見出し画像

支えや助けがあったこと

双葉うた子。

過去の思い出日記みたいになってきているnoteなのだが、まあ好き勝手書くことに決めて書き始めたので良しとする。
とても読み手の方に配慮していない文字数と書き方だと我ながら思う。
でも、あくまで「気持ちの吐き出し場」としてnoteを選んだので、それで良いと思っている。
もちろんこれから先、短い文章を書く日もあるだろうと思う。
いきなり詩とかポエムとか書き出したら「コイツ、ネタ切れたんだな」と思っていいよ。

あと、クソ長い。コレ。

昨日まで書いてきたように、私は東日本大震災で原発事故が起こり、故郷を失った。
そして2012年はじめに妊娠がわかり、はじめにかかった産婦人科では診察もエコーもしてもらえず(保険証が双葉郡大熊町であった為、原発被災者だとわかった故であろう)堕胎する為の病院への紹介状を渡されると言う、とてもしんどい経験をした。
それでもなんとか受け入れてくれる産婦人科に巡り合うことが出来、無事に息子を出産することが出来た。
故郷を失ったことと、原発の近くに住んでいたことで差別や偏見にさらされ続けてきたことで、私は絶望しきっていた。
その全てをまるで塗りつぶしてくれたかのような、嬉しい出来事だった。
死にたいと毎日思っていた。そんな中での妊娠、出産。
「私はやっと生きられる」「この子の為に生きればいいんだ」そんな希望が芽生え、毎日がとても輝いて見えた。

幼い頃の私を虐待していた父も、泣いたりヒステリーを起こしてばかりいた母も、震災後すっかり変わって丸くなっていたし、初孫である息子のことをとても可愛がってくれていた。
なんんて幸せな日々なんだろう、と毎日寝不足な頭のまま(息子が全然寝ない赤子だった)テンション高く暮らしていた。
そんなある日だった。

一つ前のやたらと長いnoteの最後の方に書いたのだが、「福島県に住む母子の沖縄への保養」と言う感じの内容のチラシが郵便受けに入っていたのを見つける。
そこには「原発事故」「放射能」「甲状腺がん」など、はあ?と言うことも書いてはあった。
私は当時、はっきり言って、放射能にも甲状腺がんの検査にも興味がなかったからだ。
もう普通に正直に書く。それは違う!と言って怒る人普通にいると思う。
だが、私の中では考え方はたえず変化し続けている。
正解がないことだと思うので、私は「この過去の時点で考えていた」私の考えと思っていることを書いておく。
甲状腺がんは過剰な検査により「原発の近くである福島県内で過ごしている人たち」の多くに見つかったものだと思っていた。
ただ、原発事故直後にも、私の同級生なんかは原発に勤めていた方もいたので、「放射能は健康には全く関係がない」とも思ってはいなかった。
そのくらいの微妙な無知さでもって、「沖縄への保養」と言う、私にとっては魅力的な文章が並んでいるそのチラシをじっくりと読んでみた。
そして、いいとこどりをしようと思った。
私はその頃、まだ二歳になるかならないかの息子の「放射能による健康被害」など考えたことはなかった。

なんと言うか難しいのだが。
私は「原発含め、故郷を愛していた」と言うか。
産まれた時から「原発がある故郷」が当たり前で、しかも何度も幼い頃に原発のすぐ近くまで行ったことがあったので、「放射能を蒔き散らかしているひどく嫌われた建物」になってしまったことを、なんだか哀しいとすら思っていたふしがある。
避難中(と言うか息子が産まれて一瞬だけ東京の元夫と元義母と暮らしていた時期)のある時息子と電車に乗っていた際、「計画停電とかマジ迷惑」「東電って、東北の電気作ってんだよね?」(ちげーよ、東京の電気作ってんだよ)なんて言葉を聞いたことがある。
その言葉に形見が狭くなる想いだったし、心からガックリと来たのを覚えている。
その割には、息子が一歳半くらいだった頃だろうか。
母が息子に、と買ってきた柿を、県内産だったものだから、与えるのはちょっと嫌だな、と感じてしまったりしたこともあり、我ながら複雑な心境だった。
その辺りの気持ちの整理がちゃんとついていなかった時期、と言う感じだろうか。

とにかくそのチラシに書いてあった「沖縄へ行けるらしい」と言う言葉に私は心を鷲掴みにされた。
私は沖縄へ行ったことがない癖に、沖縄への強い憧れがずっと心の中にあったのだ。
これは本当にただCoccoと言う沖縄出身のアーティストのファンを長くやってきていたからかもしれないし、そのCoccoが「故郷である沖縄を強く愛している」と言うことに、なんだかシンパシーみたいなものを感じていたからかもしれない。
沖縄には普天間基地があり、福島の私の故郷には事故を起こした原発がある。
重ねて見てしまったのかもしれない。

とにかく私は「甲状腺検査が受けられる」と言うことや「子供たちが眠った後で、共に沖縄のその保養施設に来ている母親たちと放射能に関する悩みの相談会が出来る」なんて言うことには全く興味は持たず、ただ「息子と沖縄に行ける!」と言うただそれだけの理由から、そのチラシに書いてある住所へと、参加したいと言う内容の電話をかけたのだった。(手紙だったかもしれない。何度も行き過ぎて忘れた)
私と息子の戸籍と住所はまだ「福島県双葉郡大熊町」のままだったのだが、とりあえず当時郡山の住んでいた住所を告げたと記憶している。
そして、その辺りが何ミリシーベルトなのか、何マイクロシーベルトなのか、近所の公園にある測定器を確認しに行き、伝えたと思う。
息子の年齢や、生まれた年や月も伝えた。
私自身が大熊町出身であることは伝えなかった。
私はまだ、偏見や差別が怖かったのだ。できれば郡山にずっと住んでいたことにしようと思っていた。

そして、応募してしばらくの日数が経った頃に、「双葉さんたち親子の保養参加が決まりましたので、乗る飛行機や到着後、宿泊日数など詳細が書かれた用紙をそちらの住所にお送りさせて頂きますね」と言うような内容の電話がかかってきた。
私と幼い息子は二人で、知らない親子たちと共に沖縄へ行けることに決まったのだった。
(この頃はまだ元夫とは離婚していなかったが、別居中であり、ラインも滅多にしなくなっていた)
私はものすごく喜んだ。
「福島県に住まう母子を、放射能による健康被害から守る為の沖縄への保養」だと言うのに、「放射能を気にしていない」「健康被害も気にしていない」「原発のあった故郷ごと愛している」私は、「沖縄へ行ける」と言うただそこ一点だけの「いいとこどり」をしようと考えて、この「沖縄の久米島にある保養施設への母子保養の参加」を決めて、運よく応募した母子の中から選ばれて、沖縄に行けることになったのだった。

その保養に関する詳細が書かれている用紙が届くと、さっそく全ての文章に目を通し、必要なものリスト(10日間くらいの宿泊だったので結構たくさんあった)に書かれているものをウキウキと準備する日々。
とっても大きなキャリーケースを通販で購入し、冬でもわりと暖かいと言う沖縄に合う服装を考え、ハーフパンツや腕が七分丈のブラウス、パジャマとしてTシャツと、思っていたより寒かった時の為に毛糸でもこもこのカーディガンなんかも入れた。何より私の服よりも、バスタオルも海に入ると言うし、毎日のシャワーもあると書いてあったので、山ほど入れた。息子の服には気をつけて、寒くても暑くても大丈夫なように様々な季節に対応できるよう半袖から分厚い長袖から何からいっぱい詰め込んだ。哺乳瓶や、ミルクの缶も入れて、念のためオムツもたくさん用意した。未だに抱っこ紐でしか眠れない息子、きっと飛行機や知らない場所では驚いてたくさん泣くだろうと予想出来たので、抱っこ紐以外にもスリングを用意して、どちらも行きから背負って行くリュックに入れておいた。
出発日よりかなり前に、宿泊日を書き記したキャリーケースを、その沖縄にある保養施設へとヤマトさんからとっとと送った。

もう歩くことも出来ていたし、喋る言葉も少しずつ増えて来ていた息子に「お母さんと沖縄に行こうね!」と言っては、毎日ウキウキとリュックの中身を確認したり、準備を繰り返して鼻歌を歌い、くるくると踊っていた。
私は本当にただ「息子と共に沖縄に行きたいだけ」のお母さんだった。
そう、なんと言っても原発事故による被災で、産婦人科を断られ、堕胎する為の病院への紹介状を渡されたその記憶の残る「一月」にこの福島県を数日間離れることが出来るのだ。
その間私は落ち込まなくて済むじゃないか、と思っていた。

ちなみに息子が産まれて初めて発した言葉は「エアコン」だ。暑い日だった。
みんなが「エアコン」「エアコン」言っていたから覚えたのだろう。
ママでもなく、ばあば、でもじいじ、でもなく「エアコン」。
多分暑いからエアコンつけて欲しかったんだと思う。
まあこれはただの余談。
普通に言葉を話し出したのが遅いと言うわけでもなかったのだが、まあ自閉症スペクトラムだ。
それは、まだこの時点ではわかっていない。
ただ、いやに過敏な赤子だなとは思っていたが。
そう、つまり。沖縄での初めて訪れる見たこともない保養施設では眠ることなど出来るわけがなかった、と言うことだ。
そんなこと考えもせず、とにかく私は沖縄に息子と共に行けること、海に触れさせてあげられると言うこと、何もかもが嬉しくて、出発日が待ち遠しかった。

そして待ちに待った出発当日。
父と母は二人一緒に車に乗ると、私と息子を最寄り駅まで送ってくれた。
「行ってらっしゃい、気をつけてね」
と何度も言われ、「うん、ありがとう」と何度も答え、駅前で去って行く車に手を振り続けた。
ここからは全て初めてのことだ。まだ小さな赤ちゃんである息子を抱っこ紐で前に抱え、大きなリュックを背負い、とりあえず新幹線で東京駅まで出なければならない。そこからは乗り換えもある。もちろん駅内を結構歩く。
抱っこ紐で前抱っこさえしていれば滅多に泣き出すことはなくなっていた息子にちょっと安心し、救われながらも、なんとか指定されていた羽田空港までたどり着くことが出来た。
詳細の書かれている用紙を何度も確認し、スマホで事前にチェックしてあった、参加者の皆の待ち合わせ場所までなんとか迷うことなく着くことも出来た。
母子保養と言うだけあって、母親と子供たちだけがたくさん集まっていた。
子供は、0歳くらいの子もいれば、小学校6年生くらいの子もいた。
母子保養ではあるが、保護者が女性であれば問題ないのか、母親ではなくお祖母ちゃんが着いて来ているご家族がいて、5年生のお姉ちゃん、3年生のお姉ちゃん、2年生の男の子、を連れているおばあちゃんがいた(結構見た目イカツイ系だった)その三人の子供たちが、私の息子を可愛い可愛いととても可愛がってくれた。
この三人がいてくれたおかげで、保養先でもとても楽しい思い出がたくさん出来たのだ。
(5年生のお姉ちゃんとは、この保養が終わってからも二年間くらい文通をしていた。)

保養施設のある島までの付き添いであるボランティアさんが、「皆さん、時間なので集まって下さい」と言うと、皆で集まり、保護者達に自分の分と子供の分の飛行機のチケットを渡してくれる。
その後はボランティアさんに着いて行って、荷物検査を行い、飛行機乗り場のある方へと移動する。
飛行機が見える席に、出会ったばかりなのに仲良くしてくれた先ほどの三人の子供たちと一緒に座ると、息子にはミルクを作り飲ませ、私たち四人は飛行機を見ながらおしゃべりを楽しみつつお弁当を食べた。

そして、問題は飛行機だった。抱っこ紐で抱っこしているにも関わらず、私が席に座ると息子はものすごく泣いた。
なので、「着席してシートベルトをお締めください」のアナウンスが流れる時以外は、私はずっと息子を抱っこ紐で抱っこしながら、飛行機の一番後方のトイレがある場所の間にあるちょっとしたスペースで、人の邪魔にならないようにずっと揺れているしかなかった。
それでも、私の高揚感は消えず、楽しみな気持が萎えることはなかった。
息子が泣くのなんていつものことだし、眠るまで夜中3時まで抱っこ紐でゆらゆらしていることだってあった。
全然平気だった。ただ、周りの迷惑にだけはならないように気をつけようと思っていた。
まずは沖縄の那覇空港に到着する。今度はそこから、久米島と言う島までの小さな飛行機に乗り換えることになっていた。
母子保養の人数が結構いたので、二回に分けて出発するとのことで、私と息子は確か二回目の飛行機だった。
一回目の飛行機に乗っていった人たちを見送ると、私は那覇空港でアイスを買って食べた。ブルーシールアイスクリームってやつ。沖縄で食べられるって聞いていたから、食べてみたかった。しかも食べるなら沖縄で食べたかった。
息子にもちょっとあげた。息子を抱っこ紐から少し降ろすと、二回目の飛行機が来るまでに、空港内を一緒に散歩した。散歩と行っても、すぐにいなくなるので、ほぼ私が真横につき、手を絶対に離さないようにして、だが。

二回目の飛行機が来て、無事に二回目に久米島に向かう母子保養の人たちも久米島に着くことが出来た。
那覇から久米島はビックリするほど近かった。
息子も泣く暇などないくらいすぐに着いたのでありがたかった。
黒糖もくれたし、客室乗務員のお姉さんが絵本をたくさん貸してくれた。

久米島に着くと、今回の保養所へはボランティアで来ていると言う大学生の子やおじさん、おばさんなんかが(毎回ボランティアの方はかわったり、一緒だったり色々だと言っていた)垂れ幕みたいなものを用意してくれていて、「ようこそ~」と声をかけてくれた。
その垂れ幕を前にして、久米島の小さな空港の出口の横にある少しのスペースで集合写真を撮影した。
そこから、保養所の近所でシーサー作りや、シーサー作り体験、色塗り体験なんかをやっていると言うおじさんがバスを運転してくれて、そのバスで久米島の保養所に向かった。
とても小高い丘の上にあるその保養所へ向かう間、窓の外を見るとまるで島を見渡せそうだな、と思った。
けれどもう外は真っ暗で、綺麗な海を見ることは出来なかった。

保養所に着くと、すぐに夕食が準備されていた。
カレーだったと思う。息子の分には離乳食と言うことでお粥と薄いお味噌汁か何かが準備されていたような気がする。(行き過ぎて忘れた)
それらを掻っ込んで、息子にもちょっ速で食べさせると、今度はシャワーに入りたい人はドアにかかっている紙に名前を順番に書いて、その順番を守って入って、出たら次の人に声をかけるようにして下さい、と、このような感じになっていた。
私は疲れていたし、化粧さえ落とせればいいやと思い、その日はシャワーの予約はせず、決められた部屋(とても狭い部屋に二段ベッドが二つ、と言った感じで、その二段ベッドの隙間、と言っても大人一人がやっと通れるくらいの隙間がある)に行くと、届いていたキャリーケースを開け、中から息子のパジャマを取り出す。
二段ベッドの下に寝ることにして、キャリーケースはベッドの下にスライドさせてなんとか人が歩く為の隙間を守った。
他の母子との相部屋と言うことで、とても気のいいお母さんと、小学2年生だと言う男の子と同じ部屋だった。
「うちの息子、夜寝ないし本当に良く泣くので、夜は抱っこして夕食を摂った部屋でゆらゆら立って寝かせると思うので、あまり気にしないで下さい」と私が伝えると「全然気にしないで、赤ちゃんなんて泣くよ。慣れてるから平気だよ」と答えてくれた。
このお母さんとお子さんは中通りから参加していると言うので、私も中通りに住んでるんです、なんて言うお話をちょっとした。
避難先が中通りだと言う言葉は決して言わなかった。言うわけなかった。
こんな優しい人が、もし態度を変えてしまったら、私はすぐにここから帰りたくなってしまうだろう、と思った。

案の定息子は全く夜寝なかった。
なので私も全く寝なかった。
それでも、日々ボランティアさんや職員の方が用意してくれていたスケジュール通り、ハテノ浜へ行ったり、公園へ行ったり、バーデハウスと言う温水プールみたいなものがある施設へ行ったり、ウミガメ館にウミガメを見に行ったり、後は確かホタル館だったかな?ホタルの研究をしているんだったかなんだったか忘れたのだが、たくさんの水槽にはそれぞれ色々な水辺の生き物がおり、すぐ側の池、川では子供たちが昆虫や小魚なんかを取って遊んだ。
それから、海には「アーラ浜」や「イーフビーチ」、比屋定バンダと言うハテノ浜から遠く慶良間諸島までも見渡せる絶景スポットに行った。確か他にも畳石にも行ったし、どこの磯だったかは忘れてしまったのだが、磯に潜む生き物を探してみよう!と言う感じのイベントを、磯の生き物に詳しい先生をお呼びして、子供たちを喜ばせてくれたりした。
「シンリ浜」は行ったかどうかちょっと覚えてない。個人の息子との旅行では確か行ったのだが。
それから、滞在している間、三線を弾くことが出来るお子さんたちと他の楽器を担当するお父さんでやっているバンドの演奏を聴く時間なんかもあった。
毎日とても充実していると感じた。
睡眠時間はかなり少なく、疲れはたまっているはずなのに、ものすごいスピードでもって過ぎて行く沖縄の久米島での時間はどれも大切な思い出となった。


そして、保養施設自体にも、ピラミッド型の遊技場があって、中には様々なオモチャが置いてあり、電子ピアノがひとつ用意されていた。
仲の良くなった三人の子供たちのうち、一人がピアノを習っていると言って、よく弾いてくれた。
このピラミッドの中は安全だった。どこでも走り回る息子をすぐに見つけることが出来、ドアもしっかりしめることが出来るようになっていたからだ。
それから図書館もあった。結構広くて、様々なところから寄付された絵本や図鑑、漫画までなんでも置いてあった。
その本が並ぶ部屋から二段くらいの階段の下にはちょっとした休憩スペースのような部屋があって、ソファがいくつかと、テーブルが二つあり、ジュースやオヤツの時間にはここで食べると言う人がいた。

私はどれだけ寝不足でもスケジュールに書かれているイベントは全て参加した。
息子はあまり寝ていない(ように感じていたが、抱っこ紐での移動中などには寝てはいたかも)わりにものすごく元気だった。
ハテの浜でははじめて船に乗り、海を見て、脚だけ波に浸かった。
はしゃいで柔らかく寄せる波に手を突っ込んではパシャパシャと散らす息子の様子を見て、私は来て本当に良かった、と思ったものだ。
例え夜眠れなかろうが、すぐにどこかに走って行ってしまって、洗濯すら息子を抱っこ紐でおんぶしていないと出来ない状況だろうが、毎日がとても楽しかった。
仲良くしてくれた子供たち三人の存在もとっても大きかった。
すごく息子のことを構ってくれて、私とも仲良くしてくれたのだ。

ちなみに私はこの保養施設の滞在期間である10日のうち3日目から既に「皆がご飯を食べる為の部屋であり、キッチンと繋がっている広間」の方に布団を敷いて寝かせてもらっていた。
同室である親子の方たちはとても良い人たちだったけれど、あまりにも息子が寝ないのと、抱っこ紐で立ってゆらゆらするスペースがその部屋にはなかったからだ。
職員の方に頼んで、その部屋で寝かせてもらえるようにしてもらっていた。

夕食を食べ終わりその片付けや、シャワーが終わると、子供たちはその広間で、用意された折り紙や、色塗り、お絵かき、お喋りなんかを楽しんでいた。確か木で出来たドミノやトランプ、けん玉、色々なものが用意されていたのを覚えている。
消灯時間がやってくるまでは、そんな子供たちを少しの時間ボランティアさんたちが見てあげたり、一緒に遊んであげたりなんかしていた。
お母さんたちはその間、洗濯や(二個の洗濯機と、二個の乾燥機が用意されている。外にも昼間干す場所がちゃんと用意されている)その日一日で使ったものの片付けなんかをする。
子供たちのことは基本的に母親が見て、どうしても手が足りない時だけボランティアさんが手伝ってくれる、と言う決まりがあったし、ボランティアさんたちも食事の用意や、海に行くなら麦茶や日よけの準備、ライフジャケットの準備、その片付け、たくさんのことを少ない人数でやってくれていた。
なのにうちの息子は保養施設内を走り回りすぐに私の前から消えてしまう。
保養施設内では出来るだけ抱っこ紐で抱っこをしていた。

私は思ったのだ。
原発事故の後で、差別と偏見ばかりに会ってきたと思っていたけれど、こうして「助けようとしてくれている人」が居たと言うことに気づいて、私は周り全ての人を「敵だと思ってしまっていた」と言うことに。
あまりにもたくさんの残酷な現実にまみれて、心はどす黒く濁ってしまっていた。
こんなに、私より全然若い大学生の子たちが、私たち福島の母親と子供の為にボランティアをしにこの島に来ている。
ボランティアに参加しているおじさんや、おばさんもだ。
自分達の生活の合間を縫ってこの保養施設に、私たちを手助けする為にやってきたのだ。
もちろん自腹なのだ。すごいことじゃないか。
「支えようとしてくれている人がいたこと」に気づくと、私の世界はさらに色づいた。
息子が産まれて、真っ黒から少し色をもった世界は、また少しずつ色を取り戻しはじめた。
命が色づきはじめるのを感じ、気持ちがメラメラと炎をあげているように、私は力強く息を吹き返す。

ある日の消灯時間の後。
広間の電気だけはつけられたまま、他の親子たちが寝ている部屋の電気は全て消される。
そして、子供たちを寝かしつけた後のお母さんたちが広間に集まりはじめる。
子供たちが眠ってからは、集まるお母さんたちはお酒を飲んでもいいし、子供には禁止されているオヤツを食べても良いことになっていた。
起きている職員さんやボランティアさんたちも一緒に集まって来て、色々な話をするのだ。

着いて一日目の夜、子供たちが寝た後のこの集まりでは「自己紹介」があったらしいのだが、私は「自分の自己紹介なんて絶対にしない」と決めていたので、出なかった。
出身地も、今住んでいる場所も、自分がどういう人間かも、何が理由でこの保養に参加しようと思ったかも、何一つ誰にも明かす気はなかった。
だって私は「沖縄に息子と一緒に来たかっただけ」なのだから。
他のお母さんたちが自己紹介で言うであろう「放射能が…」とか「甲状腺が心配で…」とか、そんな話を聞くのは堪えられないと思った。
私は「原発がある町から来た」のだ。
どうせ「責められている」ような気分になるに決まっている、と思っていた。
それに普通に疲れていて無理だったのと、息子が寝なさ過ぎてひたすら抱っこ紐で抱っこしてゆらゆらしつつ真っ暗な廊下をウロウロしていた為だ。

しかしこの日は、この保養施設の設立者の方もこの夜の相談会に参加していた。
私は話は聞かないようにして(むざむざ傷つきたくはない)、息子のミルクを作り、広間の端っこに作られた、私と息子が寝る為の場所にしゃがみ込むと、息子の寝かしつけを始めた。(息子に逃げられないように、抱っこ紐で抱っこしたままミルクをあげるしかないのだ)

子供たちの消灯時間は確か9時だったと思う。
それから2時間くらい、お母さんたちは福島県に住んでいて何が不安なのか、放射能が怖いとか、甲状腺がんが心配、など、色々な話をする。
時には今日行った場所はとても良かったとか、そういうお話をすることもあっただろう。
息子が抱っこ紐の中でうつらうつらとし始めた時間に、どうやらお母さんたちの相談会もお開きになったようだった。

すると最後に、と言った感じで、この保養施設の設立者の方が「お母さんたち、賠償金なんかの話は〇〇さんが詳しいからお話を聞くといいよ」と言った。
どうやら今日は「東電から賠償金をもらう」為の話でもしていたらしかった。
私は心から「ケッ」っと思った。
故郷も住む家もあるやつがどうして「賠償金」が必要なわけ?
と、とてもひねくれたことを考えた。
けれど、彼女たちは皆「放射能を恐れていて」「出来れば子供に悪い影響が与えられることのないように、遠くに避難したい」と言う想いを持っているのだろう。
どうしてそんな不安な気持ちになったのかと言うと、それは確かに「東京電力」のせいなわけだ。
何もかも、あの原発事故が原因だからだ。

そんなことを考えていると、何人かのお母さんたちは〇〇さんの話すことをメモしたり、何か相談したりしては、話が終わると自分の子供の眠る部屋へと帰って行った。
だいぶ人がいなくなった広間で、やっと抱っこ紐の中で眠った息子の顔を眺めていると、〇〇さんが話しかけてきた。
この〇〇さんとは、食事をとる班が一緒で、下の男の子が息子と同じ年齢だと言うこともあり、会うとわりと仲良くお話をしていた。
〇〇さんは「双葉さんは賠償金どうするの?郡山?会津?いわき?」とか、そんなようなことを私に聞いてきたと思う。
そもそも築き上げてきた仕事での地位や、大切に想っていた家や土地を失ったのは父なので、賠償金の話なんて私には関係なかった。
なので私は「賠償金の話は、私はいいです」と答えた。
すると〇〇さんは「でももらわないとダメだよ、自主避難とかする時に使えるよ」と、とても熱心に優しく話しかけてきてくれた。
〇〇さんは福島市だと言っていた。
私からしたら、とても申し訳ないが、原発からはとても離れているじゃないか、と感じてしまったのだった。
〇〇さんがもう一度私に「震災の時どこに住んでいたの?」と聞いて来た。
私はとうとうそこで、もういいか、と思い「大熊町です」と答えてしまった。
すると、〇〇さんは「ああ、…」と何か納得したようにうなずいて、「そうなんだね」とだけ答えると、暗い廊下へと消えて行った。

私は大きなため息をつくと、息子の寝顔に視線を戻す。
私と息子の住民票を、はやく郡山に変えなければ、なんて考えていた。
幼稚園に入る前には変えないと、色々大変だろうな、なんてことを思っていた。

私もこのまま座って寝ようかな、と思っていたら、広間に残っていた保養施設の設立者の方が、私の名前を呼び、自分が座っていたテーブルに、片付けられて上にあげられていた椅子のひとつを床へと戻した。
「双葉さん、ちょっとお話いいかな」
とかそんな感じのことを言われたと思う。
私は、息子も寝ていることだし、少しくらいなら大丈夫そうかな?と思い「なんでしょうか?」と、その保養施設の設立者の方の側へと向かった。

せっかくだが用意して下さった椅子には座らなかった。
息子が起きたら大変だからだ。
彼がレコーダーをテーブルの上に準備しているのを見て、立って揺れたままの方が良さそうだと思った。

「双葉さんのお話を聞かせて頂いて、記事にしても大丈夫そうかな?」

確かそんな風に、事前確認をとってくれたように思う。
そして私は、住んでいた故郷をどれだけ愛していたか、震災の時は何をしていたか、原発事故の際はどこにいたか、避難生活で一番苦しかったことは何か、…そして、息子だけが私の今の生きる希望であるか、などと言うことを聞かれるままに話した。
けっこう色々と聞かれ、長く話したので、話の途中で息子が少しむずがることがあったが、彼は何一つ気にしてはいないようだった。

このレコーダーに録音された言葉の全てを私はもう忘れてしまった。
記事は雑誌になった時に送ってもらったので、私の部屋のどこかにはあるのだろうが、あまりにも昔のことなのでADHDが炸裂している私の部屋から見つけ出すのは困難を極める。
なのでやらん。

ただ、このレコーダーにおさめられているであろう、とても短いやりとりだけを私は強く覚えている。
「震災の津波や原発事故の様子をテレビなんかで見ると辛い?」
と言うようなことを聞かれた時

「私が死ねば良かったのにとずっと思っていました」

と答えた。
そしたら彼はとてもはしゃいだのだ。
「生き残った人は何故か、みんなそんなことを言うんだよね」
なんて言って面白そうに笑っていた。
私はせめて心ん中で笑って外面は偽ってくれ、とそれだけ思ったのを覚えている。
そして、彼のことどちらかと言ったら好きなのだが、この「笑ったこと」だけは許せないな、とそれだけの感情をぼんやりと今でも持ち続けている。
笑った意味は、今でもわからない。
不思議な感情だ。

ところでこの保養所なのだが、敢えて名前を出さないのには理由がある。
私はこの保養所にとても感謝しているのだが(その後何度も保養に参加したし、自腹の旅行でも訪れたし、とても楽しくかけがえのない時間をたくさん過ごしてきた場所だからだ)、この保養所を設立した人がとある問題を過去に起こしていたことを指摘され(訴えられたんだったかな。忘れたけど。私はとくに気にしていないので)、他の人にその保養所を任せて、ご自分がやってらっしゃったジャーナリストの活動も辞めてしまったからだ。
彼のことが嫌いなわけではないのだが、「勘違いをすることがある」人だったのだ。そのせいで起こしてしまった事件なのであろうな、と言うことは容易に想像がつくのだ。
まあ、ネットやSNSで名前を出すとなんだかんだ面倒なことになりそうなのでその人の名前もとくに書くことはないけれど、まあ、人生色々あるよねって感じだ。
彼には心から感謝している。
私にとってはそれが全てだ。

国道六号線。
アクリル画。


この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!