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見えないものが奪った見えていたもの



行き場のない感情を昇華するには、時間が経過するのを待つしかないと思う。

といっても、時間がいくらか経つまでこのまま自分の中で好き勝手に走り回られても困る。

だからというわけでもないが、しっかりここに記録することで整理して今の気持ちを残しておきたいと思ったので、書いてみようと思う。

この世界情勢(このご時世、という言い回しがもうテンプレートのように感じてあまり使いたくない)で、各々失ったものは多々あると思う。ほんとはこんな一言で片付けてはいけないほど。

僕でいえば、ずっと思い描いていて、やっと形になり始めた大事なものたちが一旦全て奪われたりした。


たくさんの人が悔しい思い、やりきれない思いをしたんだと思う。

ずっと前から予定を立てていた家族との旅行。
高校生なんかは、3年間の部活の集大成である最後の大会や、文化祭なんかも無くなってしまった人が多いだろう。
3日会えないだけですら恋しくなる恋人とも、いつまた手を繋げるのかわからない状況になった。

日本は、なぜだかかなりいろいろと諦めムードになってきてしまっている気がしてしまう(無知な男子高校生のひとりごとくらいに受け止めてほしい)



でも、みんな少なからず希望を持っていると思う。

落ち着いたら、どこに行こう、何をしよう、やっとあれができるな、、、

それは僕もそうだ。

やりたいことはたくさんある。

新型ウィルスが流行してしまったことで、今までといろいろなことが大きく変わってしまった。
けれど、別に全てがマイナスなわけじゃないとも思う。

僕の恩師が最近常々言っている。
「世界が変わったのだから、新しい世界の過ごし方、付き合い方をすれば良い」
と。

たしかにそうだ。

これができない、あれがやりたい、とぼやき続けても、何も始まらないし、何も生まれない。
だったら、新しい世界でできること、新しい世界だから輝くことをすればいい。

そんなふうに、付き合っていくしかないんだ。今は。


さて、ここからが本題。


この期間で奪われたもので、どうにも取り返しのつかない、代わりのきかないものがある。


祖母が先日亡くなった。

ずっと入院していたが、別にすぐに命の危険があるとかいう話ではなかった。そんなに長くないとはわかっていたが。

ところが、急に、ほんとに急に、亡くなってしまった。


突然の知らせをLINEの通知で見た僕の率直な思いは、「人ってほんとに死んじゃうんだな」というものだった。

近しい親族の死は、小学校2年生以来。
その時は初めてのそういう経験で、パニックになっていたら、葬式から何まで終わっていた感じだった。

10年近くたった今回は、死というものを、少しだけ直視できた気がする。




生粋のおばあちゃん子だった僕。
最後にあったのは年始。

コロナで10ヶ月会えないまま、もう会えなくなってしまった。

人との別れはくるものだと知っている。
でも、
なんというんだろう。
フェアじゃない。

おばあちゃんありがとう。の言葉を、生きてるうちに届けたかった。

なんだろう。どうしようもないし、誰も悪くないし、仕方ない。
わかってる。わかってるけど、

最後を迎える前に、もう少し、会いたかったな、お話をしたかったな。

字が書けなくなってきても、手書きの応援のお手紙をくれた。
3兄弟のうち、真ん中の僕にだけ。

『私は◯◯(僕)がひいきだから。』

そう口に出してしまうくらい、気にしてくれていた。


なぜ、ありがとうを伝えられなかったんだろう。時間が経ったら本当にこの後悔は消えてくれるのだろうか、そんな気はしなくなってきた。

今、強く思うこと。


僕らは生きてる。

まだ生きてるから、大切な人とまだ一緒にいれるから、

その大切な、貴重な時間をこれからも送るために、

自分が今何をできるのか、何をしないほうがいいのか、ちっちゃくていいから、頭の隅に常に置いておこう。

本当に無くなってしまわなければ、いつかまた言葉を交わせる。

だから、無くなってしまう前に、ね。