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「まちがい」がないと、どんどん希望は失われていく

どうして食べ物には味があるんだろう?」と中学生の頃、英語の授業の宿題で、英語日記に書いたことがある。

当時の僕は、“味”は「無駄なもの」かもしれない、とおもった。英語の先生とあーだこーだと話した結果(ここまで授業に関係ない話に付き合ってくれた先生には感謝が尽きない)、「どうやら無駄でも必要なものはあるのかもしれない」という結論に至った。

なぜなら「だって、『サプリで栄養をとるだけ生きていける。だからごはんはNG』なんて耐えられる?」と言われて「どうもそれは耐えられそうにもない」とおもってしまったからだ。

“無駄”のない自粛生活

無駄こそ幸せ」──今、ひたすら家にこもりながら、まったく無駄のない生活をずいぶん過ごしているからこそ、この言葉をおもいだす。

自粛生活がはじまった当初は「こんなにお金や時間を使わなくて済むのか」とうれしい気持ちになったのはたしかだ。しかし、すぐにそうはおもえなくなってしまった。

あらゆる無駄が省かれ、余裕が生まれた。だけれど「無駄がないなんて耐えられる?」みたいな状況を受けて、中学生のときと同じように「どうもそれは耐えられそうにもない」とおもった

このくいしんさんの記事↓のタイトルにもあるように「365日行く場所を奪われるなら、お金があっても意味がない」なと。

この記事では「スナックでしゃべっていると、聞いたこともない話が飛び込んでくる」といった居酒屋で生まれていた“無駄”だけれど価値のあった話について触れられている。居酒屋には、目的もなく色々な人が集まる。時間にも余裕がある。そんな状況が、おもいもよらない思いつきを生んでいるところに居酒屋としての“意味”があるんじゃないか、という話だ。

「ぼくたちは誤配のなかに生きていて、だからこそ豊かになれる」

そこでおもいだされるのが、東浩紀氏の哲学の中心概念である「誤配」だ。

「誤配」とは通常、「郵便物や宅配の品物を誤って違う所に配達すること」を意味するが、ポジティブに捉え直した彼の意味するところとしては「間違った宛先に届き、間違って理解されること」と定義される。

(「誤配」についてくわしくはこのnoteにまとまっていたのでぜひ読んでみてください ↓)

(「愛からカネが生まれ、カネから愛が生まれること」でもある、と東氏はいう ↓)

哲学者がやるべきことは、愛の世界をカネの世界と区別し、愛の世界のなかに閉じこもることではなく、カネの話から愛の話が生まれ、愛の話からカネの話が生まれる、その相互陥入について思考をめぐらせ、そしてできればその相互陥入を使って愛の世界を実践的に拡大することなのではないか。ぼくはそのように考えながら、デリダを強引に読み解いて「誤配」の概念を抽出しました。そして博士論文を提出してから11年後にゲンロンを創業し、愛の世界(アカデミズム)を離れました。つまりは誤配とは、愛からカネが生まれ、カネから愛が生まれることなのです。その「まちがい」の可能性をつねに信じ続けることにおいてのみ、ひとは希望をもって生きていけるのだと思います。

「まちがい」の可能性とは言い得て妙だ。「まちがい」とおもっていたことは多くあるにもかかわらず、どうやら自分は「まちがい」を求めているみたいだ。「まちがい」がないと、どんどん希望は失われていく。

ぼくたちは誤配のなかに生きていて、だからこそ豊かになれる」──と東氏は語る。居酒屋など人が集まるところに行くリスクが十分にある状況だからこそ、そうではない形で「まちがい」の豊かさに出会える手段はなんだろう。


(最後まで読んでいただけただけで十分です…!ありがとうございます!)