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気にするのは「天気や季節そのもの」ではなく、「お互いの認識」にある

長かった梅雨が明けて、一気に夏が来た。「もう梅雨は明けたのか」「春一番は吹いたのか」と多くの人が気にする。気象情報に関する番組にもそのような問い合わせが季節のたびに来るらしい。そして「梅雨が明けました」「春一番が吹き、春が訪れました」のニュースを聞いて、「やれやれ、やっときたか」と安堵する。僕も例にもれず、何度も同じ季節を毎年経験しているはずなのに、飽きずに季節の変わり目を気にしてしまう。

一日の天気や気温だけを見てもこれが夏なのか、梅雨なのか、秋なのか、の判断は明確にはつかない。空を見上げても「これが夏です」と分かるわけでもない。それなのに、そんなぼんやりとした季節の境界を凝りもせず気にかけ、整理しようとする。

気にするのは「天気や季節そのもの」ではなく、「お互いの認識」である。自分1人が「夏だ」「秋だ」と思っていても仕方がない。それはぼんやりとしたものがぼんやりとしたまま残ってしまう。ただやはりそれだと不確かなままなので、「ニュースは夏と言っているのか」「ねえ、もうすっかり夏ではないですかね?」と色々な人の季節に対する認識を確かめる。そして認識は必ずしもそろっている必要はない。もちろん、場所によって少しずつ気象は変わってくるから大勢の認識がクリアにそろうものではない、という背景も少しはあるだろうけど、「ニュースでは梅雨って言ってますけど、もうすっかり夏本番って感じですよね」とお互いの認識の違いを確認することも、歩み寄りのひとつのゴールなのだ。

季節はお互いによってその都度作り出されているものでもある。そしてこうしてお互いの認識をある種ぼんやりとしたまますり合わせられながら、今は今としての季節の共通認識を持ち合わせられていることに、季節の変わり目のたびにうれしい気持ちになる。

(最後まで読んでいただけただけで十分です…!ありがとうございます!)