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母たちの祈り

双葉うた子。

読む人は少ないにこしたことのないようなnoteだと判断したので(もともと多くはないけども)、なんか新しいnoteの記事後でアップ出来たらしようと思う。
どうせやたらと長いので読まれないとは思うのだが。

だがすまん。内容は特別変わらない。
3月11日が近づいてくると、私は自然と東日本大震災と原発事故で故郷を失ったことや、差別や偏見にさらされた日々を思い出し、調子が狂ってしまうので、そう言う関係の話となる。
書くことでしか発散できないので、今や私のnoteは自分の身に起きた様々な出来事で散乱しまくっていて我ながら統一感がないなと思う。
かぶっている内容もとてもたくさんあるし。
まるで私の頭の中のようだ。

今回はちょっと、とある夏の出来事を書こうと思う。
過去に私と息子は、普通に「めちゃくちゃ風評加害」だと言われて叩かれまくったりもしたドキュメンタリー番組に出演している。
けれど、私は素晴らしい出来だと思っている。

息子が4歳から5歳くらいだった頃だと思う。細かい年齢は忘れてしまったのだが、だいたいそのくらいの時だった。
昨日も書いたのだが、私は基本的に原発の賛成派でも反対派でもない、と書くことにしている。
ただ、福島は福島だし、「フクシマ」と書いて、チェルノブイリと合わせてカタカナ表記されることには少し違和感があった。
しかし、この番組のタイトルは
「母たちの祈り~フクシマとチェルノブイリ~」
だった。
私がそのタイトルを知ったのは、放映される内容も決まり、DVDになって放映少し前に私に内容確認の為に私の手元へと送られてきた時なので、もう今更文句をつけるようなことは出来なかった。
それに、そう言うものなのだろう、ひとの目に止まるようにするには必要なことなのだろうとも思った。

今の私は、大熊町の中にも復興している地区があることを知っているし、それを嬉しいと思っている。
放射能とか放射線とか汚染廃棄物とか、汚染水のことは何も書かないし言わない。
今までも自分の原発に関しての考えや思想は発信してこなかったし、これからも発信することはない。
息子を、私と言う「原発事故の際に避難してきた母親」がいると言う事実により起こりえる、様々な偏見や差別から守る為にも、私はそのやり方を貫いて行くことにしたのだ。

それを大前提としての話なのだが、私たちはチェルノブイリ原発事故の後に、ベラルーシのミンスクと言う街に設立された「希望(ナデジダ)」と言う名の、子供たちの保養施設へと訪れることになった。
私と息子が、とあるドキュメンタリーテレビ番組の撮影の中に出てくる「登場人物」に選ばれた為だ。

チェルノブイリ原発事故については、Wikipediaからとりあえずコピペしとく。↓

「チェルノブイリ原子力発電所事故」
チェルノブイリ原子力発電所事故は、1986年4月26日午前1時23分に、ソビエト社会主義共和国連邦の構成国、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた原子力事故である。のちに決められた国際原子力事象評価尺度では深刻な事故を示すレベル7に分類された。
原因: 制御棒など根本的設計の欠陥; 運転員への教育が不十分だった; 特殊な運転を行ったために事態を予測できなかった; 低出力では不安定な炉で低出力運転を続けた; 計画とは異なる状況になったが実験を強行した; 実験のために安全装置を無効化した。
被害者: 強制移住等:数十万人以上
日付: 1986年4月26日
概要: チェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた原子力事故。

と言う感じの事故。
被害者、強制移住などが数十万人以上いる。

私ははじめ「ベラルーシでの撮影」に関して出演をお願いされた時に、一度断った。
息子の発達障害がわかったところだったし、正直何度か自分の書いた文章が雑誌に載っているのを見て、読んで「私は原発事故を語ることに向いていない」と思っていたからだ。
なんたって私は「原発事故での健康被害」について、「とても不安でたまらない」なんてことは書かないからだ。と言うか、書けないのだ。
私がいつも書くことは、故郷への想い、避難の最中に起こった悲惨な現状、そして息子と言う希望。
けれど、雑誌の発行者であったジャーナリストの方としては「一度目の産婦人科で原発事故の被災者故に堕胎する為の紹介状を渡された事実のある私が、やっとの想いで出産をし、息子と言う希望が出来た」と言うネタをとても気に入っていたのではないかと思うのだ。
感動ポルノ的なアレだと思う。
そして何よりも、私が「故郷への想いが尋常じゃない」文章を書く、と言うところが、読み手の方の「同情を誘いやすい」「共感しやすい」のではないか、と考えたのだろうと勝手に推察している。
そこは別に大した問題ではないのでまあいい。

とりあえず私は、何度か雑誌の撮影と文章を書くことを承諾してきたが、もう私が伝えることが出来るようなことは、残っていないと思っていた。

私は「放射能による健康被害が心配」であると言うことや、「甲状腺がんが心配だから検査を受けさせたい、積極的に自主避難で福島から離れ、なるべく遠くへ行きたい」と言うようなことを言ったり書いたりする担当ではなかった。
そのような内容は、何回目かの沖縄の久米島にある保養施設で一緒になった、双葉町に住んでいたお母さんが担当してくれていたように思う。
私が担当していたことは何度も書くが、主に「原発事故によって故郷を失う絶望感」と「故郷への想い」と「避難生活で起きた悲惨な出来事」、そして「息子と言う希望」の、この三つだ。

もういいかな、と思っていた私だったが、上記に出てきた、原発事故当時双葉町に住んでいたお母さんが、私に「ベラルーシに行こう」と、何度も誘ってくれた。
「双葉ちゃん達も行くなら、私も安心だから、一緒に行こう」と、何度も電話をくれた。
この双葉町のお母さんには(もちろん今は避難先で暮らしている)、小学生のお姉ちゃんと、私の息子と同じ年齢の息子くんがいた。
結局私は、何人かに説得され、この「ベラルーシでの撮影」に参加することを決めた。

それ以前に行われたインタビューや撮影も承諾し、沖縄の久米島にある保養施設での撮影、郡山での私単独でのインタビューや撮影があった。
その時の撮影班の方々と、若い女性のディレクターの方と、沖縄の久米島にある保養施設とベラルーシのミンスクにある保養所の設立に関わった方と、双葉町に住んでいた母親とその娘ちゃんと息子くん、それからいわきに住んでいた母親と、その娘さん2人(小学生高学年)と共に、真夜中の12時頃の飛行機に乗る為に、羽田空港内のホテルへと夕方くらいにチェックインした。

真夜中の12時頃からの飛行機でのフライトで、約12時間ほどかかっただろうか。
飛行機の指定された席にはテレビがついており、日本でやっているアニメが流れていた為、息子は大人しくしていてくれた。
確かクレヨンしんちゃんの映画とか、ポケモンだったと記憶しているんだけど、どうだったかな。
クレヨンしんちゃんの映画は最新の映画がやっていて、息子釘付けで助かっていた。
この時点で、私たち親子は二人で何度も沖縄への旅行をしてきていたので、飛行機には慣れていたのだと思う。

飛行機の中で、朝と夜を体験。

しかし、途中フランクフルトだったと思うのだが、どこだったっけな。ドイツだったと思うんだけど、違うかもしれない。
写真だけじゃどこの空港なのかさっぱりわからないんだけど、こんな感じの雰囲気の空港。

どこだろここ。

とにかく乗り換えがあって、時差ぼけもあり、息子の機嫌が悪くなって来てしまい、ここからは全て片腕で息子を抱っこしながら手続きや移動をしなければならなかった。普通に疲れ果てた。

そして最後にたどり着いたミンスク国際空港と言う小さな空港から、今度はバスに乗っての移動となった。
この、バスに乗る前あたりから撮影がはじまった。

保養施設である「ナデジダ」までの道のりの間、私は疲れすぎていて(眠剤を飲めなかった為に飛行機で眠らなかった)微妙に機嫌が悪かった。
その、機嫌が微妙な部分も撮影されてしまっていたと言う思い出がある。
街を通り過ぎ、どんどんと田舎の風景へと代わって行くバスの窓の外。
そこそこの時間をかけての移動だった。

街中はこんな感じだった。

「ナデジダ」に着くと、たくさんの子供たちと、そこの責任者であろう方が出迎えてくれた。
代表に選ばれたと思わしき男の子と女の子が、ベラルーシの衣装を纏って前に出てくると、片言の日本語で短い挨拶を告げてくれた。
「ナデジダ」はとてつもなく広い施設で、デトックスに良いと言われるものや、その為の施術を行う施設がそれはそれはたくさん取り揃えてあった。
子供たちが保養中に滞在する為の建物が立ち並び、その子供たちの為に用意された遊具や、森の中にはアスレチックが広がっていた。
そして、本当にたくさんの保養者で溢れていた。

私たちに用意されたアパートのような部屋

ここでの一週間に及ぶ撮影のことや、報道されたドキュメンタリー番組の内容などは、一切書かないつもりなのだが、ひとつだけ書きたいと思っていることがある。だから一切書かない、でないな。すまん。
その一つだけを、下に記そうと思う。
報道を観た人もいただろうし、観なかった人もいるだろう。
きっとこのnoteを読む方は、観なかった側の人が多いのではないかと思う。
そもそも私の文章はクソ長いので、ここまで読んでもらえているのかどうかすらもわからない。
まあそれはどちらでもいい。

このドキュメンタリー番組の中には、私たち「フクシマ」の母と、チェルノブイリ原発事故があった時にまだ幼い子供だった、今母親となった「チェルノブイリ原発事故の被災者であった子供時代を過ごした母親たち」との対談も設けられていた。
私がお話をすることになっていた「子供の頃にチェルノブイリ原発事故の被災者だったお母さん」の喉には、手術を行ったのであろう傷跡があった。
事故の時は生後10か月だったと言う。
放射能を含んだ雨が降っていた中、外に居たとも。
そして、他の「フクシマ」から来た母親たちが対談の場を設けられていたほとんどのお母さんたちの喉には、この傷跡があった。

通訳さんを通して、私がこのお母さんへと話した内容は、まず一つ目が「自分の故郷を失ってしまったご両親の悲しみは、子供たちに伝わってしまうものでしたか?私の息子が大きくなった時、故郷のことを話す機会があるかもしれないので聞いてみたいです」と言うような事だった。
その私の言葉への答えは「両親はとても帰りたがっていました。ここ(避難先)は本当の故郷にはなりえないとも。亡くなるまでずっと帰りたがっていました」と言うものだった。
これは、私の祖父や祖母もそうだったのだ。
祖父は、亡くなるまで何度も何度も「いつになったら帰れるのだ?」と言っていたし、祖母と共に一時帰宅するたびに、どうせ空き巣に入られてしまうとわかっているのに、家の中をせっせと綺麗に片付けるのだ。
私たちのように、「諦めがつかない」のだ。
それだけ長い時間を、私なんかよりもずっとあの故郷で暮らしてきたのだ。そして、再び私が問う番になり「残ってしまった悲しみは、乗り越えられたと思いますか?」と聞いてみた。
すると、そのお母さんはこう答える。
「父は新しい家を建て、庭に木を植えました。そして子供が結婚し、孫が生まれ、そう言ったこと一つ一つが生きて行く支えになったと思います」と、そのように答えてくれた。
そして最後に話すことになった内容は、やはりこのことなのだ。
撮影班の方に促され、私が口を開く。
「原発事故での被災後に妊娠し、はじめて行った産婦人科で出産を断られました。堕胎する為の病院への紹介状を渡されました」と話す。
すると、その対談相手のお母さんは、こう言ったのだ。
「私も妊娠した時に、登録してもらう為にゴメリ(土地名)の病院へ行ったのですが、そこの医師に『誰が許可したのだ?』と言われました。私はとても腹が立ち、医師に『貴方に聞くべきだったの?』と言い返しました」
私はもう、通訳さんの言葉で伝えられるそのお母さんの言葉に、ただただ勝手に涙がボロボロと零れてきて、持ってきていたハンカチでずっと顔を覆っていた。
さらにそのお母さんが言う。
「その後、私が出産したことを知ったミンスクの医師たちはとても喜んでくれました」
とも。
私はただただ、涙を止められないまま「その時、諦めなくて良かったと思います。子供は、こんなに元気に大きくなって、本当に、良かったって…」それだけなんとか伝えると、後はもうただずっと泣いていた。
話してくれたお母さんが目元を拭うのを見ると、さらに涙が次々と溢れ出てきて、止まらなかった。

感動ポルノだろうが、可哀想ポルノだろうが、なんだっていい。
私の身に起こった出来事を、一番悲しかった、一番悔しかった出来事を共有できる相手に、こんなに遠い場所で出会ったと言うこと。
もしかしたら、あの事故の時の日本に居た妊婦さんの中にも、私と同じような想いをした人がいたかもしれないと考えた。
でも、それはわからない。
居たかもしれないし、居なかったかもしれない。
その人が私のようにどこかで発信し、それを私が見つけないとわからないことなのだ。

どうして私や、このお母さんは、医師から「出産を断られた」り、「出産を非難された」、のだろう。
それほどまでに「原発事故」による「放射能」の「健康被害」と言うものは…と、私だって考えなかったわけじゃない。
けれど、その答えは私が発してはいけないこと。
発信しないと自分で決めたことなのだ。

私は、福島を「フクシマ」と書くようなドキュメンタリー番組の撮影に協力をした。
内容はともかく「風評加害」と言われるドキュメンタリー番組に「登場人物」として出演した。
だからと言って、それはなんのことはない。
私はどちら側でもない。
そうとしか言えない。

沖縄の久米島にある保養所ですら「大熊町から避難してきた」と言うことはとても言いづらいことだった。
同じ福島に住んでいたとしても、「大熊町」や「双葉町」、他浜通りの一部には、もう決して人が住めるような場所には戻らないであろう土地がある。
腫物のように扱われるのはごめんだし、だからと言って「補償金すごく出たでしょう」なんて言う話をされるのもごめんだ。
私は「風評加害」と言われる番組に出演はしたが、大熊町の中にある復興している地区のツイートなどを見るととても嬉しく感じるし、そこに住まう人々の喜びや悲しみや葛藤なんかも想像してしまう。
故郷から離れて暮らす私ですら、その地区に建てられた新しい建物や人々が住まう地区で行われるイベントなどのちょっとしたニュースを見るのは、胸に鉛玉を抱えるような重たく冷たい記憶の中にチカチカと瞬く、もの哀しくもあたたかな淡い光のような出来事だ。
ただ、差がすごいのだ。
未だに放置されている原発付近の、多分二度と人が住めない地区との。
まさに私の住んでいた家がキレイさっぱり壊されたような地区である、「解体」が「復興」と呼ばれる地区との。

「健康被害」や「汚染水」の扱いについてや、「放射能」について何一つ自分の考えを発信したことはない私だが、このドキュメンタリー番組で「ナデジダ」へ行って、番組で最後に伝えたことは間違えていないと思う。
私はこの「ナデジダ」についてから毎日日記をスケジュール帳に書いていたのだが、それを是非撮影させて欲しいと言われたので、最後の辺りでそのことについて話す機会が設けられた。

日記帳を書く私を撮影しながら、ディレクターの方が小声で「どうして日記を書いているのかを話して下さい」と私に言う。私は素直に答えた。
「ここで出会ったお母さんたちが、自分の哀しかったこととか、辛いことを話してくれるって言うことは、この場所が、そういうことを自由に発してもいい場所なんだな、って言うのがわかったから、そのことをちゃんと残しておきたいな、と思って。そういう場所がある、って言うことを忘れないように」
と、ただそれだけ答えた。

故郷の話をしても、もう二度と戻れない実家を恋しいと言って泣いてもいい、可哀想だと憐れまれるような「被災者」を、普通にやっていても良い場所があるのだと言うこと。
言い方が語弊だらけかもしれないが、正直に「ただただ実家に、故郷に戻れなくなったことや、妊娠を疎まれたこと断られたこと、偏見や差別に苦しんだことを思い出して、落ち込みまくって、しんどそうにしていても良い場所がある」と言うこと。それは私にとって救いだった。
もう今はふっきれました!どうしても忘れられない私の故郷は胸にしっかりと刻んで、それでも今は毎日元気に明るく生きてます!なんて、そんな毎日ばかりではないのだ。
そういう日の方が増えては来ているけれど、確かに辛い日もあるのだ。

このドキュメンタリー番組での撮影でも、私の立ち位置は変わらない。
そういう「役柄」を与えて下さったことには感謝している。
無理やり私にも「放射能」や「放射線」「健康被害が心配」などの言葉を無理に私から引き出そうとしなかったディレクターの方には感謝している。
私の役割をきちんとわかっての撮影だったと思う。

私は私の出した答えを貫く。
そしてそれは、私のとる行動とは無関係だ。
知りたいことは知りたい。
ずるいとは思うが、どちらの気持ちもわかるのだ。

例え「風評加害」「福島をフクシマと書くな」と叩かれた番組であろうとも、私は出演して良かったと思っているし、ベラルーシで得たもの全てはとても良い経験となった。

それだけの話。
懐かしい思い出話だ。

チェルノブイリ教会
アスレチック
チェルノブイリ教会
チェルノブイリ教会
着物を持っていき、一人の女の子に着付けをした
(他のは浴衣で元々寄付されてナデジダにあったもの)
この子も喉に嚢胞があるとのこと。
この着物の着付けをさせて頂いた女の子は
この日が誕生日だった。
漫画家になりたいと言っていたので
似顔絵を描いてプレゼントしたら
ものすごく喜んでくれた。
嬉しかった。
保養に来ている子供たちに用意された様々な遊具
こちらも大きなアスレチックになっていた船形の建物。
健康相談があったが、私はとくに相談がなかった。笑
アスレチックで遊ぶ日本から来た子供たちと撮影に協力して下さった母親の子供たち。
チェルノブイリ原発事故で
消えてしまった町の名前が彫られている。
チェルノブイリ教会。
チェルノブイリ教会の側には
広島に落とされた原爆についての石碑?もあった。
こちらがその石碑?
日本語と、ベラルーシでの言葉で書かれている。
2016年5月12日ミンスク市内の民族友好公園にて,サクラ並木の植樹記念式典が行われました。同公園に植えられたサクラの苗木120本は,チェルノブイリ原子力発電所事故30年と東日本大震災5年に際し,日本とベラルーシの友好の証として日本のJT社(日本たばこ産業株式会社)よりベラルーシに寄贈されたものです。さらに30本の苗木がベラルーシハイテクパークにも贈られました。
の、桜の木。
帰りの飛行機の乗り換えの前に
撮ってもらった写真。

帰りの記憶がほとんどない。
ただただこの撮影で他に思ったことと言えば、こんなに莫大な時間インタビューを受けたり撮影を行ったりしても、使われる分と言うのは本当にイイトコだけなんだな、と言うことだ。
いやはや大変だったし、ベラルーシに滞在していた間中、この番組を作った方(多忙で日本に残った方がいたのだ)にはめちゃくそ文句をラインで送りまくってしまっていたなと言う記憶。
本当に申し訳ないことをしたなと思う。
それと、この撮影の旅の提案者であるジャーナリストの方はとある過去の問題を叩かれ(いや元々風評加害と言われて叩かれてもいたが)今はあらゆる活動を辞めてしまっているので、この番組はもう再放送されないことかとも思う。

まあ仕方ない。叩かれた問題については私は何も興味はない。彼の味方も多くいて「そんなの嘘だ」と言うが私は普通にその問題に対して、やはりなんとも言えない。
私からしたらとても感謝している好きな方なので、コロナがいつか収まったら息子と会いに行こうと思っている。
心から敬愛している部分もあり、すごいことを為し遂げてきた方であると言うことも事実だからだ。
ただもう年齢も年齢なので、なるべく長生きして欲しいなあ、と心底思っている。

そんなわけで全体的にはすごく良い思い出になったので、私としてはベラルーシに行って本当に良かったと思っている。
そして、そのことすらも非難され、偏見でもって観られたとしても、私は「自分で決めて、撮影に参加した」のだ。
だからあまりへこまないように、感想なんかは検索しないことにしていた。

まあ、今となっては昔のお話であって、こんな出来事があったな、と言う思い出話である。
私の心に深く深く残った、そう言う思い出話なのである。

思い出を血肉にして生きる。





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