数のやり方で、心のこもった表現の演奏ができるのだから。
MS 138 29a: 1.3.1949
「神の本質が神の存在を保証している」──つまり実際のところ、ここでは神の存在は問題にならないのだ。

同様に、「色の本質は色の存在を保証する」とは言えないだろうか。たとえば「白い象」とは対照的に。とはつまり私は、色見本を手にしてでなければ、「色」とはなにか、「色」という言葉はどういう意味か、説明できないのである。とすれば、「かりに色が存在するなら、それはどんな具合になのか」の説明は、ここでは存在しないのだ。

そうするとこう言うことができるだろう。──もしも神々がオリンポスの山に存在するとすれば、それはどんな具合になのか、述べることができる。だが、「もしも神が存在するとすれば、それはどんな具合になのか」は、述べることができない。このことによって、「神」 の概念は、もっと詳しく定義される。

「神」という言葉(つまりその用法)は、どんなふうに教えられるのか。私には、その言葉を漏れなく体系的に説明することはできない。だが説明に、いわば、いくらか貢献することならできる。つまり、なにかしゃべることはできるし、ことによると時間をかければ、用例集のようなものを編むことができるかもしれない。

ここで忘れてならないことがある。辞書にはその種の用例をいろいろ書きたいと思うかもしれないが、実際には、ほんのわずかの用例や説明しかつけないものである。また、これも忘れてならないことだが、実際、たくさん書く必要はないのだ。えんえんと長く書いたとしても、どうしようもないのだから。よく知っている言語の、単語の用法が問題のとき、長ったらしく書かれていても、どうしようもない。だがそれが、アッシリア語の単語の用法の説明だとしたら? そして説明は何語で? もちろん、アッシリア語ではない、よく知っている言葉で。──説明でよく書かれるのは、次のような言葉である。「ときどき」とか、「しばしば」とか、「普通は」とか、「ほとんどいつも」とか、「ほとんど……ない」。

説明のときどんな具合に書くのか、いい手本を作るのはむずかしい。

そして結局のところ私は、画家にすぎない。それもしばしば、きわめて下手くそな画家なのだ。
MS 138 30b: 17.3.1949
人びとがユーモアにたいしておなじ感覚をもっていなかったら、どうだろう。おたがいの反応が適切でなくなる。たとえば、ある人たちは、相手にポールを投げると、相手はそれを受けて、投げ返す慣習になっているのだが、別の人たちは、ポールを投げ返さず、ポケットにつっこんでしまうようなものである。

あるいは、他人の趣味がまったくわからないときは、どういうことになるのだろう。
MS 138 32b: 20.5.1949
われわれのなかにしっかり根を張っているイメージを、もちろん、迷信にたとえることはできる。しかし、われわれはいつも、なんらかの、しっかりした土台に降りていく必要がある、と言うこともできる。そうすれば、その土台がイメージであっても、イメージでなくても、すべての思考の土台にあるイメージが、尊重されることとなり、迷信としては扱われなくなるのではないか。
MS 138 32b: 20.5.1949
人間の性格が外界の影響をうけることがある (ヴァイニンガー)。これは、前代未聞のことではない。なにしろそれは、経験によれば人間は状况とともに変化するものだ、という意味でしかないのだから。たとえば、「どのようにして環境は人間に、人間の倫理を強制できるのだろうか」という質問にたいして──答は、こうである。「人間は『誰も強制にしたがう必要があるわけではない』と言うかもしれないが、状况によってはこれこれの行動をするだろう」。
「そうする必要はない。もうひとつ(別の)道を教えてあげよう。でも君は、その道を選ばないだろうけど」。
MS 173 17r: 30.3.1949
シェイクスピアをほかの詩人と並べることはできないのではないか。
 もしかすると彼は、詩人というよりは、むしろ言語創造者だったのかもしれない?

シェイクスビアを驚嘆することしか、私にはできない。ほかには扱いようがないのだ。

シェイクスピアを称讃する大部分の人にたいして、私は深い不信感をいだいている。不幸なことにシェイクスピアは、すくなくとも西洋文化においては孤独な存在であるので、彼の位置づけをしようとすると、かならずまちがった場所に置かれてしまうのではないか。

Sは人間のタイプをうまく描き、その意味では真実を書いているかのようだが、それはちがう。彼は自然に忠実ではない。しかし、じつにしなやかな手と、じつに独特な筆づかいのおかげで、彼の描く人物はすべて、重要で、一見に値するように思えるのだ。

「ベートーヴェンの偉大な心」──だが「シェイクスピアの偉大な心」とは言えないだろう。「言語の新しい自然な形をつくりだした、しなやかな手」と言うほうが、当たっているように思える。

詩人というものは自分について、「私は鳥が歌うように歌う」とは言えないものである。──だがSなら、そう言ったかもしれない。
MS 173 35r: 12.4.1950 oder später
おなじ主題でも、短調と長調では性格がちがう。実際、短調一般の性格について語るなどというのは、まったく馬鹿けている。(シューベルトでは長調のほうが、しばしば短調より悲しげである。)
同様に、個々の色の性格を論じるのは、絵画の理解にとってむだで無益なことではないだろうか。色の性格を論じながら、じつは色の特定の使い方を考えているのである。緑はテーブルクロスの色としてはこの効果があり、赤はあの効果があると言っても、それは、絵における緑や赤の効果について語っていることにはならない。
MS 173 69r: 1950
シェイクスピアが「詩人の運」について考えたことがあるとは、私には思えない。

彼は自分でも、自分のことを予言者とか教師とみなすことはなかった。
 人びとは彼のことを、自然のスペクタルのようなものだと驚嘆する。驚嘆しながら人びとは、偉大な人間に触れているのだとは感じない。特異な現象に触れているのだと感じるのだ。

ある詩人を楽しむためには、その詩人が属している文化までを、好きになる必要があるのではないか。その文化に関心がなかったり、嫌悪感があったりすれば、称讃の念も冷めてしまう。
MS 173 75v: 1950
神を信じる者が、まわりを見まわして、「ここに見えるものは、どこから来たのだろう」とか「これらはみんな、どこから」とたずねても、(因果論的な)説明などいっさい聞きたくないのである。質問のポイントは、そう質問することによって自分の気持ちを表現することなのだ。つまり、すべての説明にたいして、ひとつの立場を表明しているのである。ではその立場は、彼の人生においてどんなふうに示されるのだろうか。
 それは、ある事柄を深刻に考えるのだが、ある一点を越えると深刻には考えなくなり、「ほかのことのほうが、もっと深刻だ」と断言する、という態度である。
 たとえば、ある人がこう言う。「誰それが、あの仕事をやりとげずに死んでしまったのは、とても深刻なことだ。けれども別の意味では、そんなこと、まったく問題ではない」。この場合、「もっと深い意味では」という言葉が使われる。
 じつは私には言いたいことがある。つまり、ここで問題なのは、ロにされた言葉とか、そのときに考えられた事柄ではなくて、その言葉がさまざまな生活の場で生み出す差異なのだ。ふたりの人がそれぞれ「私は神を信じる」と言うとき、どのようにして私は、それがおなじ意味だとわかるのだろうか。三位一体についても、まったく同様である。ある種の言葉やフレーズの使用を強要して、ほかの言葉やフレーズを追放するような神学では、なにも明らかにはならない。
(カール・バルト)
 そういう神学は、言いたいことはあるのだが、表現の仕方がわからないので、いわば言葉をふりまわしているのだ。言葉に意味をあたえるのは、実地の使用である。
MS 173 92r: 1950
神の存在の証明とは、もともと、神が存在することを納得させるようなものであるはずだろう。だがどうも、信者たち自身、証拠によって信仰に達したわけでもないのに、証拠を並べ、その「信仰」を知性によって分析し、基礎づけようとしているように思えるのだ。「神の存在」を納得させることができるのは、ある種の教育によってなのかもしれない。つまり、自分がどのように生きているか、を示すことによって。
 実際の生活によって、「神を信じること」へと導かれることがある。実際の経験による場合もある。だが、ヴィジョンとか、その他の感覚的経験によっては、「神の存在」は教えられない。だが、たとえば、さまざまな苦しみや悩みによってなら、教えられる。だが、感覚的印象がなんらかの対象を教えるようには、苦しみや悩みが神の存在を教えるわけではない。また、神の存在を推測させるわけでもない。いろんな経験、いろんな考え、──実際の生活によって、神の概念が押しつけられるのである。

そうすると神の概念は、「対象」という概念に似ているかもしれない。
MS 174 1v: 1950
私がシェイクスビアを理解できないのは、完全な非対称のなかに対称を見つけたいからだ。

彼の作品は、いわば巨大なスケッチであって、油絵ではないように思える。いわばすべてを許容してしまう者の手による、なぐり書きではないか。それが驚嘆され、最高の芸術だと呼ばれるのは理解できるが、私は好きではない。だから、シェイクスピアの作品のまえで言葉を失なう人のことは理解できるが、シェイクスピアを、たとえばべートーヴェンのように驚嘆する人は、シェイクスピアを誤解しているのではないか。
MS 174 5r: 24.4.1950 oder später
ある時代は他の時代を誤解する。ある小さな時代は、独特の醜いやり方で、他のすべての時代を誤解する。
MS 174 5v: 1950
神が人間をどのように裁くのか、われわれには想像できない。神がそのとき誘惑の強さと人間の弱さを実際に斟酌するなら、いったい誰が地獄に堕とされるのだろう。もしも神がそのふたつを斟酌しないなら、まさに、そのふたつの力のせめぎあいの結果が、人間に予定された目標となる。つまり人間という被造物は、ふたつの力のせめぎあいを通して、勝つか負けるか、どちらか一方に決められているのだ。これは宗教的な思想などではなく、むしろ科学的な仮説なのである。
 だから、宗教の領域にとどまりたいのなら、戦うしかない。
MS 174 7v: 1950
人間たちをよく観察するのだ。ある人間は他の人間にとって毒である。母は息子にとって毒であり、息子は母にとって毒であり、などなど。だが母は盲目であり、息子も盲目である。もしかしたら双方とも心にやましいところがあるのかもしれない。だが、それがなんの役に立つのか。子どもは邪悪だが、誰も子どもに邪悪であるなとは教えない。両親の愚かな猫かわいがりによって、子どもはダメになるだけである。どうやって両親にそれをわからせたものか。どうやって子どもにそれをわからせたものか。双方ともにいわば邪悪であり、双方ともに責任がないのだ。
MS 174 8r: 1950
哲学は進歩しなかったのか。 ──誰かが、かゆいところを掻いたら、きっとそれは進歩であると考えられるのではないか。それとも、ちゃんと掻いたわけではないのか。あるいは、本物のかゆみではないのか。刺激にたいするこの反応は、かゆみ止めの薬が発見されるまで、ずっとは続かないのたろうか。
MS 174 10r: 1950
私は神に言われるかもしれない。「私は、おまえ自身の申告により、おまえを裁く。おまえは、自分自身のふりを他人に見て、それにたいする吐き気で身震いしたではないか」。
MS 175 56r: 15.3.1951
われわれが受ける霊感の、かならずしもすべてが善ではない。これが、悪魔を信じるということの意味だろうか。
MS 175 63v: 17.3.1951
カテゴリーに不案内なら、自分を判断することができない。(フレーゲの書き方は、ときどき偉大である。フロイトはすばらしい書き手だ。フロイトを読むのは楽しい。だが書き手としてフロイトは、けっして偉大ではない。)

訳者あとがき

 シュリックやカルナップたちウィーン学団の研究会に招かれたとき、ヴィトゲンシュタインは哲学の話をせず、ときおりタゴールの詩を朗読したという。カルナップによれば、「彼は、科学者というよりは、芸術家みたいだった」。
 ヴィトゲンシュタインは哲学においては革命児だったが、文化や価値にかんしては保守的な伝統主義者だった。この対照がなかなかおもしろい。二十世紀人らしく、独創性コンプレックスももっていた。『反哲学的断章』は、そういう彼の生理をよく伝えている。
 ユーモアや音楽や文学などを理解するとき、文化的背景がアスペクト認知に大きな役割をはたしている。とすると『反哲学的断章』は、「直接には哲学に関係しない文章を並べる」という編集方針にもかかわらず、じつは「詩のように作られる哲学」と深く関係していることになる。
 ヴィトゲンシュタインを理解するためには、ドイツ・オーストリア文化の伝統を忘れるわけにはいかない。彼はイギリス文化が肌にあわず、おまけに単純な道徳家だったので、最後までシェイクスピアとは波長が合わなかったようだ。
 というわけで『反哲学的断章』は、ヴィトゲンシュタイン自身により、格好のヴィトゲンシュタイン案内である。と同時に、哲学畑のヴィトゲンシュタインしか見ない人を挑発しつづける本でもある。ここには、ヴィトゲンシュタイン通も飽きることのない、数々の原石が展示されているのだ。

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