見出し画像

SS1 『プロペラの轟音に消えて』

背伸びをすれば手が届きそうな程低空を、
ヘリは東西を分断する高圧線伝いにこちらへ向かって来た。

巨人が打った杭の様に街に等間隔に刺さる鉄塔のすぐ真横を、
本来そこを通るはずの無い飛翔体が通過するという突然訪れた非日常に、
私は名も無いであろう適当な小道から打ちのめされて唯見上げていた。

精々2〜30mしか無い鉄塔を嘗めたそのヘリは、いつものそれより余りに巨大に映った。
それが見慣れた高度では無かったからなのか、元々普通より大きいヘリだったからなのかはわからない。
その旋風の為高圧線が弛んではしなり引き千切れそうに脈打っては、一刻を争う荒れた心電図の如く暴れている。
小高い山の木々が一斉に同じ方向にのけ反り、山全体が皿に落としたゼリーの様に柔らかさを伴って揺れて見えた。
恐怖からか得も知れぬ期待からか、心音が急速に早まりその強さを増しているような気がしたが、
それすら上書きする喧しいプロペラの旋回する爆音に、自らその確認も出来ない程だった。

───墜落するかもしれない。──
ふと頭を過った。それを皮切りに、様々な心配が瞬時に頭を掠めていく。

──どこに逃げる?前か、後方か──
──走るか、歩いても平気か──
──いや、ヘリの様子を熟視して行動するべきだ。今はまだ動くな──
──そもそも墜落しないんじゃないか?ちゃんとプロペラは回っているし──
──もし墜落するなら、緊急用サイレンの一つでも鳴るはずだ──
──でももし、操縦士が中で死んでいたら?──
──いやきっと大丈夫だろう──
──こんな辺鄙な場所に落ちる筈はない──
──大丈夫だろう──
頭の中でそんな問答が駆け巡ったのも束の間、

ヘリが真上を通過した。

鼓動まで掻き消した爆音が、この瞬間だけは一切止まって感じた。
木々の絶叫が、錆びた鉄塔の軋む嫌な音が、ぴたと止まった気がした。
無声映画の様に静かで、だけれども何処までも鮮明で流麗な景色だった。
美しかった。
この一瞬、この非日常が、この小さな世界を完全に支配していた。
最接近したその距離では、まさに手の届く程に感じた。
ヘリの腹に刻まれた、おそらく機体番号であろうアルファベットと数字の羅列まではっきりと見て取れた。
風圧で飛ばされない様に掴んだガードレールが、鈍い音を立てて地面にしがみ付いている。

ヘリはとうとう墜落しなかった。
ヘリはその大きな影で私を悠々と飲み込んだ後、何事も無かったかの様にまた高圧線伝いに南へと飛び去ってしまった。
一瞬だった様な永遠だった様な、そんな不思議な感覚に陥った。
私は何も動けなかった。
ただ立ち尽くしている事しか出来なかった。

雲一つ無い青空だったという事に、たった今気が付いた。

『東海電力の調査ヘリだな。』

背後から不意に、嗄れた声が呟いた。
現実に引き戻された様で少し鬱陶しく感じながら振り向くと、
何十年着ているか分からない程ボロボロに煤けた作務衣をはだけさせ、
使い古したモップの様な手入れの行き届いていない絡まった頭髪を掻き上げながら、
そのお爺さんは自慢げに笑った。
そこに歯は殆どなく、数少ない残っている歯もその辺の小石を取ってつけた様に不潔だった。
手にはワンカップの小瓶を持っていたが、見たことない様な薄黄ばんだ液体が入っている。

『年に一回、電力会社がヘリで鉄塔とそれを繋ぐ高圧線を点検して回ってるんだな。
下からじゃわからんし、一本一本人間が登って確認すると時間がかかり過ぎるから、
ああやってヘリで一気に確認してしまうんだ。ちゃんと点検できてんのかは知らんが』
そうお爺さんが、この辺の土地のとは違う訛りで早口で捲し立てた。

私は途端に白けた。
勿論その理由のつまらなさもあったし、非日常に浸る余韻もなく現実に引き戻された腹立たしさもあったが、
何よりこんな"お手本"の様な人間に、私の感動を邪魔された事への無様さだった。
日曜日の午前11時20分。散歩の途中だった私は遠回りで家に帰ることにした。

帰路に着くと、妻が昼食を作って待っていた。
毎週同様、袋麺に申し訳程度の葉野菜を添えたものだったが、私はこの料理を手抜きだとは思わなかった。
私はこの見栄えや味のチープさに親近感を抱いていたし、妻もそれをわかっていた。
私は4人がけのテーブルの、妻と対角線上に当たる掛け慣れた椅子に座って箸を動かし始めた。

──大丈夫だろう──

さっき自分の脳裏に浮かんだ言葉が、さっき以上に頭を反芻した。
私はあの時、自問自答に精を出すばかりで、結局一歩たりとも行動を起こさなかったのだ。
過ぎてみれば何事も無かったが、あれが本当に墜落するヘリだったらどうだったのだろう。
本当に“逃げなきゃいけない危機”だったらどうなっていたのだろう。
必死になって辛々逃げるのは億劫だ。恥ずかしさも何処かあるのかもしれない。
私はあの時、逃げなくて良い理由を必死で探していたのだ。
逃げなくて良い理由を必死に探して、自分を安心させていたのだ。
もしあの時ヘリが、濛々と黒煙を上げ、さながら力尽きた魚の様に錐揉みで此方に一直線目掛けて堕ちて来てたとしても、
私は逃げなくて良い理由を探してその場を離れなかったかもしれない。
前でも後ろでも、左でも右でも、歩いてでも走ってでも、
何処かしらに逃げていれば助かるかもしれないそんな状況においても、
私は逃げなかったかもしれないのだ。いや、間違いなくそうだろうと思った。
私は急に自分の不甲斐なさに呆れると同時に、生への頓着の無さに恐怖さえ覚えた。

『ちょっと。』

妻の訝しげな声で我に帰った。

「大丈夫。ちょっとボーッとしてた」
私はそう言ってまた箸を動かし始めた。
麺は伸び切っていた。



その夜、夢を見た。

私は長い坂のある市街地の中腹にいた。
目の前に建つ打ちっ放しの質素な一軒家に時代遅れの木の表札が掛かっていて、そこには見慣れた苗字が彫られていた。
見覚えは無いが、どうやら私の家らしい。
辺りを見回すと、昨日まで雪が降っていたのだろう、通り沿いの家の住人が寒さに肩を窄めながら各々家の前を雪かきしている。
たまに通る車に踏み固められ、道の中央は幾らか元の地面の黒が透けて見えている。
足元を見ると、私の家の前だけ全く雪かきがされていなかったので、じゃあ私もと思いスコップを取りに行こうとした瞬間だった。

ドォン!

まるで大きなコンビナートが爆発した様な、将又高層ビルが根っこから崩壊した様な、
鼓膜を劈いて尚反対側の頭蓋まで貫通するかと感じる程の爆音が轟いた。
その音から暫くして、坂の下の方で土砂を大量に含んだ津波の濁流が街を襲っているのが見えた。
さっきまで雪かきをしていた人々が、スコップを放り投げて一目散に坂を駆け上がって来る。
子供の悲鳴。大人の女性の絶叫。男達の怒号。
全てがない混ぜになって、雪が止み澄み切った青空を先刻の爆発音の残響の様に揺らしている。

私は動けなかった。
いや、動かなかったのか。
家が飲み込まれ、バスが流され、逃げ遅れた老夫婦が吸い込まれる。
濁流が勢いと水嵩を増し、次々と眼下の市街地を蝕んでいく。
電柱が根こそぎへし折られ、電線からけたたましい音と共に火花が散った。

私はそれでも動かなかった。
津波が目の前に来ているのにも関わらず、一歩たりともその場を離れなかった。

──大丈夫だろう──

頭の中でまた、その都合の良い言葉が坊主のお経の様に繰り返した。

──これは本当に”逃げなきゃいけない危機”じゃないのか?──
──人が飲み込まれているんだぞ──
──いや、でも──
──ここは海抜15mもある。そう書いてあった。──
──ここまで来る筈がない──
──きっと大丈夫だろう──
──私の小さな世界で、ニュースになる様な事件が起こる筈が無い──
──大丈夫だろう──


またあの時の様に、頭の中にそんな問答が繰り広げられた。
またあの時の様に、逃げなくても良い理由を必死で探していた。

必死に生にしがみつく他人を他所目に、斜に構えた自分が非常に滑稽で、しかしそんな態度に酔っている所も多分にある様に思った。
濁流の勢いは収まるどころか、さらに倍増していく。
ついに自分の足元まで泥水が到達するのがわかったが、その頃にはもう遅かった。
自分の何倍も体躯の大きな力士にけたぐりを食らった様に、瞬時に足を持っていかれ尻餅をついた。
立ち上がれない。
押しては引く海の波とは違い一方向に向かって巨大な壁に押し込まれ続ける、そんな感覚がした。
気付けばもう体は地面から離れていた。
濁流に飲まれ、家の塀だろうか、何か硬い物に全身を打ちつけ、意識は朦朧とした。

遠くで避難を叫ぶ非常サイレンが鳴り響いている。
薄れていく視界にしがみつく様に鳴り響いている。

聞き覚えのある、でも物凄く嫌な音色だった。


非常サイレン?


はっとした。


これは非常サイレンじゃない。


スマホのアラームだ。


目覚ましのアラームだ。


6時半。
今日は月曜日。
出勤だ。
何の代わり映えもしない、判で押したようなしがないサラリーマンの一週間が始まる日だ。
体が重い。でもこれは、津波に飲まれ家の塀に体を打ちつけた事によるものじゃ無いとわかり、心底安心した。
唯少し、疲れの取れにくくなった初老の自分を哀れに思った。
アラームを止め、体をベッドから起こし、全身に吹き出していた冷や汗をタオルで拭いながら少しばかりまた目を瞑って考える。

私は、本当に”逃げなきゃいけない危機”に直面した時に、全て投げ出してでも死に物狂いで逃げられるだろうか。
そこまでしっかり、生と向き合っているだろうか。
今まで見てた筈の夢は最早ぼんやりと溶けて朝の陽気に流れ出し始めていたが、
そんな自分への絶望や諦めの感情だけはしっかり堆積していた。

ふと我に帰ると、キッチンの方で妻が朝食支度する音が聞こえてる事に気付いた。
妻の職場は自宅から1時間半程かかるため、6時過ぎには家を出ないと間に合わない。
6時半を回ったこの時間にまだ家に居るという事はおそらく今日はテレワークなのだろう。

『明日出勤?』
『いや、在宅よ』
この程度の会話でわかる筈の事なのだが、
いつからかそんなコミュニケーションも取らなくなった。
結婚から22年。一人娘は早々に嫁に出て行った。

キッチンスペースの出入りを狭める様に置かれた観音開きの冷蔵庫を開閉する音が聞こえる。
観音開きと言っても丁度5対5の均等な扉では無く、7対3位で右の扉が大きく、容量も多い。
繰り返しパタパタと高い音が聞こえているので左の小さい方の扉を開け閉めしているのだろう。
いつの日か寝室に居ながらにして、音で聞き分けられる様になっていた。
今日の朝はジャムトーストだ。
左の扉にはジャムやバター等の凡そ一般家庭で見る程度の調味料が並んでいる。
右の扉には卵が入っているので、バタバタと低い扉の音が聞こえると大概卵かけご飯だった。

いつも通り挨拶も無く無言で掛け慣れた席に座ると、食卓には離婚届が置いてあった。

薄々勘付いてはいたが、遂にこの時が来たかと思った。
子育てもとうに終わったし、それぞれの稼ぎに依存している訳でもない。
遠い昔に永遠の愛を契った気もするが、元々は生まれも育ちも違う赤の他人だ。
ただ、今更離れられる訳でも無い。今更一人で生きていこうと言ってもそう簡単に出来る筈もない。

4人がけのテーブルの、いつもは対角線に座る妻が、今日は正面に相対する形で座った。

目の前の危機から逃げるかどうか、私にかかっている。

“逃げなきゃいけない危機”もあれば、”逃げてはいけない危機”もある。

掃除の行き届いている筈の換気扇のプロペラが、まさに目の前で旋回するヘリの如く轟音で鳴り響いてる様に聞こえた。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?