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短編 『トムジの木』 【後編】

2005年7月。
フジちゃんと離別して10年が経過していたが、孝志は東京で梨子と居を構えていた。

就職で上京して暫くは全く連絡を取っていなかったが、3年目に入り仕事も落ち着いてきたタイミングで、ふと貰った連絡先を引っ張り出し、梨子のポケベルに連絡を入れてみた。
梨子は大学を休んでいた。
昔からの中学教師という夢を叶える為教育学部に進学していたが、3年次に教育実習で参じた学校が”良くない”学校だった。
壮絶ないじめとセクハラが罷り通り、そして大人が誰も守ってくれない学校だった。
肉体的な事では飽き足りず徐々にエスカレートしていき、車に落書きや体液をかけられたこともあった。それでも校長や担当主任は「大ごとにしないでくれ」の一点張りで守ってくれなかった。警察への連絡は舐めた金額で口封じされた。
2週間の実習期間を終えて梨子は鬱とPTSDを発症し、休学していたのだった。
同じ中学に実習に来ていた同期の中には、2週間を待たず逃げ出し、大学を辞めて地元に帰った子もいたという。

そうして人間不信になり部屋から一歩も出られなかった時期に丁度、孝志から連絡が来たのだった。
乗り換え一本、30分程の距離にたまたま住んでいた事もあり、孝志は梨子の家に食べ物を届けたり料理を作りに行くようになった。昼夜逆転していた梨子に合わせて、お互い好きだったミスチルや安室奈美恵のVHSを夜な夜な見たりもした。
梨子には当時同期の彼氏がいたが、病気になってからも全くサポートせず仲間と飲み歩いてばかりいたその男とは、この時期に別れていた。

就職先は決まらずとも、7年という時間をかけてしっかり卒業した梨子と孝志は結婚した。
病気も完全では無いが殆ど治っていた。
そして2005年現在に至る。

孝志は例年に珍しく夏休みに大型連休が取れた。普段の勤務態度と貢献が認められ、梨子もパート先から一週間の長期休暇の許可が降りた。二人は地元盤上町に帰省旅行することにした。
就職した年以外、3月になると毎年フジちゃんと母久美子の墓に手を合わせるだけの帰省はしていた孝志だったが、休暇を取って二人で長期帰省するのは結婚の挨拶以降初めてだった。

「でも盤上帰って何する?私達の地元何も無いよね」
梨子が質問する。

「うーん」

「まぁでもダラダラするだけでも全然いいけど」
決め倦ねる孝志に梨子が助け舟を出した。いつも忙しく働き詰めだし、たまにはそれも良いかもなと孝志は思った。義両親の顔を見に行って、お墓参りして、あとはゆっくりしようかと孝志は梨子の案に賛成した。


3年振りの帰省は最悪の出だしだった。
前日にお酒を飲み過ぎ、二人共二日酔いを食らっていた。
飛行機の機内ですぐ眠りについた為、あっという間に空港に到着した。
東京の夏より2度程高く、到着ロビーに着いた時点で少し汗ばむ程だった。
空港から盤上町迄はレンタカーを走らせた。
今はもう大型モールに引導を渡され寂れ切った、実家より二駅先の百貨店でいつも祖父の仏壇に供えてあった地酒を買い、まずフジちゃんと母のお墓へ向う。

遠くに海が見える高台に建つ、町一番の大きな共同葬祭に隣接した墓地の端に、二人のお墓はある。
手を合わせに来るのは孝志しか居ないので、毎回枯葉と埃で塗れてしまっているお墓を、今年も心の中で謝りながら隅々まで掃除をした。
今年は二人で訪れたので、その掃除が例年の半分の時間で済んだ。
柄杓で水をかけ、花を手向けて線香を上げる。そして先程購入したお酒を、フジちゃん、祖父、母、そして孝志、梨子の分と5つ並べた猪口に順番に並々注いでいった。
突き刺す8月の日差しと、四方を囲む墓石からの照り返し。
何処からとも無く鼻腔を弄ぶ灰と線香の焼けた香り。
遊びに来た気でいる小学生兄弟の追い駆けっこする笑い声。
風に攫われる麦わら帽子。
滴る汗。
汗ばむ頬に反射する日差し。
遠く望める隣県の港。
雲一つ無い真夏の群青に切り取られた空。

母やフジちゃんが居なくなっても、この世界は回っている。
自然の摂理は当たり前の様に経験を反芻する。
その中に僕らは立っている。
膨大な数の人間の愛と死の上に、僕らは立っている。
そして僕らは未来の為に、愛となり死となって、繋がっていくのだ。
そんな事を思いながら、孝志は手を合わせていた。

「この後どうする?」
梨子の声に瞼を開け頭を上げる。

孝志の心にはあの場所が浮かんでいた。
あの日以来行ってなかった場所。
余りに美しい日であった為、その日のまま閉じて封印してしまっていた思い出。
もう開かない様に心の奥底で固く結んでしまっていたが、もうそろそろ解いてみても良い頃かなとふと思った。

「自然公園、行ってみよっか」

孝志は言った。何の気ないありふれた言葉であるはずが、孝志には意を決さなければいけなかった。
断られたら行かなくても構わないと思った。
梨子が存在を知らなければ行かなくても構わないと思った。
しかし、梨子の口から出たのは余りに快い二つ返事だった。
孝志は安堵と不安の両方入り混じる気持ちで車に乗り込んだ。

「孝志行った事あるの?」

自然公園に向かう車内で梨子に聞かれた。

「上京前に一回だけね」

寄付の事、植樹のこと、写真の事、全部梨子に話そうと思ったが止めておいた。
フジちゃんの名前の入った木が今どうなっているか、確認するだけで良かった。
草に埋もれてようが、伐採されてようが、枯れてようが構わない。
とりあえずその目で確認だけしたかった。それだけだった。

カーナビの通り県道から市街地に折れた道を抜けると、『盤上自然公園 西門』の大きな看板が目に入った。10年前孝志が通う農業高校がボランティアで植樹をした側だ。
昔はこんな大きな看板は無かった。
門を潜ると、当時は無かったが全ての駐車スペースがコインパーキングになっていた。
仕方なく適当な所に停め、遊歩道沿いに歩いて行く。

一面の木は当時よりも多くの葉を付け、太く、大きく成長していた。
雑草は綺麗に整備され、ゴミも一つとして落ちてない。まさに自然公園の名に相応しい景色だった。

「わぁ〜!綺麗!!」
梨子が突然感動の声を上げた。孝志が視線の先に目をやると、元々運動場だった場所にあった池は、所々に噴水の機械を蓄え、コンピューター制御された水が次々噴き上がっていた。
あっちが噴き上がったと思ったら次はこっちが噴き上がり、霧状の水が出たかと思えばボールの様な塊が空高く舞う。斜めに噴射され、水のアーチがたくさん出来た次の瞬間には花火の様に細かな水が扇状に舞い上がった。そしてそれらが池の表面に、波紋の幾何学模様を所狭しと描いていた。
池に向かって等間隔で配置されたベンチは、その殆どが小さな子供がいる家族連れか若いカップルで埋まっている。
綺麗な噴水のアートが空中に描かれる度、周りからどよめきが巻き起こっていた。

「10年前はこんなの無かったよ。凄いね!」
「凄い、ほんと綺麗!せっかくだったらお弁当作って来たらよかったね」

孝志は頷いた。この噴水アートを見ながら、愛する人とお弁当を食べられたらどれだけ幸せだろうか。噴水が上がる度、なるべく近くで見ようと柵ギリギリまで近寄った小さい子がキャッキャとはしゃいでいる。それを見守る両親の温かい目。孝志はこれが幸せだ、と思った。
遊歩道脇に、ネームプレートが足元に植えられた木が現れ出した。
孝志らが植樹した木だ。あの頃より立派に、逞しく成長していた。

「この辺の名入りプレートが付いてる木は、俺達の高校が全部植樹したんだよ」
孝志は自慢げに胸を張って行った。梨子の良好なリアクションは更に孝志を誇らしくさせた。

「植えた時より成長してる?」
「ビックリする位成長してる。昔はもっと細くて、背も低かった」
「そうなんだ。孝志みたいじゃない」
「太ったって事か、それ?」

お互い笑い合いながら散歩コースを行く。
気付けば公園中央の、市長のありがたいお言葉が彫られた石碑の所まで来ていた。
フジちゃんと同級生と言った当時の奥村という市長は、常態化した執事へのセクハラと、懇意企業からの度重なる政治献金が明るみになり、孝志が上京してすぐ辞任していた。
よく見ると、石碑に彫られた「◯◯市長 奥村日出男」という言葉の前に、”元”という落書きがされてあった。
贔屓されて目立つ所に植樹されていた仲良しゼネコン企業の木は、根こそぎ枯れて腐っていた。
石碑周辺に優遇した親族の木は生き残ってはいたが、名前のプレートに鳥のフンが大量に垂れて名前が殆ど見えなくなっている。
こんな気持ちになってはいけないとわかっていながらも、それを見て孝志は惨めでそして痛快に感じた。

二人で暫く坂を登ると、見覚えのある場所に出た。
フジちゃんと写真を撮った”何も無い小道”だった。
相変わらず綺麗な花がある訳でも、綺麗な池がある訳でも無く、ただただ地味で何も無い道だった事に孝志は心の底から安心した。
おそらく孝志とフジちゃん以外の人間にとってはただの名も無き小道だ。
しかし二人にとってはどんな絶景よりも意味のある道なのだ。
孝志が立ち止まると、
「どうしたの?」
と梨子が尋ねた。

「この道で写真撮ろう」

と孝志が言ったが、梨子は余りの脈略の無さに吹き出した。
「なんで?!」
「いや、何も無いから」
「な、何も無いから撮るの?何かあった方が良いんじゃ無いの?さっきの石碑とか時計台とか池とか」
「逆に、この自然公園でこんなに何も特徴無い所無いでしょ」
「まぁ、確かにそうだけど・・・」
「いいから、ほら並んで」

孝志は強引に梨子の肩を引き寄せ、ケータイを持っている手を思い切り前に伸ばしシャッターを切る。
ケータイで写真の出来を確認すると、梨子が少し見切れていたので、インカメラに切り替えて再度撮り直した。
孝志の満面の笑みと、梨子の戸惑い切った顔のコントラストが印象的で面白い一枚が取れた。
「これ写真立てに入れて玄関に飾ろうね」
「何で、何も無い風景の写真を?!あたしめっちゃ困り顔してるし!」
「いいのいいの」
「変な人!」
梨子は半ば呆れながらも幸せそうに笑っていた。
それを見て孝志も笑った。

「何か、子供達沢山いない?」
梨子に指摘され、孝志も気が付いた。プロ野球帽を被った子、虫かごをたくさん下げている子、夏休みの宿題を持っている子、携帯ゲーム機を持っている子。
沢山の子がこの辺りに集中していて、しかも全員同じ方向に向かって歩いている。

「皆向こうの方行くね。珍しい昆虫でもいるのかな」
「行ってみよっか」

子供達の流れに身を任せて歩みを進めると、その先には『虫のはらっぱ』があった。

背の高いススキが生い茂り、その先にフジちゃんの名前で植樹された木がある場所だった。
10年前は孝志の胸ほどだったススキが、今は孝志の身長程の高さに整えられている。
子供達は皆、このススキ畑に吸い込まれているようだった。よく見ると畑の一角に、沢山の子供達に踏み固められて一本の道が出来ていた。丁度人一人通れる位の幅の道が、ススキのトンネルとなり奥まで伸びている。
孝志は腰を屈めその道を入ってみた。梨子も遠慮がちに孝志に着いていく。

通り抜けた先には、10年前は無かった広場が広がっていた。
子供達は各々、捕まえたバッタやカマキリの大きさを競ったり、逆さにしたビールケースを机代わりにして宿題をしたりしていた。
大人の真似をして、水筒で乾杯してる子もいる。
ススキに隠れて周りからは殆ど見えない、子供だけの秘密の空間が出来上がっていた。 

そしてその秘密の空間の中央には──

この自然公園内のどの木よりも大きく逞しく成長した、フジちゃんの木があった。

周囲のどの木よりも多くの緑を蓄え、降り注ぐ日差しを一心に浴びては全身を煌々と輝かせている。
屋根付きの四阿が少なく日陰に乏しい園内で、一番大きい木陰を落とす子供達の憩いの場となっていた。


「こんにちはー!」
孝志らを見つけた子の内の一人が、大きな声で挨拶した。それに促された子供達が次々顔を二人の方に向け、挨拶をする。二人も挨拶を返した。

「お兄さんたちはだーれ?」「先生?」
赤いワンピースを着た女の子や麦藁帽の男の子が矢継ぎ早に質問した。

「いや、先生じゃないよ。僕は、そこの一番大きな木を植えた人の孫だよ」

孝志のその一言を聞いた子供達が一斉に沸きたった。

「すごい!有名人の孫じゃん」
「”トムジ”の孫だ!」
「まごってなーに?」
「お前そんなのも知らねーのかよ。子供の子供って意味」
「孫がこんなにお兄さんって事は”トムジ”何歳?」
「”トムジ”本人がよかったなー」
「お前そんなこと言うなよ!」
「ねぇ”トムジ”って男?女?」

子供達はまるで授業が自習になった時の様な興奮を見せていたが、半歩後ろの梨子も幾許か驚いた表情を見せていた。
孝志は困惑した。予想を超える盛り上がりぶりもそうだが、何より全く知らない共通言語が子供達の間で確かに存在している事だった。

「君たち、”トムジ”って?」
孝志が不思議がって聞いたその言葉に、子供達は一変してお互い顔を見合わせた。
その内一人が、ネームプレートを指差して
「ほら、ここに書いてるじゃん。”オオムラ トムジ”」
と自慢気に言う。
どうやら子供達は、『富二』を”フジ”ではなく”トムジ”と間違って読んでしまっているらしかった。
それに気付いた孝志は吹き出す様に笑った。
子供とは偶に、大人では思い付かない様な難しい間違い方をするものだ。
孝志は正しい読み方を教えようとも思ったが、わざわざ訂正するのも野暮だと思い、

「そっかそっか、おばあちゃんの名前”トムジ”だったな。いつもおばあちゃんて呼んでたから忘れてたよ」
と適当に流しておいた。

「おばあちゃんの名前忘れるとかお前大人のくせにダメなやつだなー」
「だせー!」
「実はおれおばあちゃんの名前しらねーや」
「おれもしらねー」
「そういえば私も知らないかも」
「ってか”トムジ”っておばあちゃんかよ!おじいちゃんの名前みてーだな」

夏休みという少しばかり学校から解放された一時を堪能する様に、溌溂と瑞々しい生を発散させている子供達を見て、孝志は心から微笑ましく思った。

「お兄さん今度トムジ連れて来てよ!」

子供の一人が孝志に言った。

「そうだね。今度は一緒に連れてくるね」

孝志はそう言うと梨子に退散を促し、ススキのトンネルから『虫のはらっぱ』の外へ出た。
振り返ると、もう子供達の姿はススキに隠れて見えなくなっている。

ふと、ススキが踏み固められた一本道が、車椅子の轍によく似ていると孝志は思った。
あぁ、フジちゃんが通ったんだなぁ、そして自分の目で、自分の名前が入った木をちゃんと見られたんだなぁ、と思った。そう思うと心からほっとして、涙が流れた。

「知らなかったよ」
梨子は言った。

「うん」
孝志は言葉にならない声で返事をした。

「よかったね」

「うん」

梨子は孝志の背中を摩りながら、はらっぱの中央に気高く聳える一本の大樹を見上げていた。

孝志は、『虫のはらっぱ』の外から、”トムジの木”に向かって手を合わせ、目を瞑った。

──あなたが最後に残した『生きた証』は今、この町の子供達の笑顔を守っています。──


その時、急に南から吹き抜けた突風が、孝志の頬を伝う涙を浚っていった。

突風に煽られ、公園中のどの木よりも大きな声で、トムジの木が笑っていた。




『トムジの木』 終




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